amenhotep2000 の回答履歴

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  • 正義と都合の区別

    こんにちは。 少し前に”正義”を掲げる者に対し、「絶対の正義など無いのだから独りよがりは止めなされ」という様な趣旨の主張が横行していた様に思います。 仮にこう主張する者をA派と呼びます。 最近あまり聞かないのは、そう主張する事の愚かを知ったのか、そう主張された方が愚かを悟ったのか、あるいは他の何かか。 これだけ思考停止で右へ倣えしていれば安心する民族性の中、その民族性どっぷりのステレオタイプの言うレベルの低そうな”正義”であればいとも簡単にA派の主張が”正の座”を獲得できそうですが、当時A派がネット上で議論していた内容は正義と個人の都合の区別すらついていないようなとても低劣な印象を受ける内容が多かった様に記憶しています。 まあネット上で活発に議論している人たちの多くはあまり頭、もしくは精神が強くないタイプも多いでしょうから、そういうのばかりが目につきやすい確率性を考慮すれば熱心にレベルの高い内容を探した訳でもない私の目にそういう低レベルなやりとりしか入ってこなかったのも無理は無いと思います。 さて、こういう経緯により、私は漠然とA派を心が弱くて自分の心が歪んでしまっているのを正当化したい一心でその主張が社会にどのような影響を及ぼすかを考えられないとても自己中で惨めな発言者という印象を持っています。 正義とは これを簡単に答える事はもちろんできないのかもしれませんが、我々の日常に横たわっている我々の目に映る範囲にある善悪などは当事者で話し合えばそれほど難しい区別ではないものがとても多いと思っています。 それを議論するスキルがないから、あるいは議論したら自らの悪性を自他共に認め受け止めなければならなくなる等の下らない理由から議論をせず、自己正当化という自己欺瞞を持ち出して来て「正義など立場に寄って変わる」という主張をするに至っていると私は見ていました。 潔く、現状正義ではないとしてもより正義であろうとし、誠実であろうとし、愛他精神を養い、そのための自己犠牲精神を養いしようと努めている者同士が対話するなら、話し合いにそれほど苦慮はしないケースが圧倒的に多い筈だと思っています。 それをせずに半ば欲望のままに生き、正義の実行よりは利益の追求をするような精神性の人間が何人集まろうと、その人たちがどれだけの学歴を持っていようとろくな結果にはたどり着けないのは私から見ればしごく当然のリンゴが枝から離れれば地に落ちるという位の必然です。 そんな人が多い中「正義など立場に寄って変わるもので、そんなものは幻想だ」的な発言をされても全く関心が持てないので耳を傾けずに通り過ぎてきました。 最近A派の主張を私が耳にする事が無くなって来たのはA派の愚かの多くが露呈したのか、正義を掲げるものがA派を認めて受け入れて世の中のある程度の地位を確立して主張する必要がなくなったのか、双方”答え”に至る事ができずに何も明らかになっていないまま争いを好まない為に放置されているだけなのか、etc。 まるで世の中には100:0の概念しか無いかの様な「100%の正義なんてありえない」で結論となる議論も私には意味がわかりません。 3:7ならおのおの3と7の分だけ改めるべきものがあったという事が解る訳でしょう。 それならどちらが正義だとかという不毛な対話から離れて先ずはおのおのの3と7を改めるのが強いて言えば正義ではないでしょうか。 A派の主張が”正”となるケースもあるでしょう。 でも結局世で発言している大多数のA派は私から見ると100:0の見方しかできない本質からかけ離れている知能レベルの人たちに見えています。 見ていて不愉快なだけなのですが、皆さんはどう思っていらっしゃいますか? お酒を飲みながら気軽に書き込んでしまっているので、文面がおかしかったりなどしたら申し訳ありません。 内容が内容だけに熱く返してくださる方の存在もあるかもしれませんが、一方通行な勢いだけの理を感じない、対話の成功の可能性を私が期待できないタイプの発言は無視させて頂きます。 余白といいますか、ゆる~くと言いますか、ナローマインド的なやりとりではなくオープンマインドなやりとりを期待しています。 よろしくお願いします。

  • 正義と都合の区別

    こんにちは。 少し前に”正義”を掲げる者に対し、「絶対の正義など無いのだから独りよがりは止めなされ」という様な趣旨の主張が横行していた様に思います。 仮にこう主張する者をA派と呼びます。 最近あまり聞かないのは、そう主張する事の愚かを知ったのか、そう主張された方が愚かを悟ったのか、あるいは他の何かか。 これだけ思考停止で右へ倣えしていれば安心する民族性の中、その民族性どっぷりのステレオタイプの言うレベルの低そうな”正義”であればいとも簡単にA派の主張が”正の座”を獲得できそうですが、当時A派がネット上で議論していた内容は正義と個人の都合の区別すらついていないようなとても低劣な印象を受ける内容が多かった様に記憶しています。 まあネット上で活発に議論している人たちの多くはあまり頭、もしくは精神が強くないタイプも多いでしょうから、そういうのばかりが目につきやすい確率性を考慮すれば熱心にレベルの高い内容を探した訳でもない私の目にそういう低レベルなやりとりしか入ってこなかったのも無理は無いと思います。 さて、こういう経緯により、私は漠然とA派を心が弱くて自分の心が歪んでしまっているのを正当化したい一心でその主張が社会にどのような影響を及ぼすかを考えられないとても自己中で惨めな発言者という印象を持っています。 正義とは これを簡単に答える事はもちろんできないのかもしれませんが、我々の日常に横たわっている我々の目に映る範囲にある善悪などは当事者で話し合えばそれほど難しい区別ではないものがとても多いと思っています。 それを議論するスキルがないから、あるいは議論したら自らの悪性を自他共に認め受け止めなければならなくなる等の下らない理由から議論をせず、自己正当化という自己欺瞞を持ち出して来て「正義など立場に寄って変わる」という主張をするに至っていると私は見ていました。 潔く、現状正義ではないとしてもより正義であろうとし、誠実であろうとし、愛他精神を養い、そのための自己犠牲精神を養いしようと努めている者同士が対話するなら、話し合いにそれほど苦慮はしないケースが圧倒的に多い筈だと思っています。 それをせずに半ば欲望のままに生き、正義の実行よりは利益の追求をするような精神性の人間が何人集まろうと、その人たちがどれだけの学歴を持っていようとろくな結果にはたどり着けないのは私から見ればしごく当然のリンゴが枝から離れれば地に落ちるという位の必然です。 そんな人が多い中「正義など立場に寄って変わるもので、そんなものは幻想だ」的な発言をされても全く関心が持てないので耳を傾けずに通り過ぎてきました。 最近A派の主張を私が耳にする事が無くなって来たのはA派の愚かの多くが露呈したのか、正義を掲げるものがA派を認めて受け入れて世の中のある程度の地位を確立して主張する必要がなくなったのか、双方”答え”に至る事ができずに何も明らかになっていないまま争いを好まない為に放置されているだけなのか、etc。 まるで世の中には100:0の概念しか無いかの様な「100%の正義なんてありえない」で結論となる議論も私には意味がわかりません。 3:7ならおのおの3と7の分だけ改めるべきものがあったという事が解る訳でしょう。 それならどちらが正義だとかという不毛な対話から離れて先ずはおのおのの3と7を改めるのが強いて言えば正義ではないでしょうか。 A派の主張が”正”となるケースもあるでしょう。 でも結局世で発言している大多数のA派は私から見ると100:0の見方しかできない本質からかけ離れている知能レベルの人たちに見えています。 見ていて不愉快なだけなのですが、皆さんはどう思っていらっしゃいますか? お酒を飲みながら気軽に書き込んでしまっているので、文面がおかしかったりなどしたら申し訳ありません。 内容が内容だけに熱く返してくださる方の存在もあるかもしれませんが、一方通行な勢いだけの理を感じない、対話の成功の可能性を私が期待できないタイプの発言は無視させて頂きます。 余白といいますか、ゆる~くと言いますか、ナローマインド的なやりとりではなくオープンマインドなやりとりを期待しています。 よろしくお願いします。

  • 正義と都合の区別

    こんにちは。 少し前に”正義”を掲げる者に対し、「絶対の正義など無いのだから独りよがりは止めなされ」という様な趣旨の主張が横行していた様に思います。 仮にこう主張する者をA派と呼びます。 最近あまり聞かないのは、そう主張する事の愚かを知ったのか、そう主張された方が愚かを悟ったのか、あるいは他の何かか。 これだけ思考停止で右へ倣えしていれば安心する民族性の中、その民族性どっぷりのステレオタイプの言うレベルの低そうな”正義”であればいとも簡単にA派の主張が”正の座”を獲得できそうですが、当時A派がネット上で議論していた内容は正義と個人の都合の区別すらついていないようなとても低劣な印象を受ける内容が多かった様に記憶しています。 まあネット上で活発に議論している人たちの多くはあまり頭、もしくは精神が強くないタイプも多いでしょうから、そういうのばかりが目につきやすい確率性を考慮すれば熱心にレベルの高い内容を探した訳でもない私の目にそういう低レベルなやりとりしか入ってこなかったのも無理は無いと思います。 さて、こういう経緯により、私は漠然とA派を心が弱くて自分の心が歪んでしまっているのを正当化したい一心でその主張が社会にどのような影響を及ぼすかを考えられないとても自己中で惨めな発言者という印象を持っています。 正義とは これを簡単に答える事はもちろんできないのかもしれませんが、我々の日常に横たわっている我々の目に映る範囲にある善悪などは当事者で話し合えばそれほど難しい区別ではないものがとても多いと思っています。 それを議論するスキルがないから、あるいは議論したら自らの悪性を自他共に認め受け止めなければならなくなる等の下らない理由から議論をせず、自己正当化という自己欺瞞を持ち出して来て「正義など立場に寄って変わる」という主張をするに至っていると私は見ていました。 潔く、現状正義ではないとしてもより正義であろうとし、誠実であろうとし、愛他精神を養い、そのための自己犠牲精神を養いしようと努めている者同士が対話するなら、話し合いにそれほど苦慮はしないケースが圧倒的に多い筈だと思っています。 それをせずに半ば欲望のままに生き、正義の実行よりは利益の追求をするような精神性の人間が何人集まろうと、その人たちがどれだけの学歴を持っていようとろくな結果にはたどり着けないのは私から見ればしごく当然のリンゴが枝から離れれば地に落ちるという位の必然です。 そんな人が多い中「正義など立場に寄って変わるもので、そんなものは幻想だ」的な発言をされても全く関心が持てないので耳を傾けずに通り過ぎてきました。 最近A派の主張を私が耳にする事が無くなって来たのはA派の愚かの多くが露呈したのか、正義を掲げるものがA派を認めて受け入れて世の中のある程度の地位を確立して主張する必要がなくなったのか、双方”答え”に至る事ができずに何も明らかになっていないまま争いを好まない為に放置されているだけなのか、etc。 まるで世の中には100:0の概念しか無いかの様な「100%の正義なんてありえない」で結論となる議論も私には意味がわかりません。 3:7ならおのおの3と7の分だけ改めるべきものがあったという事が解る訳でしょう。 それならどちらが正義だとかという不毛な対話から離れて先ずはおのおのの3と7を改めるのが強いて言えば正義ではないでしょうか。 A派の主張が”正”となるケースもあるでしょう。 でも結局世で発言している大多数のA派は私から見ると100:0の見方しかできない本質からかけ離れている知能レベルの人たちに見えています。 見ていて不愉快なだけなのですが、皆さんはどう思っていらっしゃいますか? お酒を飲みながら気軽に書き込んでしまっているので、文面がおかしかったりなどしたら申し訳ありません。 内容が内容だけに熱く返してくださる方の存在もあるかもしれませんが、一方通行な勢いだけの理を感じない、対話の成功の可能性を私が期待できないタイプの発言は無視させて頂きます。 余白といいますか、ゆる~くと言いますか、ナローマインド的なやりとりではなくオープンマインドなやりとりを期待しています。 よろしくお願いします。

  • 正義と都合の区別

    こんにちは。 少し前に”正義”を掲げる者に対し、「絶対の正義など無いのだから独りよがりは止めなされ」という様な趣旨の主張が横行していた様に思います。 仮にこう主張する者をA派と呼びます。 最近あまり聞かないのは、そう主張する事の愚かを知ったのか、そう主張された方が愚かを悟ったのか、あるいは他の何かか。 これだけ思考停止で右へ倣えしていれば安心する民族性の中、その民族性どっぷりのステレオタイプの言うレベルの低そうな”正義”であればいとも簡単にA派の主張が”正の座”を獲得できそうですが、当時A派がネット上で議論していた内容は正義と個人の都合の区別すらついていないようなとても低劣な印象を受ける内容が多かった様に記憶しています。 まあネット上で活発に議論している人たちの多くはあまり頭、もしくは精神が強くないタイプも多いでしょうから、そういうのばかりが目につきやすい確率性を考慮すれば熱心にレベルの高い内容を探した訳でもない私の目にそういう低レベルなやりとりしか入ってこなかったのも無理は無いと思います。 さて、こういう経緯により、私は漠然とA派を心が弱くて自分の心が歪んでしまっているのを正当化したい一心でその主張が社会にどのような影響を及ぼすかを考えられないとても自己中で惨めな発言者という印象を持っています。 正義とは これを簡単に答える事はもちろんできないのかもしれませんが、我々の日常に横たわっている我々の目に映る範囲にある善悪などは当事者で話し合えばそれほど難しい区別ではないものがとても多いと思っています。 それを議論するスキルがないから、あるいは議論したら自らの悪性を自他共に認め受け止めなければならなくなる等の下らない理由から議論をせず、自己正当化という自己欺瞞を持ち出して来て「正義など立場に寄って変わる」という主張をするに至っていると私は見ていました。 潔く、現状正義ではないとしてもより正義であろうとし、誠実であろうとし、愛他精神を養い、そのための自己犠牲精神を養いしようと努めている者同士が対話するなら、話し合いにそれほど苦慮はしないケースが圧倒的に多い筈だと思っています。 それをせずに半ば欲望のままに生き、正義の実行よりは利益の追求をするような精神性の人間が何人集まろうと、その人たちがどれだけの学歴を持っていようとろくな結果にはたどり着けないのは私から見ればしごく当然のリンゴが枝から離れれば地に落ちるという位の必然です。 そんな人が多い中「正義など立場に寄って変わるもので、そんなものは幻想だ」的な発言をされても全く関心が持てないので耳を傾けずに通り過ぎてきました。 最近A派の主張を私が耳にする事が無くなって来たのはA派の愚かの多くが露呈したのか、正義を掲げるものがA派を認めて受け入れて世の中のある程度の地位を確立して主張する必要がなくなったのか、双方”答え”に至る事ができずに何も明らかになっていないまま争いを好まない為に放置されているだけなのか、etc。 まるで世の中には100:0の概念しか無いかの様な「100%の正義なんてありえない」で結論となる議論も私には意味がわかりません。 3:7ならおのおの3と7の分だけ改めるべきものがあったという事が解る訳でしょう。 それならどちらが正義だとかという不毛な対話から離れて先ずはおのおのの3と7を改めるのが強いて言えば正義ではないでしょうか。 A派の主張が”正”となるケースもあるでしょう。 でも結局世で発言している大多数のA派は私から見ると100:0の見方しかできない本質からかけ離れている知能レベルの人たちに見えています。 見ていて不愉快なだけなのですが、皆さんはどう思っていらっしゃいますか? お酒を飲みながら気軽に書き込んでしまっているので、文面がおかしかったりなどしたら申し訳ありません。 内容が内容だけに熱く返してくださる方の存在もあるかもしれませんが、一方通行な勢いだけの理を感じない、対話の成功の可能性を私が期待できないタイプの発言は無視させて頂きます。 余白といいますか、ゆる~くと言いますか、ナローマインド的なやりとりではなくオープンマインドなやりとりを期待しています。 よろしくお願いします。

  • 正義と都合の区別

    こんにちは。 少し前に”正義”を掲げる者に対し、「絶対の正義など無いのだから独りよがりは止めなされ」という様な趣旨の主張が横行していた様に思います。 仮にこう主張する者をA派と呼びます。 最近あまり聞かないのは、そう主張する事の愚かを知ったのか、そう主張された方が愚かを悟ったのか、あるいは他の何かか。 これだけ思考停止で右へ倣えしていれば安心する民族性の中、その民族性どっぷりのステレオタイプの言うレベルの低そうな”正義”であればいとも簡単にA派の主張が”正の座”を獲得できそうですが、当時A派がネット上で議論していた内容は正義と個人の都合の区別すらついていないようなとても低劣な印象を受ける内容が多かった様に記憶しています。 まあネット上で活発に議論している人たちの多くはあまり頭、もしくは精神が強くないタイプも多いでしょうから、そういうのばかりが目につきやすい確率性を考慮すれば熱心にレベルの高い内容を探した訳でもない私の目にそういう低レベルなやりとりしか入ってこなかったのも無理は無いと思います。 さて、こういう経緯により、私は漠然とA派を心が弱くて自分の心が歪んでしまっているのを正当化したい一心でその主張が社会にどのような影響を及ぼすかを考えられないとても自己中で惨めな発言者という印象を持っています。 正義とは これを簡単に答える事はもちろんできないのかもしれませんが、我々の日常に横たわっている我々の目に映る範囲にある善悪などは当事者で話し合えばそれほど難しい区別ではないものがとても多いと思っています。 それを議論するスキルがないから、あるいは議論したら自らの悪性を自他共に認め受け止めなければならなくなる等の下らない理由から議論をせず、自己正当化という自己欺瞞を持ち出して来て「正義など立場に寄って変わる」という主張をするに至っていると私は見ていました。 潔く、現状正義ではないとしてもより正義であろうとし、誠実であろうとし、愛他精神を養い、そのための自己犠牲精神を養いしようと努めている者同士が対話するなら、話し合いにそれほど苦慮はしないケースが圧倒的に多い筈だと思っています。 それをせずに半ば欲望のままに生き、正義の実行よりは利益の追求をするような精神性の人間が何人集まろうと、その人たちがどれだけの学歴を持っていようとろくな結果にはたどり着けないのは私から見ればしごく当然のリンゴが枝から離れれば地に落ちるという位の必然です。 そんな人が多い中「正義など立場に寄って変わるもので、そんなものは幻想だ」的な発言をされても全く関心が持てないので耳を傾けずに通り過ぎてきました。 最近A派の主張を私が耳にする事が無くなって来たのはA派の愚かの多くが露呈したのか、正義を掲げるものがA派を認めて受け入れて世の中のある程度の地位を確立して主張する必要がなくなったのか、双方”答え”に至る事ができずに何も明らかになっていないまま争いを好まない為に放置されているだけなのか、etc。 まるで世の中には100:0の概念しか無いかの様な「100%の正義なんてありえない」で結論となる議論も私には意味がわかりません。 3:7ならおのおの3と7の分だけ改めるべきものがあったという事が解る訳でしょう。 それならどちらが正義だとかという不毛な対話から離れて先ずはおのおのの3と7を改めるのが強いて言えば正義ではないでしょうか。 A派の主張が”正”となるケースもあるでしょう。 でも結局世で発言している大多数のA派は私から見ると100:0の見方しかできない本質からかけ離れている知能レベルの人たちに見えています。 見ていて不愉快なだけなのですが、皆さんはどう思っていらっしゃいますか? お酒を飲みながら気軽に書き込んでしまっているので、文面がおかしかったりなどしたら申し訳ありません。 内容が内容だけに熱く返してくださる方の存在もあるかもしれませんが、一方通行な勢いだけの理を感じない、対話の成功の可能性を私が期待できないタイプの発言は無視させて頂きます。 余白といいますか、ゆる~くと言いますか、ナローマインド的なやりとりではなくオープンマインドなやりとりを期待しています。 よろしくお願いします。

  • 正義と都合の区別

    こんにちは。 少し前に”正義”を掲げる者に対し、「絶対の正義など無いのだから独りよがりは止めなされ」という様な趣旨の主張が横行していた様に思います。 仮にこう主張する者をA派と呼びます。 最近あまり聞かないのは、そう主張する事の愚かを知ったのか、そう主張された方が愚かを悟ったのか、あるいは他の何かか。 これだけ思考停止で右へ倣えしていれば安心する民族性の中、その民族性どっぷりのステレオタイプの言うレベルの低そうな”正義”であればいとも簡単にA派の主張が”正の座”を獲得できそうですが、当時A派がネット上で議論していた内容は正義と個人の都合の区別すらついていないようなとても低劣な印象を受ける内容が多かった様に記憶しています。 まあネット上で活発に議論している人たちの多くはあまり頭、もしくは精神が強くないタイプも多いでしょうから、そういうのばかりが目につきやすい確率性を考慮すれば熱心にレベルの高い内容を探した訳でもない私の目にそういう低レベルなやりとりしか入ってこなかったのも無理は無いと思います。 さて、こういう経緯により、私は漠然とA派を心が弱くて自分の心が歪んでしまっているのを正当化したい一心でその主張が社会にどのような影響を及ぼすかを考えられないとても自己中で惨めな発言者という印象を持っています。 正義とは これを簡単に答える事はもちろんできないのかもしれませんが、我々の日常に横たわっている我々の目に映る範囲にある善悪などは当事者で話し合えばそれほど難しい区別ではないものがとても多いと思っています。 それを議論するスキルがないから、あるいは議論したら自らの悪性を自他共に認め受け止めなければならなくなる等の下らない理由から議論をせず、自己正当化という自己欺瞞を持ち出して来て「正義など立場に寄って変わる」という主張をするに至っていると私は見ていました。 潔く、現状正義ではないとしてもより正義であろうとし、誠実であろうとし、愛他精神を養い、そのための自己犠牲精神を養いしようと努めている者同士が対話するなら、話し合いにそれほど苦慮はしないケースが圧倒的に多い筈だと思っています。 それをせずに半ば欲望のままに生き、正義の実行よりは利益の追求をするような精神性の人間が何人集まろうと、その人たちがどれだけの学歴を持っていようとろくな結果にはたどり着けないのは私から見ればしごく当然のリンゴが枝から離れれば地に落ちるという位の必然です。 そんな人が多い中「正義など立場に寄って変わるもので、そんなものは幻想だ」的な発言をされても全く関心が持てないので耳を傾けずに通り過ぎてきました。 最近A派の主張を私が耳にする事が無くなって来たのはA派の愚かの多くが露呈したのか、正義を掲げるものがA派を認めて受け入れて世の中のある程度の地位を確立して主張する必要がなくなったのか、双方”答え”に至る事ができずに何も明らかになっていないまま争いを好まない為に放置されているだけなのか、etc。 まるで世の中には100:0の概念しか無いかの様な「100%の正義なんてありえない」で結論となる議論も私には意味がわかりません。 3:7ならおのおの3と7の分だけ改めるべきものがあったという事が解る訳でしょう。 それならどちらが正義だとかという不毛な対話から離れて先ずはおのおのの3と7を改めるのが強いて言えば正義ではないでしょうか。 A派の主張が”正”となるケースもあるでしょう。 でも結局世で発言している大多数のA派は私から見ると100:0の見方しかできない本質からかけ離れている知能レベルの人たちに見えています。 見ていて不愉快なだけなのですが、皆さんはどう思っていらっしゃいますか? お酒を飲みながら気軽に書き込んでしまっているので、文面がおかしかったりなどしたら申し訳ありません。 内容が内容だけに熱く返してくださる方の存在もあるかもしれませんが、一方通行な勢いだけの理を感じない、対話の成功の可能性を私が期待できないタイプの発言は無視させて頂きます。 余白といいますか、ゆる~くと言いますか、ナローマインド的なやりとりではなくオープンマインドなやりとりを期待しています。 よろしくお願いします。

  • 正義と都合の区別

    こんにちは。 少し前に”正義”を掲げる者に対し、「絶対の正義など無いのだから独りよがりは止めなされ」という様な趣旨の主張が横行していた様に思います。 仮にこう主張する者をA派と呼びます。 最近あまり聞かないのは、そう主張する事の愚かを知ったのか、そう主張された方が愚かを悟ったのか、あるいは他の何かか。 これだけ思考停止で右へ倣えしていれば安心する民族性の中、その民族性どっぷりのステレオタイプの言うレベルの低そうな”正義”であればいとも簡単にA派の主張が”正の座”を獲得できそうですが、当時A派がネット上で議論していた内容は正義と個人の都合の区別すらついていないようなとても低劣な印象を受ける内容が多かった様に記憶しています。 まあネット上で活発に議論している人たちの多くはあまり頭、もしくは精神が強くないタイプも多いでしょうから、そういうのばかりが目につきやすい確率性を考慮すれば熱心にレベルの高い内容を探した訳でもない私の目にそういう低レベルなやりとりしか入ってこなかったのも無理は無いと思います。 さて、こういう経緯により、私は漠然とA派を心が弱くて自分の心が歪んでしまっているのを正当化したい一心でその主張が社会にどのような影響を及ぼすかを考えられないとても自己中で惨めな発言者という印象を持っています。 正義とは これを簡単に答える事はもちろんできないのかもしれませんが、我々の日常に横たわっている我々の目に映る範囲にある善悪などは当事者で話し合えばそれほど難しい区別ではないものがとても多いと思っています。 それを議論するスキルがないから、あるいは議論したら自らの悪性を自他共に認め受け止めなければならなくなる等の下らない理由から議論をせず、自己正当化という自己欺瞞を持ち出して来て「正義など立場に寄って変わる」という主張をするに至っていると私は見ていました。 潔く、現状正義ではないとしてもより正義であろうとし、誠実であろうとし、愛他精神を養い、そのための自己犠牲精神を養いしようと努めている者同士が対話するなら、話し合いにそれほど苦慮はしないケースが圧倒的に多い筈だと思っています。 それをせずに半ば欲望のままに生き、正義の実行よりは利益の追求をするような精神性の人間が何人集まろうと、その人たちがどれだけの学歴を持っていようとろくな結果にはたどり着けないのは私から見ればしごく当然のリンゴが枝から離れれば地に落ちるという位の必然です。 そんな人が多い中「正義など立場に寄って変わるもので、そんなものは幻想だ」的な発言をされても全く関心が持てないので耳を傾けずに通り過ぎてきました。 最近A派の主張を私が耳にする事が無くなって来たのはA派の愚かの多くが露呈したのか、正義を掲げるものがA派を認めて受け入れて世の中のある程度の地位を確立して主張する必要がなくなったのか、双方”答え”に至る事ができずに何も明らかになっていないまま争いを好まない為に放置されているだけなのか、etc。 まるで世の中には100:0の概念しか無いかの様な「100%の正義なんてありえない」で結論となる議論も私には意味がわかりません。 3:7ならおのおの3と7の分だけ改めるべきものがあったという事が解る訳でしょう。 それならどちらが正義だとかという不毛な対話から離れて先ずはおのおのの3と7を改めるのが強いて言えば正義ではないでしょうか。 A派の主張が”正”となるケースもあるでしょう。 でも結局世で発言している大多数のA派は私から見ると100:0の見方しかできない本質からかけ離れている知能レベルの人たちに見えています。 見ていて不愉快なだけなのですが、皆さんはどう思っていらっしゃいますか? お酒を飲みながら気軽に書き込んでしまっているので、文面がおかしかったりなどしたら申し訳ありません。 内容が内容だけに熱く返してくださる方の存在もあるかもしれませんが、一方通行な勢いだけの理を感じない、対話の成功の可能性を私が期待できないタイプの発言は無視させて頂きます。 余白といいますか、ゆる~くと言いますか、ナローマインド的なやりとりではなくオープンマインドなやりとりを期待しています。 よろしくお願いします。

  • 十字架に磔にされたキリストの言葉の正しさと奇蹟

    十字架に磔にされたイエス・キリストの七つの言葉は、正しいのに。 何故、聖書には余計な「キリストの復活」という奇蹟が記述されたのですか? 1>「父よ、彼らを赦して下さい。なぜなら、彼らは何をしているのかわからないからです。」(ルカの福音書23章34節) 2>「アーメン、あなたに言います。あなたは今日私と共にパラダイスにいます」(ルカの福音書23章43節) 3>「ギュナイ、そこにあなたの子がいます」「そこに、あなたの母が」(ヨハネの福音書19章26節-27節) 4>「エロイ・エロイ・レマ・サバクタニ(わが神、わが神、どうして私を見捨てられたのですか。)」(マルコの福音書15章34節)「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」(マタイの福音書27章46節) 5>「私は渇いている(ディフォー)」(ヨハネの福音書19章28節) 6>「終わった(テテレスタイ)」(ヨハネの福音書19章30節) 7>「父よ、私の霊をあなたの手にまかせます」(ルカの福音書23章46節) 私は、十字架に磔にされ死を迎えるイエス・キリストに仏性が働いていたと思うのです。 このことから、イエス・キリストは、人が神の使途であると信じることは、他人から批判されて、罪となると云う事を示しました。 同時に、自らの信仰は人間の幸福の源であると云う事も示しました。 「キリストの復活」の記述は、キリストの言葉の正しさを台無しにしています。 イエス・キリストが示した、自らの信仰による幸福と自由を無にしています。 聖書の奇蹟は、強固な組織を作って、功利主義を導くために記述されたのですか?

  • ポパーが書いた本で、反証可能性について詳しく書かれ

    ポパーが書いた本で、反証可能性について詳しく書かれた本を教えてください。

  • 間違っているぞ~~!!

    この世には愛も正義もある。何を愛して何を愛さないかが分からなくなりかけています。 正義と正義はぶつかりますが 調和する道はあるのです。人間にはその可能性があります。 もっとナチュラルに もっと理性的に もっと先人の知恵を活かして 資本主義というヤマタノオロチを制御しなければなりません 資本主義なんて 人間の為に考え出されたものではありません、弊害が多いのです。 共産主義も武力革命をしてはいけません。武力は武力を招くだけです 日本だけでも自殺する人が年に2万5千人ほどいます。世界ではどれだけいるのか? 多くの人が不条理の中に押しつぶされて悲惨な思いで死んでいきます 鬱や引き篭りの人も多いでしょう。労働環境も悪くなる一方です 派遣の法案が通りましたねえ。安保関連法案なんて愚の骨頂です。 人を殺さない国が 人も殺す国になるのです。日本の平和ブランドの終わりです 300万の犠牲者に誓った 二度と過ちは繰り返しませんから という近いは何だたのでしょうか? 日本は舵取りを間違っています。中国ともアメリカとも和して、南北朝鮮統一に賛同し 大国のエゴがまかり通らないように物申すべきではないのでしょうか? 国連を実効在るものにして、世界を一つの国家にすべく調整してゆけば良いのではないでしょうか? 物心つかない小さな子供に言わせて、嘘じゃないと宣伝するCMやドラマ いかに大人が嘘をつくかありありと証明しているのではないでしょうか? こんな日本は間違ってます。1000兆円の借金を同解消するか 根本的な解決が必要です。 教育、憲法、平和外交から資本主義を大幅に修正する第三の主義まで基礎から考え直すべきです 日本も世界も間違っている。このままではダメになる。こんな残酷な現実じゃダメだ。 勉強をしたくない生徒に無理やり数学を教えるべからず。

  • 独自性と調和性

    独自性が強いと調和とれないですし、調和すると独自性がすくなくなりますし。 どのような折り合いが必要でしょう?

  • 哲学に出来る事はないか?

    前世紀末 21世紀は理想の時代かと思いましたが、なかなか言う様には行きません。 アメリカと中国 どちらが世界をリードしてゆくのか? アメリカは軍産複合体が25%と言うし。中国は韓国と北朝鮮の両方にパイプがあります。 アメリカが南北朝鮮を統一できるとは思えません イスラム教とキリスト教の問題もあるでしょう 人間の次なる存在の問題もあります。人間が進化するか ロボット、コンピュータ アンドロイドが増えていくか? 温暖化、人口爆発、戦争、資本主義の行き過ぎ アメリカや日本の多額の借金もあります。 憲法解釈、憲法改憲、教育の問題、少子高齢化、詐欺や借金、うつ病や自殺 この様な色々な問題の中で我々はここで何が出来るか? 人間ならば人間性がある、惻隠の情がある。存在目指して愛を持って知恵を絞るのが心の真実ではないでしょうか? こういう事なら出来るのではないかと言うアンサーを簡潔に表してください。 日頃思うことはありませんか?

  • キリスト教の「御使い」について。

    キリスト教の「御使い」についてお聞きします。 キリスト教は三位一体と言われ、お祈りした後に「父と子と聖霊の御名においてお祈りします。アーメン」と締めくくります。 ここで疑問があるのですが、御使いに対しては感謝しなくてよいのでしょうか? 私としては「父と子と聖霊の御名においてお祈りします。アーメン」の後に「御使い様(御使いの方々)もありがとうございました。」と言いたいのです。 しかし一方では、御使いは神ではないので「様」も要らないし、感謝する対象にしてはならないのでは・・・?と言う気もするのです。 どうか、アドバイスをお願いします。

  • 人びとはなぜ神のことが分からないのか

     1. 神などはいるもんかと言う。  ――けれども いると言ってもいないと言っても何と言っても そのことによって神が決まるなどということはあり得ない。《絶対》なのだから。  2. 人間がこしらえたものに過ぎないと言う。  ――けれども こしらえることが出来たなら 神は人間のあやつり人形になる。《絶対》ということを知らないから そんなお遊びをしている。  3. 神は 精神だと言う。  ――けれども 精神は 人間のもの。自然本性としてそなわったもの。《絶対》がどうして この有限で相対的でうつろいゆかざるを得ない経験事象であるのか。  人びとはどうして神のことが分からないのか?  goo と同じ質問ですが。

  • 人びとはなぜ神のことが分からないのか

     1. 神などはいるもんかと言う。  ――けれども いると言ってもいないと言っても何と言っても そのことによって神が決まるなどということはあり得ない。《絶対》なのだから。  2. 人間がこしらえたものに過ぎないと言う。  ――けれども こしらえることが出来たなら 神は人間のあやつり人形になる。《絶対》ということを知らないから そんなお遊びをしている。  3. 神は 精神だと言う。  ――けれども 精神は 人間のもの。自然本性としてそなわったもの。《絶対》がどうして この有限で相対的でうつろいゆかざるを得ない経験事象であるのか。  人びとはどうして神のことが分からないのか?  goo と同じ質問ですが。

  • 日本人は正直でしょうか?

    何か今の世の中 正直者が馬鹿を見るというか 本当に正直であることさえ 忘れてしまいそうですねえ 某掲示板では「世界平和は本当に実現するか」とか「神はいるか」と言った トピックスがボコボコに荒らされてトピ主は逃げ出し荒野原になりました。 或いはアグネスチャンとか。ユニセフ協会という代理団体?のあり方等 更には児童ポルノ問題、日中問題等でボロクソに書かれYOU TUBEでも 酷い動画が多いです。 菅直人氏にしても、別に何か悪いことをやった訳ではなく 未曾有の大震災と津波と原発事故で対応が良くなかったとか言って ボロクソに言われてますが、最初に原発を心配して見に行ったのがそんなに 行けないことなのでしょうか?結局原発問題が最後まで残ってる。 それを見に行って支持が疎かになったのでしょうか? アグネスにしても、中国に帰れば幾らでも知り合いはいるし 国も認めてくれています それを「日中友好に尽くしてほしい」と思うかと思いきや「中国の回し者」扱いです 何で日本は中国とは仲良くできないのでしょうか?確かに中国はまだ良くないところはあります じゃあアメリカはどうなのか?20世紀から戦争で殺しまくり 今世紀になってもまだやってる。国連を無視して勝手な事をやり イラク人を10万人殺して 大量破壊兵器はなかったと。それで賠償はしたのでしょうか? そのアメリカには何も言えない。集団的自衛権を約束して来る。 北朝鮮でもそうです。何かキチガイ国家のように言ってますが、じゃあ何で 米韓合同軍事演習とかして刺激して緊張を煽るのか?キューバ危機の時には アメリカはあんなに苦しんだのに。相手は死んでもいい、しかしアメリカ人が死ぬのは行けない と 無人兵器を作り始めた。そんな国ですよ。 日本人は長いものには巻かれろ 人気が落ちたら?ゴミ同然です。 日本人はこれでいいのでしょうか?アメリカに付いて行っていいのでしょうか? CMや演出でも 物心つかない子供に言わせます。如何に大人の言葉が当てにならないか 示してる様です。 24時間テレビにしても 何故かジャニーズ系のイケメンが主役の再現ドラマです 本当にそんなカッコイイ人だったのでしょうか?ウケがいいからイケメンを出しているのでは? 始めの頃はアグネスも出ていましたが 最近は出ません。 嘘も方便とは言いますが やむを得ず 良かれと思って吐く嘘なら仕方ないですが 嘘が当たり前になったら この世は複雑怪奇 おちおち本音も言えません。 思春期の子供はますます悩み、引き篭りやうつ病が増えます。 日本人はどうかしてるのではないでしょうか?本音と建前って 無ければ無い方が良いのでは? 日本人は正直でしょうか?それとも 何なんでしょうか?

  • 禅の「無分別」の意味

    こんにちは。 禅でいうところの「無分別」の意味を教えてくれる人をご存知の方がいらっしゃいましたら、国内外問いませんので、どうかお教え頂けますでしょうか。 ※質問にお答え頂くための「定義や趣旨の擦り合わせ」としての意見交換なら歓迎しますが、ここで議論(無分別についての意見交換)をする気は全くありません。 質問の経緯を下記します。 分別は世を秩序的に保つために大切なものです。 分別にもレベルがあり、「味噌も糞も一緒にしか見えていない程度の分別とは言いがたいもの」から「多くの人にとって同一にしか見えないものに関する繊細で鋭いとても重要な分別」もあり、前者は論外ですが、後者のように磨かれた分別であれば「考えてはダメ」だとか「区別する事自体の無意味さ」なども当然踏まえられた上での分別になっています。 でも、私が受け取る禅の言う「無分別」の意味は後者ですら前者と大した違いは無いと言えてしまうほどかけ離れたもののように受け止めているのですが、いかんせん意味が分かりません。 人助けは良し、快楽殺人も良し、貧しい中から身を削いで与えるは良し、趣味の盗みも良し。 この境地だとでも言うのだろうか。。。 もしそうだとすれば「言うは易し、行うは難し」。言葉遊びに明け暮れてる救いようの無い泥酔状態の愚か者が大勢居そう。 「悟り」という言葉からイメージを連想すると、確かに「殺人事件を意に介さない」様な側面というと語弊がありますが、人の死、それも凄惨な死すら平常心の内に受け止める、いや受け入れるような側面があるように想像します。 ですから、「無分別」という意味には殺人も良しという意味が全くないかと言えばそうでもないと言われたとしてもさほど驚きはしないのですが、それは所謂サイコパスとは全く違う正常な智慧であると思わざるを得ない。。。 果たして一体「無分別」とはどういう状態の事を言うのでしょうか。。。 と思った次第です。 悟りを得た人でなくとも、禅のいう「無分別」を意味をちゃんと答えられる人であれば遠くてもかまいませんので、教えて頂ければ幸いです。 よろしくお願いします。

  • 闇の中にいた人が光を見たと言えるようになるには?

     まづ これは――哲学ですが――たとえを交じえての議論です。  (α) いくつかありえたのでしょうが もっともふさわしい手段というのは 神が人間となって 人間として――ということは人びとに決してその生前には 神であることが分かられずに 人間として――去っていくこと。だったのではないか。  ☆ このひとつの答えをめぐって 以下に説明をつけますので ご見解をお寄せください。  (β) ここで神というのは それをいま単純にこの(α)のごとく想定するというものです。   (γ) この命題は まづ論理を問題にしていると言わねばなりません。  その意味は 別の見方をしりぞけるものではなく 受けつけないという意味ではないということです。  ほかの見方による批判を歓迎するのはむろんのこと またほかの見解そのものについても 受けつけたいと思います。――その意味で (α)は単純にそういう想定だということになると思います。  (δ) さて 《人間として》というのは たとえばイエスの弟子たちも 最後にはペテロを初めとして全員イエスを裏切ったという事態に現われます。あるいは はりつけになったイエスはその脇腹を槍で突くと 血が出たということ。そして実際に 死を死んだということなどです。  (ε) 《人間として》でなければ――つまり もし神ならそこから降りて来いとローマ兵士たちにからかわれて 神として十字架上から降りて行き奇蹟を起こしたなら あぁ それは神だから出来る われわれ人間にはお呼びではないことだと見なされて 話はおしまいになるということですが 人間としてでなければ―― わたしたち人間の生活上の努力が 到底 最終の目的に達して完成することなど出来っこないとわたしたちが思ってしまう。あきらめてしまう。  重ねて述べれば キリストなる神として奇蹟を起こしたのなら 神だからそう出来るのだ われわれ人間には到底無理だと思い何ごとにつけても人びとは あきらめてしまう。  (ζ)  しかも 《神が肉となった人間として》でなければ――つまり神の子キリストがやって来たのではなく 単なる人間イエスとしてだけであったのでは―― 人に見させる光は ただの人間の能力としての理性や知性や感性の光にとどまってしまう。広い意味の芸術や科学の光だけになってしまう。  (η) 逆に言いかえると 神は 人間の《身と心》やその自然本性にそなわった能力なのではなくまたそれを発揮した成果なのではないと人びとが知る必要があった。神は 人間がこしらえたものではなく 非知であり非経験の場である。  (θ) 人間の能力としての啓蒙の光は 闇を照らすことは出来るかも知れないが この闇を晴らすことは出来ない。闇を晴らす光を見たと言えるようには まだならない。  (ι) しかもこの《人間イエスかつ神キリストの物語》は 大いなる虚構である。闇の中から光を見させたなら 用済みである。大芝居を打った。それによって 神をユダヤ民族だけのではなく普遍神として指し示した。普遍神と人間たるわれとの関係 すなわち 信仰を わが心なる《非思考の庭》として現わした。    という哲学を問います。よろしくどうぞ。  

  • 闇の中にいた人が光を見たと言えるようになるには?

     まづ これは――哲学ですが――たとえを交じえての議論です。  (α) いくつかありえたのでしょうが もっともふさわしい手段というのは 神が人間となって 人間として――ということは人びとに決してその生前には 神であることが分かられずに 人間として――去っていくこと。だったのではないか。  ☆ このひとつの答えをめぐって 以下に説明をつけますので ご見解をお寄せください。  (β) ここで神というのは それをいま単純にこの(α)のごとく想定するというものです。   (γ) この命題は まづ論理を問題にしていると言わねばなりません。  その意味は 別の見方をしりぞけるものではなく 受けつけないという意味ではないということです。  ほかの見方による批判を歓迎するのはむろんのこと またほかの見解そのものについても 受けつけたいと思います。――その意味で (α)は単純にそういう想定だということになると思います。  (δ) さて 《人間として》というのは たとえばイエスの弟子たちも 最後にはペテロを初めとして全員イエスを裏切ったという事態に現われます。あるいは はりつけになったイエスはその脇腹を槍で突くと 血が出たということ。そして実際に 死を死んだということなどです。  (ε) 《人間として》でなければ――つまり もし神ならそこから降りて来いとローマ兵士たちにからかわれて 神として十字架上から降りて行き奇蹟を起こしたなら あぁ それは神だから出来る われわれ人間にはお呼びではないことだと見なされて 話はおしまいになるということですが 人間としてでなければ―― わたしたち人間の生活上の努力が 到底 最終の目的に達して完成することなど出来っこないとわたしたちが思ってしまう。あきらめてしまう。  重ねて述べれば キリストなる神として奇蹟を起こしたのなら 神だからそう出来るのだ われわれ人間には到底無理だと思い何ごとにつけても人びとは あきらめてしまう。  (ζ)  しかも 《神が肉となった人間として》でなければ――つまり神の子キリストがやって来たのではなく 単なる人間イエスとしてだけであったのでは―― 人に見させる光は ただの人間の能力としての理性や知性や感性の光にとどまってしまう。広い意味の芸術や科学の光だけになってしまう。  (η) 逆に言いかえると 神は 人間の《身と心》やその自然本性にそなわった能力なのではなくまたそれを発揮した成果なのではないと人びとが知る必要があった。神は 人間がこしらえたものではなく 非知であり非経験の場である。  (θ) 人間の能力としての啓蒙の光は 闇を照らすことは出来るかも知れないが この闇を晴らすことは出来ない。闇を晴らす光を見たと言えるようには まだならない。  (ι) しかもこの《人間イエスかつ神キリストの物語》は 大いなる虚構である。闇の中から光を見させたなら 用済みである。大芝居を打った。それによって 神をユダヤ民族だけのではなく普遍神として指し示した。普遍神と人間たるわれとの関係 すなわち 信仰を わが心なる《非思考の庭》として現わした。    という哲学を問います。よろしくどうぞ。  

  • クウキ教たる一神教としての日本教をどうあつかうか

     たたき台です。自由に哲学としてたたいてください。  日本人にとっては ムラムラにおける自然との共生を生きる古くからの―- 一人ひとりにとっての――信仰が息づいていると見ます。生活の問題です。  ただしこれを基礎として 社会形態が国の家というごとく二階建ての構造となったときには それとしての民族宗教がつくられました。あるいはつまり 民族としてのひとつにまとまった神をまつる実質的に一神教が――空気のごとく――形成されてきた。  ムラびとたちは これに くにゆづりをした。ムラムラのマツリは お二階さんたちのマツリゴトによって吸収されるかたちを採った。ムラびとたちどうしのヨコの助け合い寄金が――あるいは神々とのタテの祀りの品が―― お上なる二階とのタテの関係(国家財政)の中へ吸収されて行った。  民族宗教とは 日本教であり 実質的にクウキ教である。  クウキによるコミュニケーションを 守るべきオシヘとする。  このわれらがシュウキョウを これから どうするか?  《クウキ教》は 守り遵うべきオシへの役割りをも帯びている。  しかも言葉としては何ごとにも・何ものにも精霊を感じてのようにおよそアニミズムとしての多くの神々をも持っていますが これ(クウキ教)は いわゆる多神教のままには留まっておらず そうではなく すでに――国家が出来てからは――あくまで《日本教》として一神教を成す。  ヒンドゥー教は その名もヒンドゥー=インドであるごとく多神を擁していてもそのまま全体として一神教としてのインド教です。よその神々を受け容れても 民族宗教としてまとまり 対外的には あたかも唯一神をいただくのと同じ振る舞いにおよびます。  ユダヤ教は 明らかに対外的にも対内的にも 唯一神をオシへとして共有する生活様式を形成する民族宗教です。  あるいは アマテラシテたる王をいただくイギリス教のごとく日本教は 対外的には一神教としてまとまった民族宗教です。その中にいろんな神々をよそからも受け容れているという――対内的には――多神教であったとしてもです。  この日本教=クウキ教には 神道をベースにして 仏教の諸仏を採り入れ そしてキリスト教の姉妹編としての唯物論教(つまり 無神論教)をもじゅうぶんに有益にはたらくかのような異端分子としてやはり採り入れています。  日本教・総本山   神道   仏教支部   儒教支部(?)   キリスト教支部   マルクス教支部   無神論教支部   《お花畑》平和教支部  護憲平和教派は さすがにキリスト教の神を持ち出すことはないようですが そのベースには同じ排他的な一神教の神(《無い神》)が祀られているかのようであり じゅうぶんにほかの多神と対立しつつも大きく日本教の一環として根を張ろうとしています。  日本人は 知らず知らずのうちに 宗教(じつは 信仰)への関心を育み生活を息づかせて来ており ただしそれがお二階からクウキ教の浸透によって絡め取られるときには いわゆる排他的な一神教としての民族宗教を形成するようになります。その中に入れば 排他的ではなく馴れ馴れしくなあなあ主義的になります。  ふるくからの個人個人にとっての信仰を保つ日本人は――第十代崇神ミマキイリヒコイニヱのミコトやその時の市民オホタタネコをあたかも代表とするかのごとく《イリ歴史知性》たる日本人は 応神ホムダワケや雄略オホハツセワカタケルさらにあるいは継体ヲホドの《ヨセなる超歴史知性》によって《全国制覇大作戦なる雄略》を実行されて それに対して国ゆづりをしたとしても―― そのような宗教現象をなおただウワベのこととして その優勢に対して まさにくにゆづりをした出発点を保って生きて来ています。    それらの人たちは 宗教から・オシへを垂れるあらゆる宗教から 自由です。ユヅリアヒの生活を千五百年おくって来ています。(はっきりと二階建てとなって行った継体ヲホドの頃からと見ての時間です)。  いちどゆづったのだから 口が裂けても 返せとは――大政奉還せよとは――言えないであろうか。どうでしょう?