dom2015のプロフィール
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厚生年金加入時に初診を受けた精神科がどこもカルテを破棄しており初診日認定が難しく精神障害年金申請に無理があるようです。現在無職になり国民年金加入(免除)での精神科ですと初診日も診断書も取れるので障害基礎年金を申請するほうが無難でしょうか?できれば障害年金を申請したいのですが。 障害年金を申請して判定が障害基礎年金になることがありますか? よろしくお願いします。
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- ゆとり教育を受けた人が何故非難されるのでしょうか。
これはかなり前から思っていた事ですが、最近同年代にもこの様な意見を持つ方が多くなって来ているそうなので私も質問しました。 私は、昨今の若者を「ゆとり」として全体的な意味も含ませて批判する人に違和感を覚えます。この問題に関しては「若者=ゆとり。こんな教育を受けた若者が悪い」 「この教育制度を作った人が悪い」 この2つに意見が分かれていると思いますが、私は後者側の意見を支持しています。私も及ばずながら「ゆとり教育」に関して色々調べて見たら自然と後者側の意見を支持する様になりました。そもそも日本のゆとり教育の前身の制度であった「詰め込み教育」に課題を踏まえてゆとり教育に変わっていったそうですね。それでゆとり教育は1980年度~2014年度まで続くそうですが、様々なデータから俗に呼ばれる「ゆとり世代」は現教育を受けている15歳から一端の会社員の26歳までの事を言うかと思います。ゆとりとは、主に「融通が利かない」・「社会に対して甘い考え」などの事を指しているかと思いますが、私は非難されるべきは子供では無くこの教育制度を作った臨教審やゆとり世代を育てた人間にあるかと思います。子供は親や社会にそれを学び、育ちます。つまり子供が育った結果が社会の表れで、その集合体が社会になっていくんだと私は考えています。勿論、繰り返すようですが子供が育つには過程がありますが、その過程に親や社会があります。その過程を変えていくことが、未来のよりよい教育制度の確立に繋がると私は考えているんですが、その現教育制度で育った結果である青少年のみを事あるごとにただ非難する事だけの人間は間違っていませんか?本来、私はゆとりという言葉を使うのはこの教育を受けた人間で戒めの様にしてお互いを励まし合う事が正しいと思います。私は事ある毎にゆとりとして若い人を非難する人は何処か「韓国」「中国」と聞いただけで過敏に反応・非難する右翼に似ている所があると思います。ですが勿論、批判されるべき対象は何処の時代にもあるかと思います。それがゆとり教育を示唆すべき点では無く、ただ一人の「若者」として非難されるべきだと思います。なので私は以下を結論としています。 ・俗称である「ゆとり」とは元来、若者のマイナス・批判の材料として使うのでは無く、若者同士が「こんな教育で育ったからって甘えるな」等の意味合いを込めて戒めとして使われるべきだ。 ・「ゆとり」として批判するべきでは無く、以前から使われていた「若者」として言葉を変えていくべきだ。 ・ゆとりとして批判するだけで終わらず、話を社会や教育制度に持って行くべきだ。 長々と持論のみを展開しましたが、私のこの意見を皆さんはどう思うかとても気になります。私は先ほど、とある傷害事件の犯人が「24歳・無職」との理由でネットで「ゆとり」とひたすらに非難する人が居たので上記の事を聞いてみたら「制度を批判するのはゆとりの証拠」と一蹴されました。その後すぐ消えてしまったので、何とも言えずモヤモヤした気持ちが続いています。この持論を見て、どんな意見でも構いませんので皆さんが率直に思った事と意見、年齢を添えてご回答いただけると嬉しいです。
- いつまでも非リアなのは身の程をわきまえないからか
私は現在、MARCHの大学院生をしています。 以前は規模・待遇共にそこそこの会社に勤めていました。 その前は無名私大で、いわゆる「意識の高い学生(笑)」を 務めていました。今思えばただのごっこ遊びです。 更にその前は、勉強もスポーツも恋愛もまるで駄目の、 スクールカーストの底辺として小中高12年間を田舎町で 過ごしていました。もとい、高校時代はリア充グループの 金魚の糞、いわゆるキョロ充でした。 無名私大でゼミの後輩相手に「意識の高い学生(笑)」 として振る舞い、大学のレベルからすれば十分恵まれた 企業から内定を得た時には、底辺だった自分が生まれ 変われたような気がして、正直舞い上がっていました。 しかし、就職後、同期の高学歴リア充達との摩擦や 上司によるパワハラ、業務への相性の悪さなども相まって 退職に追い込まれました。 退職する前、比較的優しかった上司には 「お前に足りないのは世間知だ。いろんなバイトをやって、 それから次の進路を決めろ」と言われました。 また、父には「実家に帰って、親戚の○○さんが店長 やってるコンビニで働いたらどうだ」と言われました。 私は馬鹿にされていると感じ、内心憤慨しました。 そして、「自分が就職後に失敗した原因は学歴や知識が 足りなかったせいだ」と考え、大学院へ進学しました。 そして今、その選択が間違っていたと薄々感じています。 上司や父のアドバイスが正しかったのではないかと。 私は、心のどこかで、自分がリア充で学歴もあって 勉強や仕事もできて、みんなから尊敬される人格者に なりたいという気持ちがあるのだと思います。 それは、小中高12年間の抑圧された経験と、ちょっと 努力すれば認められた学部時代の経験によるものだと 思います。また、元々、承認欲求の強い性格である ことも要因の一つなのでしょう。 でも、それはきっと無理です。無理だから、自分の 身の丈に合った幸せを手にするしかない。普通の人は 高校生くらいでこの現実に気が付き、行動します。 実際、私と同じようにスクールカーストの底辺だった 仲間たちも、22歳を過ぎれば彼女の一人くらい 作って、彼らなりの仕事に就いて、分相応に幸せに なっています。高学歴でも、人に自慢できるような 会社でもない、彼女も地味だけど、今の私より 格段に幸せです。 私だけが、地元のリア充グループに頭を下げ、身の丈に 合わないかわいいの女の子を紹介して貰い、振られ続けて 未だに女性と付き合えずにいます。 元々、無能でスクールカーストの底辺だった私にできる 事なんて限られています。おとなしく地元のスーパーか 何かで働くのが関の山だと思います。そこで同じように さえない仲間を見つけて、コミュニティの一員となり、 身の丈にあった女性にアプローチをする。 これが私にできる精一杯の幸せなのでしょう。 ただ、それは努力の否定、競争社会の否定でもあります。 実際、私はいま、ハイレベルで最先端の学術機関に所属 していることも事実です。大学院の雰囲気に気圧され、 弱気になっているだけかもしれません。 大変長くなりましたが、「私が幸せになれないのは 身の丈に合わない理想ばかり思い描いているからだ」 という仮説について賛否の程、お願いします。
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