miko-desi の回答履歴

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  • 次元に関しても立場の対立はあるのでしょうか?

    無限に関しては、可能無限と実無限の二つの立場がありますし、数に関しても、実在するという人としないという人がいますが、次元に関してはこのような対立を聞いたことがありません。 次元に関しても、同じように、立場の対立があるのでしょうか(すなわち、0・1・2次元は思考上の道具に過ぎず、実在はしないとする立場はあるのでしょうか)。 あるのだとしたら、本を紹介していただけると嬉しいです。 なお、4次元以上についてはここでは不問とさせていただきます。 ちなみに、カテゴリーに関しては、こちらの方が回答が付きやすいと思ったので、数学カテではなく、哲学カテにさせていただきました。

  • 残り物に福があるとは本当ですか?

    残り物に福があるとは本当ですか? http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/171816/m0u/%E6%AE%8B%E3%82%8A%E7%89%A9/

    • noname#194651
    • 回答数8
  • これは「哲学」ではなんと云われる主義になるのですか

    「選民思想」と似てそうで似てない考えをもってるのですが、 これは「哲学」という学問のなかではなんと云われる主義(思想)になるのか知りたく 質問させていただきます よろしくお願い致します。 特徴は、 (1)周囲の人々(生命体)を「人間(=同種族)」とは見てない、見れてない。  ただし、見下しているわけではない。   (一般人、周囲からしてみれば) 物質としての”ヒト”はそこにいるが、 こちらからは そこに”ヒト”がいるとは思えない  (空気のような、無視するレベルの、言ってみれば「どうでもいい」、気にしないようなかんじ) 言い方はアレですが、こういう場面もあります。 ・そもそも知的レベルが低い→話が通じない→相手にする必要がない ・相手が言う前に、言いたいことがすべてわかってしまう→話を聞く時間が無駄→相手する意味がわからない ・ RPGでいえば、NPCや(常に同じ発言をする)街のキャラ、みたいな そういう目で、他人を見てます。 白人が黒人を奴隷扱いしていた時代に、 白人女性が「黒人の前でハダカになってもなんとも思わない」といわれたりしてますが、 まさにそういうかんじです。 「人間として見ていない」という具合に。 しかし、一見「見下してる」かんじなのかと思い、色々しらべてみたら 「選民思想」「エリート思想」なる単語にたどりついたのですが、 これらは、「他人と比較してる」という前提があります。 私の場合は「他人と比較」することはなく、それ以前に 「比較の対象となるような、同次元にはいない」と思っているので ここで質問することすらも、 「他の惑星の生命体は、どのように考えているのか」 といった感覚です。 別次元、 別惑星、にいるような 「相手とじぶんは まったく違う種族」という考えは ”哲学”という学問において、なんという言葉で表現されるのですか?  または、 今まで歴史上ではそういった体系化はまだなされていないのでしょうか ※自分と他人を比較するわけでも、見下すわけでもないので 「選民思想」ではないと思っての質問です よろしくお願いします。

  • 哲学で人間や社会に貢献できるでしょうか?

    私が高3の頃 大学を受験するのに「哲学科に行きたい」と言ったら 父からあっさり却下さrました。お金を出すのは父ですからやむを得ず理学部を受けました。 しかし哲学への思いは捨てきれず ついに大学を辞めて家を出ました 私は大学の哲学という勉強ができなくても 自分で考え抜けば結論は出ると思ったのです その結論は存在性思想で検索して頂ければあるのですが 思ったほど いや思いもしないほど広がりませんでした 僕は現代社会で哲学が果たす役割は大きいと見ているのですが 皆さんはどう思われますか? 情報量ばかり多くて それを使う方針がない すぐ武力に頼ってしまう。 マザーテレサやガンジーのような人物もいないような気がします 在来の哲学も含めて哲学の果たす役割は何でしょう?何が出来るでしょうか?

  • 笑いのセンスのある方に超難しい質問です?

    みんなが絶対に笑える話を軽くしてください?

  • カバーする

    カバーする これって、多分、よほどのことですよね。 (「リスペクト」ですか?) 「リカバー」 そんなのも、見つけたのですが。

    • kurinal
    • 回答数7
  • Ludwig Wittegenstein の解釈

    本人サイド/ 1/哲学教授という仕事に終始、消極的だった 2/ロシアに単純労働者で生きる道を模索した 3/多額の遺産財産の放棄 4/神には救済を求めた(戦場体験) 社会/ 哲学教授の道で、終生彼を受容した 私の解釈/ 食い潰せないだけの遺産があったのだから、この人物が実在なら 本人サイド3/ で寿命まで生きたと結論します。癌で死んだと歴史されてます。 人類を牛耳る社会の手で創作された神話を付託された操り人形に過ぎないと。 違いますか?

  • 釈迦の無我の悟りは不完全であり幻想だ。

    ひとり言のような作文だよ。 文章の推敲のための助けとして回答してくれても良いし哲学可能ならその方がいい。 社会性が、すなわち人の行いが、善の資質を備える事の表れだと言う前提から始めるよ。 文明とは農耕の事なんだそうな。 農耕とはすなわち、自らが生きるために他の生命を育む事である。 このように自らが生きるために、他者をも生かすことにつながっているのが、人間同士の共生として社会生活だ。 生かすから生かされるのが利他であり、生きるから生かすのが利己だ。 見解は人の主観によってさまざまな解釈があるが、所詮同じ事だ。 人を生かす事とは、人に親切にしたりして良くしてあげる事であり、生きる事がすなわちそのような行いである以上、それは善性の発露だ。 屍をさらしてさまよう人は生きているとは分類しない。 そうでなくて、人が生きていて、今後も生きようとするなら、善性に基づいて他者と共に生きようとするのが必然である。 ここで、生きている事は偽りなく善であり、その善のみで生きるのが、悪を知らない私のような生き仏さんだ。 禅宗などの無我の理想的解釈によると、真理とは主観内からは推し量られない事になっているので、無我になる事でそれが可能だとしている。 その例え話上の無我論で論理的に、偏見を捨てれば世界が見渡せると言う事になっている。 私はその真理に、真理の立場では悪は存在しないとか何とか言って一時期流行したがそれはともかく、重要なのは、そのような真理の見地は実際には無我の正反対で確固とした我が確立した「天上天下唯我独尊」であって開ける見地だ。 我は存在する事が動かし難い。 無我の伝承上の理想論そのままであるからこそ、そこには「我」そのものである幸福を実感する私がいる。 そんな私の弥勒菩薩ブリはともかく、釈迦はその説話で悪をたびたび批判している。 当時の無我論でも逆説的表現とは言えそれを実感可能な境地であったならば、真理に悪は存在しないため、釈迦は悪を見なかったはずだ。 したがって非常に胡散臭い。 さらに生きる事が善性の発露である人間の社会生活は、全てが幸福であり、釈迦の言った全てが苦の世界観は偽りだ。 そうすると、無我論は何だったのか、私には明白な解釈が出来ないので考えあぐねています。 くだらない錯誤である事はおおむね間違いないのですが、猿にでも判る明白な解釈をしないと商売になりません。 ですので、サル踊りしてください。 私は自説を商売にするつもりがあって、猿でも悟れる無の境地を一冊の本にでもしようかと本気で考えています。

  • 人間は知恵を得てから暗闇が更に深くなった

    うろ覚えで申し訳ないのですが、どこかのカレンダーに書かれた箴言で「人間は知恵を得てから暗闇が更に深くなった」というような意味の言葉あって気になっています。大体、知性というものは人間にとって世界の闇を払うためのものではなかったでしょうか。単純に考えてこれは反語的な、ひねくれたアフォリズムのような気がします。 もっとも、人間は善悪を考え出したりして、却って混乱してしまったという部分もあるかもしれませんが、ちゃんと整理する知恵ももっているはずです。どう思われますか。それとも私が単純すぎて何かを見ていないのか、何か間違っているのでしょうか。出来れば易しい言葉でご指導ください。

    • noname#194996
    • 回答数18
  • カトリック   「愛」ってなんですか?

    根本的なことですが「愛」ってどう説明したらいいですか? 具体的に、できれば参考になるサイトを教えてください。 お願いします。

  • 断ることができない人をどう思いますか?

    あえてこの哲学のカテで質問させていただきました。 地域の町内会等の集まりの話です。 都市部のようにそういうものがなくなって久しいところもあると思いますが、当方は四国の片田舎なもので、そういう集まりがまだあります。 地域みんなで協力することは大事なことだと自分も考えていて、特段そういう集まりが嫌いでもなく、そういう集まりも普通にやってきました。ちなみに当地方では町内会の加入率は70%ほどで、アパート暮らしの方やお年寄りなどに、執拗に勧誘することもなく、町内会費を支払っている人だけの割合が70%なので、実際に役を引き受けられるような人は50%ほどです。そんな感じですが、町内会に参加する人もしない人も、特に大きな衝突はなく平穏に暮らしています。 ところが、数年前に近隣の違う町内に引っ越しをしました。引っ越してから知ったのですが、この町内は極端に人数が少なく、役を引き受けるのに「猫の手も借りたい」状態で、年寄だろうとアパートの人であろうと、母子家庭だろうと、ほかの町内では配慮するような事情も一切関係なく、加入率も100%近く、ほかの町内からも特殊扱いされているところです。加入の勧誘も市や県からも加入するように言われているとか、ありもしない話で強引にやっているんです。 ほかの町内といっしょになろうなんて話があがっても、そのほかの町内から嫌がられてきたいきさつもあるほどです。話すと長くなるのですが、昭和30年代頃にもこの町内だけ特殊扱いされていたことがありました。この町内の多くが公営住宅だった過去があります。 元々ほかの町内にいた自分から見ると、大変なら「役を断る。」という選択があるように思えます。断ったからと言って何がどうなる訳でもなく、引き受けられない人が増えれば、この町内だけ役を減らすとか、やっとほかの町内と一緒になるとか話が進む感じすらあるのです。実際ほかの町内の人の言い分は、「その町内がすすんで役を引き受けているのであって、だれも無理にやれとは言っていない。」というような感覚です。 自分の目にはこういう「断れない人たち」は真面目ではあるけれど、まじめすぎて怖いというか、なぜここまでかたくなになってしまうのか・・・。不思議に思えるのです。 この哲学のカテのみなさんは、こういう方々をどう思いますか?あえてこの哲学のカテで質問させていただいたことをご考慮いただき、この哲学のカテらしい回答を望んでいます。ちなみに自分は、協力することは大事だと考えているのですが、この人たちは断ろうと思えば問題なく断れることを、だれにやらされているわけでもなく、そうかと言って望んでやっているわけでもなく、何か不自然に思えてなりません。宗教的、心理的、宇宙的・・・さまざまな考えをお聞かせください。

  • 神は信じるものではなく、感じるものである

      古来より神は信じるためのものとして人間によって作られた。 しかしいつの頃からか、人はこの神を信じさせようとするようになった。 信じるための神はこれを信じさせるために多くの人の命を要求した。 そのため世界各地で争いが起き、戦争が起き、多くの命が失われた。 それは今現在も同じである。 日本などはキリスト教国家によって2度も原爆を投下された。 ベトナムではこのキリスト教国家によって大量の枯葉剤が撒かれ多くの奇形児が生まれた。 また信じるための神イエス・キリストは多くの奇跡を用いた。 その結果この奇跡を求めて数限りないカルトが生まれた。 このようなカルトによって地下鉄でサリンが撒かれたりもした。   さらに聖書とキリスト教など信じるための神は終末思想を説いた。 この終末思想によって世界の倫理観は大きく傷つけられた。 結局のところ、信じるための神は多くの災いをもたらし、何一つ良いことはもたらさなかった。 信じるための神とこれを支える聖書とキリスト教および神学は偽りであることが分かってきた。 今や信じるための神は信じる必要はなくなった。 神は我々人間から隔たっているものではなく、常に接しているもの、信じる必要はないもの、感じることが出来るものでなければならない。 そしてその神が完全無欠であり、永遠不変であり、永遠不滅であり、永遠無限であるならば、それは唯一絶対なるもの宇宙の法則以外には有り得ない。 宇宙の法則を除いて如何なる神も存在しない。 これで良いのではないか。  

  • 自由とは堕落ですか

    諸学問の成果には感謝するものです。

    • kurinal
    • 回答数25
  • 神は信じるものではなく、感じるものである

      古来より神は信じるためのものとして人間によって作られた。 しかしいつの頃からか、人はこの神を信じさせようとするようになった。 信じるための神はこれを信じさせるために多くの人の命を要求した。 そのため世界各地で争いが起き、戦争が起き、多くの命が失われた。 それは今現在も同じである。 日本などはキリスト教国家によって2度も原爆を投下された。 ベトナムではこのキリスト教国家によって大量の枯葉剤が撒かれ多くの奇形児が生まれた。 また信じるための神イエス・キリストは多くの奇跡を用いた。 その結果この奇跡を求めて数限りないカルトが生まれた。 このようなカルトによって地下鉄でサリンが撒かれたりもした。   さらに聖書とキリスト教など信じるための神は終末思想を説いた。 この終末思想によって世界の倫理観は大きく傷つけられた。 結局のところ、信じるための神は多くの災いをもたらし、何一つ良いことはもたらさなかった。 信じるための神とこれを支える聖書とキリスト教および神学は偽りであることが分かってきた。 今や信じるための神は信じる必要はなくなった。 神は我々人間から隔たっているものではなく、常に接しているもの、信じる必要はないもの、感じることが出来るものでなければならない。 そしてその神が完全無欠であり、永遠不変であり、永遠不滅であり、永遠無限であるならば、それは唯一絶対なるもの宇宙の法則以外には有り得ない。 宇宙の法則を除いて如何なる神も存在しない。 これで良いのではないか。  

  • 細胞膜で仕切られた相対空間にDNAができた理由?

    こんばんは。 人間は 細胞膜に仕切られたDNAを含んだ空間ですか?・・・(1) 空間を定義すると 絶対空間と相対空間を考えることができるようです。 絶対空間は、英国の自然哲学者ニュートンが唱えた空間概念で、連続的で均質な無限の広がりを想定している。 相対空間という概念は ライプニッツによれば、空間とは諸物の関係であり、空間の存在は、その中の諸物の関係を、幾何学などにより合理的に説明できれば証明されるとした。これは、空間の性質を、諸物の位置ならびに位置相互にある距離として表現するものであった。 すなわち アプリオリに私たちが存在する空間は 相対空間であり絶対空間はありえなく。人間は細胞膜により仕切られた空間=相対空間の一部になると思います。 ただですね 人間は地球という環境のもとでしか生きられないので肉体的に行動が制約される事を考えると 人間に絶対空間という概念が生まれたのも正しいともいえるのです。 (1)が正しいとすると (絶対空間という概念をもつ 相対空間の一部である)人間と 他の相対空間との違いはDNAである。 ここで質問なんですが 細胞膜で仕切られた相対空間にDNAができて人間になった理由はありますか?・・・(2)

  • 異議あり!

     今日(もうじき明日になりますが)、今朝方、投稿された質問に「通常の思考・知識」と「哲学の思考・知識」の相違点が知りたい、というのがありました。  三名から回答が寄せられていて、質問者さんの選んだベストアンサーは回答No.2でした。    私は、いまだに哲学とは、と云った問いにうまく答えることができないでいるので、この質問にはとても興味を持ちました。なるほど、こうした質問の仕方があるのか、こうした視点で「思考」と云うものを考えてみることで、「哲学」なるものが今よりもっとはっきりとつかめるかもしれないな、と思ったのです。  でも、質問者さんが選んだベストアンサーに、どうも納得がゆかないのです。  批判が目的ではありません。  哲学とは?と云ったことにもっと迫ってみたいのです。  私には、回答No.1,3、の方が、より「哲学」と云うものを表しているように思えたので、できればさらにこの問題に、意見を求めてみたくなりました。  ご意見のある方どうぞよろしくお願いいたします。    

    • Y  Y
    • 回答数6
  • 死ぬ前に、質問を。

    http://okwave.jp/qa/q7948654.html 好きな女性に謝りたい。 この質問をした者です。 結論から言いますと、私はもう、苦しいかもしれないけど、怖いかもしれないけど、死のうかと思っております。いつ死ぬかはこれから考えますが、その前に、出来る限り、ここで質問して、皆さんの意見を聞いてみたいと思ったので、質問させて頂きました。 まず、上記URLの質問を見てくだされば、私の悩みの一部が書いてありますので、どうかご一読くだされば幸いです。 それでは、残りの悩み、思いつく限り拙く書き記させていただきます。 まず、自分のことから。私は昔から、誰よりも何よりも脆弱です。泣き虫で、臆病で、無能で無知で、誰よりも劣っている、生きていてダメなゴミが私なのです。自分に誇れるものも頼れるものも無く、例え何かの価値が見つかったとしても、それは誰かの反面教師側の、人間としての悪いお手本役だと思います。 そんな自分をなんとか保とうと、私は虚勢をはることしかできませんでした。それが余計人から嫌われる原因となったことは言うまでもないです。誰よりも弱い、立場が下の下であるという現実が怖くて、いつも口を開けば、自分を真面に見せるためにホラ吹きばかり、理想や夢を語って立派に見せて、人に教えを伝える快感に浸っておりました。 仕事先でも偉そうに、周囲と私を比べて、私のほうが優れていることをどんどんと言いふらし、自分を守っておりました。怖かったのです。何もせずとも愛想つかされて嫌われて離れていってしまうことが。でも結局は、その行動のせいで人から嫌われたわけで、本末転倒ですね。 そして病気だと判明したのは数年前の病院で。しかし発症となったのは、幼少のいつ頃からか。私は欝等の精神疾患にかかり、今に至るまで問題や不幸、失敗等の悪循環が重なりに重なって、心身が正直微塵にまで砕かれて壊れてしまいました。全く回復の兆しなんて見えません。仕事なんてできません。数年経った今でも、微々たる成長は、もしかしたらあったのかもしれません。でもそれは、微細な砂粒一つの価値。回復へのなんの足しにも価値にもならないものです。よって成長なんてできません。職業訓練にも通いました。漢字の勉学のために本も買いました。でも、私の頭では覚えきれなくて、忘れてしまいます。精神的な病に関係しているかもしれないそうです。記憶の忘却。私は、自分の言いたいことや大事なことさえも、記憶から抜け落ちて、思い出したとしても、こと既に遅しといった場違いなところで思い出すという、全く役に立たない脳を持っているのです。その上、世界に生きていくだけの知能が遅れており、世間で言うどんくさい、役立たず、馬鹿、といった、貶される立場に立たされることを余儀なくされたのです。 そして後述する通り家族は頼ることができず、そして自らも色んなところから消え去らざるをえず、そして支えも頼りも消え失せていった、というか最初からなかったのですが、ですが、私は、気づけば、今も、そして幼少の頃からも、いつも一人ぼっちだったということに気づきました。いじめられ、馬鹿にされ、嫌われ、気持ち悪がられるのが、私でした。友達は遊んでくれたけど、助けてはくれませんでした。友達の真似をして生きてみたけど、それがまた逆効果で、人に迷惑をかけてしまうことがありました。友達に相談したときもありましたが、何から話せばいいのか頭が混乱して上手に伝えられず、結局、嫌な言い方ですが相手の力及ばず、そして私の助けを請うこともできないほどの知恵遅れのせいで、無駄、徒労となってしまいました。さらに余談で、そんな相手を私は怒らせてしまい、こうして誰ひとりも私の前から無くなったのです。居場所も自ら消して、そして同時に意図せずとも消えて、私は遂に空っぽになってしまったのです。 次に、家族のこと。 私は、二十の頃の母親と、三十前半代か二十代後半の父親の間にできた子供です。岐阜には小学一年を修了したところまで在住しておりました。 父は事あるごとに私を馬鹿にして、父が問う質問に答えられなければ、何故答えられない、何故わからないって直ぐに言わないんだ、と怒鳴られ、何回も殴られておりました。とある時は椅子で何度も叩かれたり、頭を鷲掴みにされ車のドアに何度もぶつけられ、森の中に敷かれた県道の、非常用停止場所のようなスペースに置き去りにされたこともありました。教育の範疇だと言われれば、そうなのかもしれません。でも、私にとって父は危害を加えてくる怖い人間だと認識していき、今に繋がる父に対する嫌悪感の原因の一つとなっていきました。幼少の記憶は人間故に時が経てば曖昧となっていくので、この殴打等の記憶以外にも、もしかしたら楽しい記憶はあったのかもしれません。友達と遊んだ記憶も勿論あります。でも、岐阜に住んでいた頃を思い出す時は必ず恐ろしい父の記憶ばかりです。 そしてある日、夜中に父と母が話し合いの末、母が離婚届を提出している現場を目撃してしまいました。幼いながらに二人は別れると感じ、その数日後には、父親は出て行って、二度と戻ってくることはありませんでした。そしてここから、記憶している中では私が中学二年までの期間に、母が幾人と男を取っ替え引っ変えする現実を体感していくこととなります。父嫌いの私にとっては苦痛そのものでした。母親に惚れているという事実がある以上、どれも下心溢れ出る人ばかりで、私に話しかけてくるそれらの男は、どれも変に気を使ってくる人ばかりでした。こんな人たちといつ結婚してしまうのかと幼いながらに怖かったです。結婚したらまた父親の暴力が始まると怯えてしまいました。ある人は私を連れ出してお前の母と結婚したい等と言われたこともありました。どうすればいいのか分からず、怖くて泣いてしまいました。ある人は私の目の前のベッドで母と二人抱き合いながら眠っていたこともあります。父親の、というか大人の男のイメージがどんどんと悪くなっていきました。しかし、岐阜で出会ったそれらの男の人とは付き合っても結婚までには至らず、いつの間にか実の父のように消え去っていました。なぜかは分かりません。そして、母親一つ手での生活サイクルが無理と判断したのでしょう、母は住居を実家の愛知に移ると伝えてきました。突如切り出されたので、驚きました。私は住み慣れた土地から離れるのが嫌だと言ったのですが、もう止められませんでした。そして引っ越せば、今度は祖父母と喧嘩して何回か家を追い出され引越しを繰り返しました。 そして、二人目の父親との結婚。しかし、DVが母親を襲い、私も一部蹴り飛ばされたこともありました。結局は喧嘩や話し合いの末に離婚。二人目の父親も怖く、共同生活が非常に苦しかったのを覚えております。 これによって、私の中での家族というものは、男はまず下心で母と私へとやらしく擦り寄り、子供そっちのけで愛を育む。そして結婚までいけば、あとは子供を殴り蹴り、母と喧嘩して、離婚する。自分勝手で、子供のことなんてどうでも良いと思えている。私は振り回され、苦痛と苦悩、不幸を押し付けられる。それが家族なんだと理解しました。 DV。他人様のご機嫌として気を使わないといけない家庭。勝手な家族事情に巻き込まれ。振り回され。ごめんなさい、もうここまで書いておいて、私は訳がわからなくなりました。うまく説明できません。ごめんなさい。ただ、家庭の環境も、私に否応なく色々な悩みや苦悩、ストレスを与える問題の一つであったという、要点だけ書いておきます。 でもみんなは、私を不幸じゃないと言います。悲劇のヒロイン気取ってるんじゃねえといってきます。甘えてなんていません。これは甘えや自惚れなのですか? なんだかここまで書いてもまだ文字数が必要です。もう溢れ出て書けません。でもとりあえずここまで書きました。続きはまた、許されるなら別の質問として続行して書いていきたいと思います。 とりあえず、ここまでの私を見て、みなさんはどう思いますか? あと、どうすればいいのかとかありますか? 私は不幸なのですか? 泣いてもいいのですか? 生きていてもいいのですか?

  • あなた達は堺が滅びない事に失望しましたか

    以前の質問、 悪の軍団 ショッカーの総帥募集中。 http://okwave.jp/qa/q7270230.html これの話です。 おおむね、世界の全ては苦であり、われわれの罪によってそのようになったこの世界が滅びる事はむしろ祝福である。 このような論理であったろうと考えます。 その滅びが無かったことに失望しますか。 それとも、滅びを信仰とする事にさらにまい進し、新たな滅びに希望を託しますか。 それとも、世界は永遠であり、生きる事に希望を見いだしますか。 要するにあなたは死に希望をつなぎますか、生に希望をつなぎますか。 誰もが死ぬ事を受け入れられますか。 今回はサル踊り品評会です。 どうせなら、レッツチチをもげダンスをしたいので、 http://okwave.jp/qa/q7541665.html オカマの振りをしてご回答ください。 酒を飲みながらお礼いたします。

  • 悪との向き合い方

    世の中、良いこと・善いことばかりだったらいいですが、それって理想ですよね。 自分の周辺にもいますが、存在が悪という人(思考様式が悪)がいます。 そういう人の存在も世の中の一部ですよね。 当然、自分にも悪は存在するでしょうし。 私は悪い部分を否定し、善を目指しました。ある意味理想郷にいて、悟りをひらいてます。しかし悪い部分もあるはずで否定じゃなくて受容してみたいのですが。 悪い人をどういった目でみればいいのでしょう。 また自分の悪い部分をどう認識すればいいのでしょうか。 悪との向き合い方がわかりません。 そして統合すればいいのでしょうか。

    • noname#209756
    • 回答数14
  • あなた達は堺が滅びない事に失望しましたか

    以前の質問、 悪の軍団 ショッカーの総帥募集中。 http://okwave.jp/qa/q7270230.html これの話です。 おおむね、世界の全ては苦であり、われわれの罪によってそのようになったこの世界が滅びる事はむしろ祝福である。 このような論理であったろうと考えます。 その滅びが無かったことに失望しますか。 それとも、滅びを信仰とする事にさらにまい進し、新たな滅びに希望を託しますか。 それとも、世界は永遠であり、生きる事に希望を見いだしますか。 要するにあなたは死に希望をつなぎますか、生に希望をつなぎますか。 誰もが死ぬ事を受け入れられますか。 今回はサル踊り品評会です。 どうせなら、レッツチチをもげダンスをしたいので、 http://okwave.jp/qa/q7541665.html オカマの振りをしてご回答ください。 酒を飲みながらお礼いたします。