sheep67 の回答履歴
- デーデルの不完全性定理の素朴な疑問
具体的なことはよくわからないのですが、 数学の系が無矛盾ではありえないというのがゲーデルの不完全性定理 だとするなら、その不完全な数学によって設計された飛行機や 電車などが設計通りに動くのはなぜですか? 数学の不完全性というのは誤差の範囲なのでしょうか? お分かりの方いらっしゃいましたらご教授ください。
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- 哲学・倫理・宗教学
- kuyokuyomaru
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- 死んでから気が付く なんだそうだったのか。
なんだそうだったのかと死んでから気が付く事ってどんなことがあると思いますか。 亡くなる人と気が付く人は同一人物であなた自身とします。 亡くなってから気付くことはできないという矛盾がありますが、 そこは気が付く事ができたとした場合としてお答え下さい。
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- 哲学・倫理・宗教学
- 1114711235
- 回答数11
- 生きていても生きていなくても同じという見地
この世に生きていてもこの世に生きていなくても同じという見地があるとするならばそれはどこにありますか。 見地といっているのでそこに意識が存在していること自体が矛盾してはいますが。 (まあこの質問も失敗するでしょう。)
- 『空』という文字を使わずして・・・・・
あの有名な般若心経の中に在る言葉『色即是空、空即是色』の意味を『空』の文字を使わずして論じた文章を見つけました。そこで此処に挙げてみます。 「物心不二観 主観の心象と客観の物象とは、本(もと)同一絶対観念界の故に、主観は能(よ)く客観を寫象し再現し得(う)。全く本質にして相ひ乖違(かいい←そむきたがうこと)するならば認識を可能ならしめざるべし。自ら之を実験(←実体験のこと)するに甚(はなは)だ、然らざるべからざるを信ず。(然らざるべからざる←分かりずらいですが強調した表現、かと思います) 然(しか)るに何故(なにゆえ)に主観客観は同一の本質が相ひ反対せる二現象となるや。答へて、能観の心と所観の物質とは、本(も)と一体を両方面より見たるものなりと云ふ事を得べし。如何(いか)にとなれば物体は外面より之を認識する事を得るも、主観は自ら観ずる外に之を識る由(よし)なし。然れば自己の内面は心にして外面は物質なり。 他の(←他者の)内面は之を意識するに由なきも、理に於いて一致すべき必然の規律あれば、他も自己と同じく内面は精神なり。此の理はすべての有機物を以て現存にまで推理する事を得。故に一切の外観は物質にして内面は心霊なりとすれば、能観と所観と、現存と意識とは同一の本質にして、内面の動機、外面の因果と現るる同一の活動を、二面より見たるに外ならず。 主観と客観とは同一の絶対観念態の内外二面の現象なりとせざるべからず。 故に主観客観は相対的規定の人間の方面より見たるものにして、本来一大観念たる物心不二なり。 之を色即是空空即是色と云ふ。物質が内観すれば観念にして、観念を外観すれば客観なり。故に同一観念態の内外二面なり。此の統一を絶対観念態と云ふ。故に全宇宙は全体客観物体なると共に、全体観念界なり。」 ☆ どうでしょうか。 『空』が意味する処の概念はこれまで多くの方々が“研究”されて、各界で発表されていると思いますが私が接したものは何れも、もう一つ判然としないものばかりでした。『空』の概念がどうもつかめないのです。 でもこうして、「“色即是空空即是色”とはこのことである」とはっきり示されると、これまでのもやもや感がいくぶんか、すっきりとしてきたように思うのです。 また今回心に残ったのは「内面の動機・外面の因果と現るる同一の活動」という言葉です。 皆様はどう思われますでしょうか。 ご意見など頂ければ、と思っています。
- 『空』という文字を使わずして・・・・・
あの有名な般若心経の中に在る言葉『色即是空、空即是色』の意味を『空』の文字を使わずして論じた文章を見つけました。そこで此処に挙げてみます。 「物心不二観 主観の心象と客観の物象とは、本(もと)同一絶対観念界の故に、主観は能(よ)く客観を寫象し再現し得(う)。全く本質にして相ひ乖違(かいい←そむきたがうこと)するならば認識を可能ならしめざるべし。自ら之を実験(←実体験のこと)するに甚(はなは)だ、然らざるべからざるを信ず。(然らざるべからざる←分かりずらいですが強調した表現、かと思います) 然(しか)るに何故(なにゆえ)に主観客観は同一の本質が相ひ反対せる二現象となるや。答へて、能観の心と所観の物質とは、本(も)と一体を両方面より見たるものなりと云ふ事を得べし。如何(いか)にとなれば物体は外面より之を認識する事を得るも、主観は自ら観ずる外に之を識る由(よし)なし。然れば自己の内面は心にして外面は物質なり。 他の(←他者の)内面は之を意識するに由なきも、理に於いて一致すべき必然の規律あれば、他も自己と同じく内面は精神なり。此の理はすべての有機物を以て現存にまで推理する事を得。故に一切の外観は物質にして内面は心霊なりとすれば、能観と所観と、現存と意識とは同一の本質にして、内面の動機、外面の因果と現るる同一の活動を、二面より見たるに外ならず。 主観と客観とは同一の絶対観念態の内外二面の現象なりとせざるべからず。 故に主観客観は相対的規定の人間の方面より見たるものにして、本来一大観念たる物心不二なり。 之を色即是空空即是色と云ふ。物質が内観すれば観念にして、観念を外観すれば客観なり。故に同一観念態の内外二面なり。此の統一を絶対観念態と云ふ。故に全宇宙は全体客観物体なると共に、全体観念界なり。」 ☆ どうでしょうか。 『空』が意味する処の概念はこれまで多くの方々が“研究”されて、各界で発表されていると思いますが私が接したものは何れも、もう一つ判然としないものばかりでした。『空』の概念がどうもつかめないのです。 でもこうして、「“色即是空空即是色”とはこのことである」とはっきり示されると、これまでのもやもや感がいくぶんか、すっきりとしてきたように思うのです。 また今回心に残ったのは「内面の動機・外面の因果と現るる同一の活動」という言葉です。 皆様はどう思われますでしょうか。 ご意見など頂ければ、と思っています。
- 有神論者で宗教を信じていない人へ質問
一体何を持って毎日生きていこうと思えるのですか?私に生きるための動力を説いてください。 説得していただくのに役に立つかもしれない私についての情報 私は有神論者、決定論者、観念論者で、スピノザの神のようなものを信じていますがそれ以上のことは信じていません。 キリスト教福音派の教育を受けたので多少名残はありますが、聖書の細かな矛盾に触れていくうちに現在は現存の聖書に対しては疑いを持っています。 ただし、パスカルの思想から多大な影響を受けていて死後の重大性、彼の言う虚しさを抱えています。(もちろん人生は認識次第でどうにもなるということも理解していますが、死のように起こりうる重大な事実無視すべきではないと考えています) 感情的なものはトレーダーとしての若干の経験から非常に懐疑的に見ていて、それらは長期的な指針には成り得ないと思っています。 私はスピノザの神しか有神論で宗教に根ざさないものを知らないので、スピノザの神に近いものの信者以外の方はどういう概念の神を信じているか回答の端にでも記述してくださると助かります。 また、さほど哲学に詳しくないので難しい専門用語や、個人によって作られた言葉の使用は遠慮願いたいです。
- 有神論者で宗教を信じていない人へ質問
一体何を持って毎日生きていこうと思えるのですか?私に生きるための動力を説いてください。 説得していただくのに役に立つかもしれない私についての情報 私は有神論者、決定論者、観念論者で、スピノザの神のようなものを信じていますがそれ以上のことは信じていません。 キリスト教福音派の教育を受けたので多少名残はありますが、聖書の細かな矛盾に触れていくうちに現在は現存の聖書に対しては疑いを持っています。 ただし、パスカルの思想から多大な影響を受けていて死後の重大性、彼の言う虚しさを抱えています。(もちろん人生は認識次第でどうにもなるということも理解していますが、死のように起こりうる重大な事実無視すべきではないと考えています) 感情的なものはトレーダーとしての若干の経験から非常に懐疑的に見ていて、それらは長期的な指針には成り得ないと思っています。 私はスピノザの神しか有神論で宗教に根ざさないものを知らないので、スピノザの神に近いものの信者以外の方はどういう概念の神を信じているか回答の端にでも記述してくださると助かります。 また、さほど哲学に詳しくないので難しい専門用語や、個人によって作られた言葉の使用は遠慮願いたいです。
- 有神論者で宗教を信じていない人へ質問
一体何を持って毎日生きていこうと思えるのですか?私に生きるための動力を説いてください。 説得していただくのに役に立つかもしれない私についての情報 私は有神論者、決定論者、観念論者で、スピノザの神のようなものを信じていますがそれ以上のことは信じていません。 キリスト教福音派の教育を受けたので多少名残はありますが、聖書の細かな矛盾に触れていくうちに現在は現存の聖書に対しては疑いを持っています。 ただし、パスカルの思想から多大な影響を受けていて死後の重大性、彼の言う虚しさを抱えています。(もちろん人生は認識次第でどうにもなるということも理解していますが、死のように起こりうる重大な事実無視すべきではないと考えています) 感情的なものはトレーダーとしての若干の経験から非常に懐疑的に見ていて、それらは長期的な指針には成り得ないと思っています。 私はスピノザの神しか有神論で宗教に根ざさないものを知らないので、スピノザの神に近いものの信者以外の方はどういう概念の神を信じているか回答の端にでも記述してくださると助かります。 また、さほど哲学に詳しくないので難しい専門用語や、個人によって作られた言葉の使用は遠慮願いたいです。
- 《神を見た》は 共有できるものではない。
たたき台をしるします。 (1) ひとは 何かの拍子に体験したことをめぐって 《神を見た》と言い表わすことがある。 (2) 《神》は じつは 非経験であり非思考――として人間が想定するところ――の場である。そういう《存在》としても 一般にひとは捉えている。 (《無い神》としてさえ それは《非思考の場》である限り 想定上の《存在》である)。 (3) つまりは この経験世界における《存在》なる言葉を 非経験の領域についても 概念として単純に延長させている。つまりは その存在を《見た》というのも 人間の経験行為を単純に拡大させて――想定じょう――表わしている。 (4) ことばとそれによる思考を超えたところのナゾを 存在と見なし捉えて それとのわれわれ人間との関係についてまで いわば想像力を及ぼそうとしている。 このナゾは 一般にどの言語でも《かみ》と呼んでいる。 しかもこの神を見たとか神の声を聞いたとかというふうに ひとは神体験を持ったと言いその表現にまで及ぶことがある。 (5) とは言うものの われわれ人間にも 超自然的な超経験的ないわゆる神秘体験というのも 起こるかに受けとめられている部分がある。 あるいは 単純な事例としては ひとはヒラメキを得ることがある。 これらは 実際の経験行為にからんで意味をもたらすことのある《神体験》だと見られる場合がある。 いかに神秘的だとは言え 神体験を全否定することは たぶんしりぞけられるであろう。 (6) けっきょく《神を見た》という命題は 《見た》という記号を介して表現され伝達されているに過ぎないのに 実際にも《見た・見ていない》というような経験行為のこととして受け取られてしまうマチガイを起こしやすい。 これは あくまで非経験(つまり 見ることも知ることも出来ない)の神を取り上げているのであるからには そのような見た・見ないという経験行為をうんぬんしても用を成さないと基本的には考えられることである。それなのに マチガイが起こる。 (7) 焦点は このような記号もしくはここでは《ことば》をつうじて それでは どれだけ《非記号》の世界が捉えうるかにある。 (8) 《神を見た》は その第一次的な知覚体験としては その体験者本人にとっても それの事実性は分からないはずであって ましてその体験の人びとによる共有は 無理であろうと考えられる。ほんとうに神であるかどうか これは 本人にも分からないと言わなければならない。ましてや ほかの人とのその体験の共有などということは 目指すものではないし 出来っこない。 と同時に 記号による仮りの表現――あるいは《想定》――の限りで 人びとにはその事実性にうたがいのかかる事柄であっても それぞれの主観にとっての《真実》という場が特殊にあるかに思われる。 (9) 人間にとって その世界における《現実》とは いわゆる科学的な《事実》――それも人間による認識を俟っての事実でしかないが――とおのおのの主観にとっての〔たとえ空想的なものごとであってもその虚構をも容れるところの〕《真実》とのふたつの領域から成る。と考えられまいか? (10) 《主観真実》とは あやまちうる人間の認識および判断の力を前提とするかぎりで けっきょく――事実誤認のほかにも――《想像の世界ないし虚構》を容れている。虚構というかたちにおいてもその想像世界には《真実》と見なしうる場合があると認めることになる。 しかも主観真実は 大きく《事実》と並びそれとの総合としての《現実》に属すると認めることを意味する。 (11) これもそれも あれも何も この《現実=事実認識+主観真実》なる方程式は 神の問題としてはその現実性が おそらく《ひらめき(直感および直観 言いかえると インスピレーション)》の問題に帰着するのであろうと思われる。また そのヒラメキの信憑性にかかっているのであろう。 (12) もっとも簡単な信憑性の判定基準は けっきょく《直観ヒラメキ》として《イメージ直感》を解釈し言葉で表現した内容が 経験合理性から見て耐えうるものかどうかにある。 (13) 《神を見た。神と顔と顔を合わせて話をした》という第一次の知覚経験が信憑性を持つか否かは おそらくその検証が出来ない。 ただしその《神を見た》ことの間接的な解釈や説明ならそれは 人びとの思考しうる世界に降りて来ることになる。ゆえに ことばとしての記号を通じて 意外と人びとは互いに意志疎通をおこないうる。 (14) たとえば 《ひとは 神の背面(うしろすがた)を見るであろう》という命題は 案外受け容れられるのではないだろうか。 ――これは けっきょく《ひとは 神のことにかかわると思われるようなヒラメキ体験を持つことがある》と言っていることにほぼひとしい。つまり 自同律でしかないかも知れない。けれど その真実が真実であるかぎり 事実との総合において 現実をかたちづくるのではないかと見られる余地がある。 (15) ちなみに《空観としてのさとり》という場合も そのサトリという第一次の言わば非思考の状態を掲げるにとどまらず そこから得るヒラメキをめぐってその解釈と説明を添えるなら コミュニケーションの大通りに現われ出て人びとの世界とその現実をゆたかにしうるものと捉えられる。 (16) なお 共有しうるということは その共有したものごとをそのまま正しいとか妥当だとかと認めてしまったわけではない。――共有し得ないならば 話し合いの主題には成れないということだ。 (17) 《神を見た》なる命題は 一般の話し合いの主題には成らない。このことを 共有しておけば そのような知覚情報とは別の《ことばとしての記号の世界》でなら 哲学の問い求めは話がうんと進むものと思われる。 (18) よってひとは 《神を見た》とか《これこれが神である》といった第一次の知覚情報をもって 神の話をするなかれという交通規則を得ることができる。のではないか? 言いかえると 単純に言って 《神は人間の精神である》とか断定したり あるいはぎゃくに 《神は 人間の想像の産物でしかない》と言って否定したりするだけで説明のない神学は 論外の問題外であると。
- 物質はエネルギーで出来ているか?
物質が何で出来てるかの問題ですが 突き詰めると E=mc^2 よりエネルギーと質量が比例することから やはり物質を構成する粒子 電子 多くの素粒子 光子 ヒッグス粒子等もエネルギーで出来ているのではないかと考えるのですが 間違っているでしょうか? エネルギーには様々な態がありますが 物質もエネルギーの一つの態ではないでしょうか? 物質は何でできているのでしょう?
- 宗教の限界とは自分の解釈の限界なのでしょうか
1)宗教の聖典の解釈に限界を感じる時、これが自分の限界なのだなと感じます。 人により、異なる神の姿を見て、異なる神を信じているように思えた時期もありました。 自分を超えた視点で、神を捉えるなんていうことがあるんでしょうか。 2)どのような場所で神の存在を感じますか。宗教機関という答えは勘弁してください。 神はいないどころか、様々な顔を持っており、どれが本当の顔だか混乱してくるという場合はどうしていますか。 やはり、自分の主観に頼っていますか? 1)2)どちらの回答でも結構です。
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- noname#154199
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- 有神論者で宗教を信じていない人へ質問
一体何を持って毎日生きていこうと思えるのですか?私に生きるための動力を説いてください。 説得していただくのに役に立つかもしれない私についての情報 私は有神論者、決定論者、観念論者で、スピノザの神のようなものを信じていますがそれ以上のことは信じていません。 キリスト教福音派の教育を受けたので多少名残はありますが、聖書の細かな矛盾に触れていくうちに現在は現存の聖書に対しては疑いを持っています。 ただし、パスカルの思想から多大な影響を受けていて死後の重大性、彼の言う虚しさを抱えています。(もちろん人生は認識次第でどうにもなるということも理解していますが、死のように起こりうる重大な事実無視すべきではないと考えています) 感情的なものはトレーダーとしての若干の経験から非常に懐疑的に見ていて、それらは長期的な指針には成り得ないと思っています。 私はスピノザの神しか有神論で宗教に根ざさないものを知らないので、スピノザの神に近いものの信者以外の方はどういう概念の神を信じているか回答の端にでも記述してくださると助かります。 また、さほど哲学に詳しくないので難しい専門用語や、個人によって作られた言葉の使用は遠慮願いたいです。
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一体何を持って毎日生きていこうと思えるのですか?私に生きるための動力を説いてください。 説得していただくのに役に立つかもしれない私についての情報 私は有神論者、決定論者、観念論者で、スピノザの神のようなものを信じていますがそれ以上のことは信じていません。 キリスト教福音派の教育を受けたので多少名残はありますが、聖書の細かな矛盾に触れていくうちに現在は現存の聖書に対しては疑いを持っています。 ただし、パスカルの思想から多大な影響を受けていて死後の重大性、彼の言う虚しさを抱えています。(もちろん人生は認識次第でどうにもなるということも理解していますが、死のように起こりうる重大な事実無視すべきではないと考えています) 感情的なものはトレーダーとしての若干の経験から非常に懐疑的に見ていて、それらは長期的な指針には成り得ないと思っています。 私はスピノザの神しか有神論で宗教に根ざさないものを知らないので、スピノザの神に近いものの信者以外の方はどういう概念の神を信じているか回答の端にでも記述してくださると助かります。 また、さほど哲学に詳しくないので難しい専門用語や、個人によって作られた言葉の使用は遠慮願いたいです。
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一体何を持って毎日生きていこうと思えるのですか?私に生きるための動力を説いてください。 説得していただくのに役に立つかもしれない私についての情報 私は有神論者、決定論者、観念論者で、スピノザの神のようなものを信じていますがそれ以上のことは信じていません。 キリスト教福音派の教育を受けたので多少名残はありますが、聖書の細かな矛盾に触れていくうちに現在は現存の聖書に対しては疑いを持っています。 ただし、パスカルの思想から多大な影響を受けていて死後の重大性、彼の言う虚しさを抱えています。(もちろん人生は認識次第でどうにもなるということも理解していますが、死のように起こりうる重大な事実無視すべきではないと考えています) 感情的なものはトレーダーとしての若干の経験から非常に懐疑的に見ていて、それらは長期的な指針には成り得ないと思っています。 私はスピノザの神しか有神論で宗教に根ざさないものを知らないので、スピノザの神に近いものの信者以外の方はどういう概念の神を信じているか回答の端にでも記述してくださると助かります。 また、さほど哲学に詳しくないので難しい専門用語や、個人によって作られた言葉の使用は遠慮願いたいです。
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一体何を持って毎日生きていこうと思えるのですか?私に生きるための動力を説いてください。 説得していただくのに役に立つかもしれない私についての情報 私は有神論者、決定論者、観念論者で、スピノザの神のようなものを信じていますがそれ以上のことは信じていません。 キリスト教福音派の教育を受けたので多少名残はありますが、聖書の細かな矛盾に触れていくうちに現在は現存の聖書に対しては疑いを持っています。 ただし、パスカルの思想から多大な影響を受けていて死後の重大性、彼の言う虚しさを抱えています。(もちろん人生は認識次第でどうにもなるということも理解していますが、死のように起こりうる重大な事実無視すべきではないと考えています) 感情的なものはトレーダーとしての若干の経験から非常に懐疑的に見ていて、それらは長期的な指針には成り得ないと思っています。 私はスピノザの神しか有神論で宗教に根ざさないものを知らないので、スピノザの神に近いものの信者以外の方はどういう概念の神を信じているか回答の端にでも記述してくださると助かります。 また、さほど哲学に詳しくないので難しい専門用語や、個人によって作られた言葉の使用は遠慮願いたいです。
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一体何を持って毎日生きていこうと思えるのですか?私に生きるための動力を説いてください。 説得していただくのに役に立つかもしれない私についての情報 私は有神論者、決定論者、観念論者で、スピノザの神のようなものを信じていますがそれ以上のことは信じていません。 キリスト教福音派の教育を受けたので多少名残はありますが、聖書の細かな矛盾に触れていくうちに現在は現存の聖書に対しては疑いを持っています。 ただし、パスカルの思想から多大な影響を受けていて死後の重大性、彼の言う虚しさを抱えています。(もちろん人生は認識次第でどうにもなるということも理解していますが、死のように起こりうる重大な事実無視すべきではないと考えています) 感情的なものはトレーダーとしての若干の経験から非常に懐疑的に見ていて、それらは長期的な指針には成り得ないと思っています。 私はスピノザの神しか有神論で宗教に根ざさないものを知らないので、スピノザの神に近いものの信者以外の方はどういう概念の神を信じているか回答の端にでも記述してくださると助かります。 また、さほど哲学に詳しくないので難しい専門用語や、個人によって作られた言葉の使用は遠慮願いたいです。
- 有神論者で宗教を信じていない人へ質問
一体何を持って毎日生きていこうと思えるのですか?私に生きるための動力を説いてください。 説得していただくのに役に立つかもしれない私についての情報 私は有神論者、決定論者、観念論者で、スピノザの神のようなものを信じていますがそれ以上のことは信じていません。 キリスト教福音派の教育を受けたので多少名残はありますが、聖書の細かな矛盾に触れていくうちに現在は現存の聖書に対しては疑いを持っています。 ただし、パスカルの思想から多大な影響を受けていて死後の重大性、彼の言う虚しさを抱えています。(もちろん人生は認識次第でどうにもなるということも理解していますが、死のように起こりうる重大な事実無視すべきではないと考えています) 感情的なものはトレーダーとしての若干の経験から非常に懐疑的に見ていて、それらは長期的な指針には成り得ないと思っています。 私はスピノザの神しか有神論で宗教に根ざさないものを知らないので、スピノザの神に近いものの信者以外の方はどういう概念の神を信じているか回答の端にでも記述してくださると助かります。 また、さほど哲学に詳しくないので難しい専門用語や、個人によって作られた言葉の使用は遠慮願いたいです。
- ニューエイジ?|奇跡講座(ACIM)について
奇跡講座(ACIM)のワークブックをされている方に、質問があります。 奇跡講座でよく出て来る「心の探索」ですが、みなさんはどのようにされていますか? 私は、心の中に浮かんだ考えを次々とメモ帳に書き出していたのですが、レッスンによっては、「目を閉じて」行うものもあり、「私のやり方は間違っていたのではないか?」と、心配しております。 やはり、目を閉じて、瞑想のようになにがしかの考えが出てくるのを待った方がよいのでしょうか? でも、そのようにした場合、1分間では何も思い浮かばないこともあります。 自分がどのような考えを持っているか、積極的に考えていった方が良いのでしょうか? レッスン10のように、1分の間に「心の探索」をした上で、さらに「概念を当てはめる」ことをしなければならないレッスンもあり、どうすればよいのか、少し戸惑っております。 みなさんがどのように、「心の探索」をされているか、教えていただければと思います。 ご回答いただければ幸いです。 よろしくお願いいたします。
- ニューエイジ?|奇跡講座(ACIM)について
奇跡講座(ACIM)のワークブックをされている方に、質問があります。 奇跡講座でよく出て来る「心の探索」ですが、みなさんはどのようにされていますか? 私は、心の中に浮かんだ考えを次々とメモ帳に書き出していたのですが、レッスンによっては、「目を閉じて」行うものもあり、「私のやり方は間違っていたのではないか?」と、心配しております。 やはり、目を閉じて、瞑想のようになにがしかの考えが出てくるのを待った方がよいのでしょうか? でも、そのようにした場合、1分間では何も思い浮かばないこともあります。 自分がどのような考えを持っているか、積極的に考えていった方が良いのでしょうか? レッスン10のように、1分の間に「心の探索」をした上で、さらに「概念を当てはめる」ことをしなければならないレッスンもあり、どうすればよいのか、少し戸惑っております。 みなさんがどのように、「心の探索」をされているか、教えていただければと思います。 ご回答いただければ幸いです。 よろしくお願いいたします。
- 虚無感
被害妄想や鬱状態,離人状態があり精神科で薬を貰ってます。 病的な症状や働けない現実にも苦しみ,漠然とした恐怖や不安におそわれ続けた結果,ひどい虚無感と無気力に陥りました。 死ぬまでせいいっぱい頑張ろう,,,と思いたいのに。 私の結論は,私がどうなろうが世の中には影響がない。私の存在に意味はない。世の中すべての存在は皆,皆死んで無くなるだけなのに。と言う結論にたどり着いてしまったのです。 1度その考えにたどり着いてしまった今,もう元には戻れなくなりました。 私はどうすればまともな人間になれますか。 虚無感,無気力,絶望,,,苦しいです。
- 締切済み
- 哲学・倫理・宗教学
- noname#145030
- 回答数12