sheep67 の回答履歴
- この宇宙を説明するには物質かエネルギーか?
私は物質はエネルギーで出来ていると考えてたのですが 広辞苑を引くと「素粒子も物質である」とあります またある人から素粒子もヒッグス粒子も物質である エネルギーというのは物質の状態のことだと教わりました 僕は物質など宇宙にあるものの根源はエネルギーで説明できると思っていたのですが 物質とエネルギーは違う 物質がエネルギーで出来ているというのは違うとよく言われます E=mc^2 の質量はエネルギーと等価という考えからして どう考えるべきか つまりこの宇宙の場にあるものは全て物質か? それともエネルギーで説明する方が分かりやすいか? もし一言ある方は二言でも三言でも よろしくお願いします
- この宇宙を説明するには物質かエネルギーか?
私は物質はエネルギーで出来ていると考えてたのですが 広辞苑を引くと「素粒子も物質である」とあります またある人から素粒子もヒッグス粒子も物質である エネルギーというのは物質の状態のことだと教わりました 僕は物質など宇宙にあるものの根源はエネルギーで説明できると思っていたのですが 物質とエネルギーは違う 物質がエネルギーで出来ているというのは違うとよく言われます E=mc^2 の質量はエネルギーと等価という考えからして どう考えるべきか つまりこの宇宙の場にあるものは全て物質か? それともエネルギーで説明する方が分かりやすいか? もし一言ある方は二言でも三言でも よろしくお願いします
- 意志、理性、感情、? 言葉の共有!
通常、人の心の能力、作用を表すのに「意志、理性、感情」という言葉を以て、三つの働きを表現していて、ほとんどの人は、この表現に疑問を持っていないと思います。 私も今、こうして質問として取り上げてみようと思うまでは、さしたる疑問を持つことはありませんでした。 でもよくよく考えてみると《?》と思ったので次のように提案してみたいのです。 “意・理・感”にはそれぞれに“性”という言葉を付けてみてはどうでしょうか。 “意性・理性・感性”というように。 そしてそれぞれの性に、意には志を、理には解を、感には情を、付けて「意志・理解・感情」として“思索”するというのが、言葉の使用を“共有”することになるのではないのか、と思ったのです。 どうでしょうか。 よろしくお願いいたします。
- 意志、理性、感情、? 言葉の共有!
通常、人の心の能力、作用を表すのに「意志、理性、感情」という言葉を以て、三つの働きを表現していて、ほとんどの人は、この表現に疑問を持っていないと思います。 私も今、こうして質問として取り上げてみようと思うまでは、さしたる疑問を持つことはありませんでした。 でもよくよく考えてみると《?》と思ったので次のように提案してみたいのです。 “意・理・感”にはそれぞれに“性”という言葉を付けてみてはどうでしょうか。 “意性・理性・感性”というように。 そしてそれぞれの性に、意には志を、理には解を、感には情を、付けて「意志・理解・感情」として“思索”するというのが、言葉の使用を“共有”することになるのではないのか、と思ったのです。 どうでしょうか。 よろしくお願いいたします。
- 色即是空=信頼しないこと?
仏教の考え方について勉強をしています。 その中でも色即是空という考え方、 物事への執着、煩悩を捨てよという考え方は、 とても本質的で素晴らしい考え方であると思っています。 しかし、良い物も悪い物も根源的には全く同じもの、 表裏一体であって、絶対のものではない、 色即是空の教えは、一見本質的ではありますが、 目の前に見える美しい物、楽しい物すら、 それをそういうものであると心から信じるなという考え方にもなりませんか? 目に見えるものを疑ってかかる行為は、 逆に心の中の不安を増加させてしまう行為であるとも思うのですが、 私の色即是空の解釈は間違っているのでしょうか。 色即是空の教えの上では、人は今目に見えているものをそれとして、 心から信じることはできないのでしょうか。 「色即是空の教え」と「信じること」について、 どなたか無知な私にご教授いただけたらと思っております。 よろしくお願い致します。
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- inuneko320
- 回答数16
- 世界観において 二元論と言ったら・・・
他の何ものにも依存せず独立して存在するものを《元》と呼ぶのだと思っていたのですが ヰキぺを見ると それだけではなく 《単にふたつに区分されたもの》をも 二元論と言うとあります。 そんな用法は ありえるのですか? これが 問いです。 ▼ (ヰキぺ:二元論) ~~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E5%85%83%E8%AB%96 (にげんろん、dualism)とは、 世界や事物の根本的な原理として、それらは背反する二つの原理や基本的要素から構成される、または二つからなる区分に分けられるとする概念のこと。 例えば、原理としては善と悪、要素としては精神と物体など。 ~~~~~~~~~~~~~ ☆ すなわちここで 単純に ▼ または二つからなる区分に分けられるとする という場合も二元論と呼ぶのだと言っているようです。けれどもこの場合というのは 二項対立とか二項区分あるいは双対と言ったりする場合なのではないでしょうか? すなわちもし 二つの事項があって互いに区別されているだけの状態であってもその二項について――つまり精神と身体 あるいは モノと心といったように互いに区別されている二項であるなら―― 二元論という用語で呼んでさしつかえないとするなら けっきょくおよそ《ふたつのもの》は二元論になってしまう。 というだけではなく じつはそれだけではなく どんなものでも《ひとつのもの》を捉えて それは一元論だと言ってもさしつかえないことになってしまう。のではないでしょうか? そんな一元論など 意味がない。はずです。すべてのものごとの根元をひとつだと見ることから 一元論と言うのであって 根元を問わない《ひとつのもの》が 一元だと――世界観において――言うなら へんなことになりませんか? そんな用法は無用にすべきではないでしょうか?
- 世界観において 二元論と言ったら・・・
他の何ものにも依存せず独立して存在するものを《元》と呼ぶのだと思っていたのですが ヰキぺを見ると それだけではなく 《単にふたつに区分されたもの》をも 二元論と言うとあります。 そんな用法は ありえるのですか? これが 問いです。 ▼ (ヰキぺ:二元論) ~~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E5%85%83%E8%AB%96 (にげんろん、dualism)とは、 世界や事物の根本的な原理として、それらは背反する二つの原理や基本的要素から構成される、または二つからなる区分に分けられるとする概念のこと。 例えば、原理としては善と悪、要素としては精神と物体など。 ~~~~~~~~~~~~~ ☆ すなわちここで 単純に ▼ または二つからなる区分に分けられるとする という場合も二元論と呼ぶのだと言っているようです。けれどもこの場合というのは 二項対立とか二項区分あるいは双対と言ったりする場合なのではないでしょうか? すなわちもし 二つの事項があって互いに区別されているだけの状態であってもその二項について――つまり精神と身体 あるいは モノと心といったように互いに区別されている二項であるなら―― 二元論という用語で呼んでさしつかえないとするなら けっきょくおよそ《ふたつのもの》は二元論になってしまう。 というだけではなく じつはそれだけではなく どんなものでも《ひとつのもの》を捉えて それは一元論だと言ってもさしつかえないことになってしまう。のではないでしょうか? そんな一元論など 意味がない。はずです。すべてのものごとの根元をひとつだと見ることから 一元論と言うのであって 根元を問わない《ひとつのもの》が 一元だと――世界観において――言うなら へんなことになりませんか? そんな用法は無用にすべきではないでしょうか?
- 世界観において 二元論と言ったら・・・
他の何ものにも依存せず独立して存在するものを《元》と呼ぶのだと思っていたのですが ヰキぺを見ると それだけではなく 《単にふたつに区分されたもの》をも 二元論と言うとあります。 そんな用法は ありえるのですか? これが 問いです。 ▼ (ヰキぺ:二元論) ~~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E5%85%83%E8%AB%96 (にげんろん、dualism)とは、 世界や事物の根本的な原理として、それらは背反する二つの原理や基本的要素から構成される、または二つからなる区分に分けられるとする概念のこと。 例えば、原理としては善と悪、要素としては精神と物体など。 ~~~~~~~~~~~~~ ☆ すなわちここで 単純に ▼ または二つからなる区分に分けられるとする という場合も二元論と呼ぶのだと言っているようです。けれどもこの場合というのは 二項対立とか二項区分あるいは双対と言ったりする場合なのではないでしょうか? すなわちもし 二つの事項があって互いに区別されているだけの状態であってもその二項について――つまり精神と身体 あるいは モノと心といったように互いに区別されている二項であるなら―― 二元論という用語で呼んでさしつかえないとするなら けっきょくおよそ《ふたつのもの》は二元論になってしまう。 というだけではなく じつはそれだけではなく どんなものでも《ひとつのもの》を捉えて それは一元論だと言ってもさしつかえないことになってしまう。のではないでしょうか? そんな一元論など 意味がない。はずです。すべてのものごとの根元をひとつだと見ることから 一元論と言うのであって 根元を問わない《ひとつのもの》が 一元だと――世界観において――言うなら へんなことになりませんか? そんな用法は無用にすべきではないでしょうか?
- 世界観において 二元論と言ったら・・・
他の何ものにも依存せず独立して存在するものを《元》と呼ぶのだと思っていたのですが ヰキぺを見ると それだけではなく 《単にふたつに区分されたもの》をも 二元論と言うとあります。 そんな用法は ありえるのですか? これが 問いです。 ▼ (ヰキぺ:二元論) ~~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E5%85%83%E8%AB%96 (にげんろん、dualism)とは、 世界や事物の根本的な原理として、それらは背反する二つの原理や基本的要素から構成される、または二つからなる区分に分けられるとする概念のこと。 例えば、原理としては善と悪、要素としては精神と物体など。 ~~~~~~~~~~~~~ ☆ すなわちここで 単純に ▼ または二つからなる区分に分けられるとする という場合も二元論と呼ぶのだと言っているようです。けれどもこの場合というのは 二項対立とか二項区分あるいは双対と言ったりする場合なのではないでしょうか? すなわちもし 二つの事項があって互いに区別されているだけの状態であってもその二項について――つまり精神と身体 あるいは モノと心といったように互いに区別されている二項であるなら―― 二元論という用語で呼んでさしつかえないとするなら けっきょくおよそ《ふたつのもの》は二元論になってしまう。 というだけではなく じつはそれだけではなく どんなものでも《ひとつのもの》を捉えて それは一元論だと言ってもさしつかえないことになってしまう。のではないでしょうか? そんな一元論など 意味がない。はずです。すべてのものごとの根元をひとつだと見ることから 一元論と言うのであって 根元を問わない《ひとつのもの》が 一元だと――世界観において――言うなら へんなことになりませんか? そんな用法は無用にすべきではないでしょうか?
- 世界観において 二元論と言ったら・・・
他の何ものにも依存せず独立して存在するものを《元》と呼ぶのだと思っていたのですが ヰキぺを見ると それだけではなく 《単にふたつに区分されたもの》をも 二元論と言うとあります。 そんな用法は ありえるのですか? これが 問いです。 ▼ (ヰキぺ:二元論) ~~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E5%85%83%E8%AB%96 (にげんろん、dualism)とは、 世界や事物の根本的な原理として、それらは背反する二つの原理や基本的要素から構成される、または二つからなる区分に分けられるとする概念のこと。 例えば、原理としては善と悪、要素としては精神と物体など。 ~~~~~~~~~~~~~ ☆ すなわちここで 単純に ▼ または二つからなる区分に分けられるとする という場合も二元論と呼ぶのだと言っているようです。けれどもこの場合というのは 二項対立とか二項区分あるいは双対と言ったりする場合なのではないでしょうか? すなわちもし 二つの事項があって互いに区別されているだけの状態であってもその二項について――つまり精神と身体 あるいは モノと心といったように互いに区別されている二項であるなら―― 二元論という用語で呼んでさしつかえないとするなら けっきょくおよそ《ふたつのもの》は二元論になってしまう。 というだけではなく じつはそれだけではなく どんなものでも《ひとつのもの》を捉えて それは一元論だと言ってもさしつかえないことになってしまう。のではないでしょうか? そんな一元論など 意味がない。はずです。すべてのものごとの根元をひとつだと見ることから 一元論と言うのであって 根元を問わない《ひとつのもの》が 一元だと――世界観において――言うなら へんなことになりませんか? そんな用法は無用にすべきではないでしょうか?
- 世界観において 二元論と言ったら・・・
他の何ものにも依存せず独立して存在するものを《元》と呼ぶのだと思っていたのですが ヰキぺを見ると それだけではなく 《単にふたつに区分されたもの》をも 二元論と言うとあります。 そんな用法は ありえるのですか? これが 問いです。 ▼ (ヰキぺ:二元論) ~~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E5%85%83%E8%AB%96 (にげんろん、dualism)とは、 世界や事物の根本的な原理として、それらは背反する二つの原理や基本的要素から構成される、または二つからなる区分に分けられるとする概念のこと。 例えば、原理としては善と悪、要素としては精神と物体など。 ~~~~~~~~~~~~~ ☆ すなわちここで 単純に ▼ または二つからなる区分に分けられるとする という場合も二元論と呼ぶのだと言っているようです。けれどもこの場合というのは 二項対立とか二項区分あるいは双対と言ったりする場合なのではないでしょうか? すなわちもし 二つの事項があって互いに区別されているだけの状態であってもその二項について――つまり精神と身体 あるいは モノと心といったように互いに区別されている二項であるなら―― 二元論という用語で呼んでさしつかえないとするなら けっきょくおよそ《ふたつのもの》は二元論になってしまう。 というだけではなく じつはそれだけではなく どんなものでも《ひとつのもの》を捉えて それは一元論だと言ってもさしつかえないことになってしまう。のではないでしょうか? そんな一元論など 意味がない。はずです。すべてのものごとの根元をひとつだと見ることから 一元論と言うのであって 根元を問わない《ひとつのもの》が 一元だと――世界観において――言うなら へんなことになりませんか? そんな用法は無用にすべきではないでしょうか?
- 世界観において 二元論と言ったら・・・
他の何ものにも依存せず独立して存在するものを《元》と呼ぶのだと思っていたのですが ヰキぺを見ると それだけではなく 《単にふたつに区分されたもの》をも 二元論と言うとあります。 そんな用法は ありえるのですか? これが 問いです。 ▼ (ヰキぺ:二元論) ~~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E5%85%83%E8%AB%96 (にげんろん、dualism)とは、 世界や事物の根本的な原理として、それらは背反する二つの原理や基本的要素から構成される、または二つからなる区分に分けられるとする概念のこと。 例えば、原理としては善と悪、要素としては精神と物体など。 ~~~~~~~~~~~~~ ☆ すなわちここで 単純に ▼ または二つからなる区分に分けられるとする という場合も二元論と呼ぶのだと言っているようです。けれどもこの場合というのは 二項対立とか二項区分あるいは双対と言ったりする場合なのではないでしょうか? すなわちもし 二つの事項があって互いに区別されているだけの状態であってもその二項について――つまり精神と身体 あるいは モノと心といったように互いに区別されている二項であるなら―― 二元論という用語で呼んでさしつかえないとするなら けっきょくおよそ《ふたつのもの》は二元論になってしまう。 というだけではなく じつはそれだけではなく どんなものでも《ひとつのもの》を捉えて それは一元論だと言ってもさしつかえないことになってしまう。のではないでしょうか? そんな一元論など 意味がない。はずです。すべてのものごとの根元をひとつだと見ることから 一元論と言うのであって 根元を問わない《ひとつのもの》が 一元だと――世界観において――言うなら へんなことになりませんか? そんな用法は無用にすべきではないでしょうか?
- 世界観において 二元論と言ったら・・・
他の何ものにも依存せず独立して存在するものを《元》と呼ぶのだと思っていたのですが ヰキぺを見ると それだけではなく 《単にふたつに区分されたもの》をも 二元論と言うとあります。 そんな用法は ありえるのですか? これが 問いです。 ▼ (ヰキぺ:二元論) ~~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E5%85%83%E8%AB%96 (にげんろん、dualism)とは、 世界や事物の根本的な原理として、それらは背反する二つの原理や基本的要素から構成される、または二つからなる区分に分けられるとする概念のこと。 例えば、原理としては善と悪、要素としては精神と物体など。 ~~~~~~~~~~~~~ ☆ すなわちここで 単純に ▼ または二つからなる区分に分けられるとする という場合も二元論と呼ぶのだと言っているようです。けれどもこの場合というのは 二項対立とか二項区分あるいは双対と言ったりする場合なのではないでしょうか? すなわちもし 二つの事項があって互いに区別されているだけの状態であってもその二項について――つまり精神と身体 あるいは モノと心といったように互いに区別されている二項であるなら―― 二元論という用語で呼んでさしつかえないとするなら けっきょくおよそ《ふたつのもの》は二元論になってしまう。 というだけではなく じつはそれだけではなく どんなものでも《ひとつのもの》を捉えて それは一元論だと言ってもさしつかえないことになってしまう。のではないでしょうか? そんな一元論など 意味がない。はずです。すべてのものごとの根元をひとつだと見ることから 一元論と言うのであって 根元を問わない《ひとつのもの》が 一元だと――世界観において――言うなら へんなことになりませんか? そんな用法は無用にすべきではないでしょうか?
- アレン:原因と結果の法則、仏教でそういうのある?
ジェームズ・アレンの、邦訳(邦題)『原因と結果の法則』というのがあります。 まだ読んだことないですが、自己啓発本の起源のようです。 ザ・シークレットというのがあり、読んだことないですが、プラス思考すると、実際にそのようなことが起こる、といったようなことだと思います。 それで、因果関係の議論になると思いますが、私が知る範囲では、仏教のアビダルマでは、因果関係についていろんなパターンが論じられていたと思います。 しかしそこで、上記自己啓発本のような、因果関係が論じられていたような印象は残っていません。 質問ですが、ちょろっとでもよいので、自己啓発本でいわれるような、精神論的な因果関係について、アビダルマ(倶舎論など)、あるいは仏教全般の経典の中で、そういった言及が(ほんの一行でも)あれば教えてください。 よろしくおねがいいたします。
- アレン:原因と結果の法則、仏教でそういうのある?
ジェームズ・アレンの、邦訳(邦題)『原因と結果の法則』というのがあります。 まだ読んだことないですが、自己啓発本の起源のようです。 ザ・シークレットというのがあり、読んだことないですが、プラス思考すると、実際にそのようなことが起こる、といったようなことだと思います。 それで、因果関係の議論になると思いますが、私が知る範囲では、仏教のアビダルマでは、因果関係についていろんなパターンが論じられていたと思います。 しかしそこで、上記自己啓発本のような、因果関係が論じられていたような印象は残っていません。 質問ですが、ちょろっとでもよいので、自己啓発本でいわれるような、精神論的な因果関係について、アビダルマ(倶舎論など)、あるいは仏教全般の経典の中で、そういった言及が(ほんの一行でも)あれば教えてください。 よろしくおねがいいたします。