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ピカソの思い出、あるいは思うこと
パブロ・ピカソ、といえば、おびただしい数の作品を残した、二十世紀を代表する芸術家です。 お好きな作品、作品についての思い出、あるいは、ピカソの作品について思いつかれることを教えてください。 果たして彼は、美術評論家たちの評価通り、世間を逸脱した天才画家だったのでしょうか。 ご意見、よろしくお願いします。
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再び、どうもです(笑) 何やら、ピカソの評価に相当疑問を持っていらっしゃるようですが 私は、どちらかと言うとポーリングによるポロックの抽象画が1番好きですし ピカソについて詳しくもありませんので説得力のあることを言える自信はありません。 ただ、「精神のリズム」に関しては 「青の時代」の社会背景やピカソの心理状況は、ほぼ関係ないだろうと思います。 なぜなら、それは、晩年の「一筆書き」のような絵からも感じられるからです。 恐らく、たまたま、生で観たから増幅されたのだろうと思います。 音楽で言えば、最初の1音で誰が演奏しているか分かることは、たまにあることですし マイルスも生涯色んなスタイルで演奏しましたが 基本的にマイルスが歌っていたフレーズは同じだったと思います。 そして、「一筆書き」のような絵が絵画の歴史から見て 「進歩」であったのかどうかまでは私には分かりません。 しかし、強弁に聞こえそうですが あの「一筆書き」は、ピカソにとって「禅画」のようなものではなかったかと思います。 つまり、あらゆるスタイルを試した後に訪れた「円熟」あるいは「悟りの境地」ではないかと思います。 私は、勿論、キュビズムの頃の婦人像等を愛しますし 恐らく「ゲルニカ」辺りがピークなんだろうと思いますが 最晩年の簡素な絵も深く愛します。 ですので、最晩年の簡素な絵に到達したことは 少なくとも、ピカソにとっては「進歩」であったろうと思います。 以前、指揮者について聞いた言葉ですが 「力を持った者だけが円熟し、力の無い物は腐る」とありました。 ピカソは見事に「円熟」したのだと思います。
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- からあげ ミームン(@marc2bolanti)
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今日は。去年からキンドルでは難儀されたようで、。ブラウザやサーバーの不具合ホント困りますね、自分じゃどうにもならない。 私がお休みというのも、4/9日のXPサポート終了後を決めかねてるからです。MSoft社とAdobeの余計なUpDateがほぼ毎週来てPC動作の邪魔ばかりしてたのでWindowsは止めたいのです。i-Padのアカウントもあるのでそっちに馴れるまで少し様子見です。 さて前回また端折った説明でスミマセン、補足です。 輪郭線ベラスケスの話は、線の事ではなく、物と物の境界の話でした。其処を拡大してくと境界線は曖昧になり、どちら側にも属さない、一次元の線には面積ないので。 後の科学の言葉ではフラクタルという事でしょうか、拡大すると複雑に入り組んでる。 仰るような浮世絵の線を学んだマチスやピカソは境界線の有無を使い分けてますね、「夢」の絵など、。その工夫あってささやかでも新しい時空を立ち上げてる、其処が近代絵画特有だと言わてる。 そもそもDimension次元は数学的イデアであり、現実界では曖昧ですね。 リアス式海岸線のように入り組んだフラクタル図形は1,・・次元、1と2次元の間。 素粒子で超弦理論が要請する10次元のうち余剰次元の、カラビ‐ヤウ多様体は6次元、絵空事ではない。いずれもその平面投影画像は美的ですね(参照Wikiフラクタル次元の画像)。 クォークより小さい素粒子は今後も観測不能ですが、これらを芸術家とVisionaryは観想できるのではないでしょうか? 草間弥生の無限の網目は超弦理論か膜宇宙論を思わせスキゾフレニー、ポロックは中性子の飛跡のようでLSDヴィジョン?に似ており、ゴッホの異様に高い彩度は麻薬かコカ摂取時のようです。 「病者の光学(ニーチェ」といいますが作家は正にあの画面のように見えてるらしい。それらがイマージュとして顕われるのですね。 普通タブローは2次元平面と見做されますが、拡大すれば現実には3次元の物質ですね。 それを平面と見做すのは脳で、3次元の物体の2次元図としての形象Figureが認められれば「ああ2次元平面」だとなる。 でもArt Brutのジャン・デュビュッフェなどが画面を盛り上げ、マチエールの物質性を強調すると、これは3次元立体の絵Objectだと認識する。ややアイデア倒れのConceptual Artでしょう(画面は面白いけど)。ピカソは逆です、現実の3次元などではなく、イマージュとしての3D。 フェルメールも絵具に砂など混ぜて、現代絵画のようなマチエールで異様なレアリティーを工夫したそうです(デルフト風景や牛乳を注ぐ女。 http://www.linkclub.or.jp/~kawasenb/05_koza_naiyo_1-13.htm この講座はキャメラObsukraの事。 Iceダンス2014;スペインSara選手のピカソCostumeはこちら、 https://www.youtube.com/watch?v=SsvfJsowIeA 良い絵は何かが立って来るという、。それは網膜というより視覚野に於いてでしょう。 でも視覚情報だけではなく、その人の観念・精神が複合するんですね。だから見識も重要となる、Ciaopoさんなら信仰もでしょうか。誰でも解る訳ではない。又、体調や経験知によっても評価は変わる。 その複合野が現代哲学で言われる「純粋平面」であり、其処に‘Image’イマージュとして立ち現われる。所謂イメージと言われる心象ではなく、Materiaでも観念イデアでもない、よく解らんモノ。 イマージュ論はベルクソンが言い始めジルDeleuzeが展開した概念です。 哲学出すと小難しいと言われるけど仕方ない、他に言い様無い^^。 ベルクソン論とマルクスの悟達を書いた 小林秀雄は半ばその事に気付いてたと言われ、あの時代では世界的な知性でしょう。間違いも言うので私もあまり読みませんし「近代絵画」も忘れましたが。 ランボーやボードレールやミショーは人工楽園;ハシッシュ等使用ですが、画家はもっと分析的ですね。 キュビズムの先達;セザンヌは風景を形態・単純な図形に分解して再統合したのでしょうが、私は何が良いか解らなかったけど、数年前横浜の展覧会で理解できました。 それ程の成果とは思えなかったけど同時展示の日仏の追随者の絵と比べると風格が全然違いました。 セザンヌ以降の後期印象派は評価できます。本人にしか出来ない技法のようです。 生でしか解らない絵の意義については、「感覚の論理学」Fベーコン論 Logique de la sensationで、Gilles Deleuzeがアナログについて述べてます。ドットに還元する写真やデジタルでは表現も受容も不可能な事象:イマージュがあるという、、其処だけは読めました^^。Image論を詳細に展開したのは「Cinema」同)ですがこれは読んでません、引用の映画を観てればそう難しくはないらしい。 宇野邦一著「D―死とイマージュ 」この{III,イマージュと主体化について}http://www.seidosha.co.jp/index.php?%A3%C4%A1%A1%BB%E0%A4%C8%A5%A4%A5%DE%A1%BC%A5%B8%A5%E5 <視線を見る?>の章が絵画論として示唆的でした、ドゥルーズ学者では最も映像学的な人です。こちらは少し読み易いでしょう。 ミチオ・カク教授は、nhkの「神の数式」で、特に超弦理論で案内役なされてました。「心の未来」も野心的のようでテレパシーまで扱ってるのでしょうか。Sirペンローズ博士などは量子脳論まで展開して危ない感じしますがワクワクもします、暗黒物質などだって本当か?とも思いますから、。 宇宙物理は最も芸術と隣接して相性良いのでは?殆ど創造にみえます。 私も両方好物なので勝手に大風呂敷広げてしましました、読み飛ばして下さい^^。 フリーマン氏ナレーションのもBSのCosmicフロントという番組で見た覚えあります。 例によって長くなりました、お礼はどうぞ適宜に。では
お礼
そうですねぇ。。。何かの授業で、直線というのは、存在しない、というのを聴いた覚えがあります。”あら、そうですか?”という感じでした。物理学的・数学的に、境界線は存在しなくても、線画が”美しければそれでよろしい”という風に、受け流してしまいます。 フェルメールの解説は面白かったです。私には、実際に、カメラなどより優れた、視覚が備わっているのに、どうして機械に頼るかなぁ。。。と、ちょっと不満で、不思議でもあります。なにか、制約の中(小さな枠の中)で、お約束どおりに描いている印象が。。。一言で言うと、不自然。ターバンや、少女のほほのかっきりした影は、自然光では一直線には絶対になりません。カメラのレンズにだまされたような。。。でも、それが近代の画家たちに影響を与えたのなら、それは、よいことなんでしょう。 宗教革命で、新教徒たちは、バチカンに破門されて、画家たちは教会の仕事を失い、新たに、新興商人達がパトロンになって、バロック期のオランダ画壇はかえって活気づきます。船にのって、遠く、世界の果ての日本にまで、商売に来ていたのでしょう。日本の画壇に、オランダの油絵が影響を与えたかもしれませんね。 ゴッホは、緑内障であったとも言われているらしくて。年のせいか、私も、夜はよく見えなくなって、車の運転をすると、対向車のヘッドライトや、街の明かりが滲んで見えます。 http://www.google.com/culturalinstitute/asset-viewer/starry-night/uQE3XORhSK37Dw?utm_source=google&utm_medium=kp&hl=en&projectId=art-project 実際にこんな風に見えます。薬イラズです。 目が、脳に特別近い器官であるのは、意味深いことです。 マーク2さんは、楽しく分析なさってください。ドュールーズ、ベルグソン、など、実際に創作なさると、お説が身近に感じられるかもしれません。(機会があったら、読んでみますが、戦争と平和のあとになります)でも,絵は、描かないとうまくならないんですよね~、これは。苦しんだ絵ほど、あとで見てみると、良く仕上がっています。人間の出来不出来と同じでしょうか。 アンケートの質問のお礼もしましたので、目が疲れてきました。本日は、この辺で失礼いたします。わがままな質問者に、親身にお付き合いくださり、ありがとうございました。 P.S. ピカソの衣装は、一言。。。”着てみたい”です。斬新、とか新鮮の三段階ぐらい上を行きます。
- からあげ ミームン(@marc2bolanti)
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今日は。五輪アイスダンスは御覧になられましたか? スペインのSara選手、ほらね^^、ピカソのドラマール肖像の衣裳で決めてくれました。我が意を後押ししてくれた気がして、これは書かずに居られません^^。 フィギュアの町田選手の座右の書も、ヘーゲル「美学講義」だそうで驚きます。アートとして滑るのだとか、。アスリートがそうなのだから評論家も我々も怠けてられませんね。いずれ読解力落ちるので今のうちですよ。 フランスのサッカーNationalチームYouthのトレーニングでは哲学クラスが必修だし、フランクフルトバレエのフォーサイスはDeconstructionですから仏現代思想を熟知してます。 一流の芸術家は皆それなりに厳密な方法論を築きますね、世界を捉える感覚の真実を表す為。「長きに渡る意思的、感覚の混き」ランボーの有名なVoyantの手紙のような、。私の眼も普通ですがまあ色々試しはしました。 Out of focusは当時のCamera obskuraの写像だと輪郭が柔らかでハイライトの輝線が強調されえも言われない美しさだそうですが当然、人の目でも焦点をOutに出来ます。青いダーバンの少女はピントが少し手前らしい、。凝視せずに見る;動物との付き合い方。 Nativeインディアンの方法;カスタネダのドンファンシリーズ;ソノラ砂漠風景を同様の方法で観て、通常の知覚=トーナルを止観し情報を溢れさせ、Nagwarという高められた意識で見る事。知覚域を昆虫のように紫外線域、赤ちゃんのように超音波域まで広げるだけでなく磁気まで感受するのだと思う。世界の見え方は一変します。精霊とか神秘とかそういう事だと思う。 輪郭線についてはベラスケスの言葉が興味深く、GodardがPiero le fouで引用してベルモンドにしゃべらせてました。 方法は「長きに渡る」ですから、一定時間の根気が必要、サティのヴェクサシオンは8時間以上、何小節かをミニマルに延々繰り返すと聴覚が変容し別世界が出現する事が確認されてます。 絵を見る時は構えずに見たいですが、作為が要る場合もあるのでしょう。 ピカソを想って私は動物になって、爛爛と乗って対峙したり、。獰猛な知性!キースJarretは自伝でアドリブにはそれが必要と言ってます。 感情ではなく情動Affectus(外から来る&内湧き上がる)を捉え乗る事。狂暴かつ繊細:Forcener(Jackデリダのアルトー、デッサン論)。ピカソもそんな感じします、自由を描いたわけでは無い。岡本太郎は自由の観念に囚われて方法論を突き詰めなかった、其処が違う。オブジェやエッセイは素晴らしいですが、。 Ciaopolpoさんのプロフ「居るのに見えない存在・・」それは顕われる得る! イマージュとして到来するのでしょう。 ドゴン族の神話ではシリウスが二重連星だと伝承されて来た、もちろん肉眼では判らないけどイマージュとして観想できる場合があるのです。 この報告をカールセーガン等は否定してますがその常識派の説も説得力に欠けてる。無論シリウス人が来たとかはどうでもよい。 http://www5f.biglobe.ne.jp/~daddy8/z/ep2/2f.htm http://www2.odn.ne.jp/~cic04500/atlan09.html(1つめの最下部に「古代ギリシャ人は「青色」が見えなかったらしい」というトリビアも有ります。御主人は御存知でしょうか?) 梶井の「Kの昇天」は月まで意識を飛ばす話だと思いますが、それらがドゥルーズの言う「観想するContemplan」という事なのかも知れません。 珪素は隣の分子結合だけでなく結晶の全体構造を観想するという、。それを擬人化してしまうと人間中心のアニミズムに為ってしまいトンデモ学説に陥ります、物にも心が有るなどという、。 またそれを疑うだけの凡庸な学者もイマージュ論との区別が出来ません、だから只の常識に留まる。 今世紀後半の宇宙科学哲学は其処を廻るでしょう。ベルクソンから始まったモノですが、神秘主義の烙印捺す勢力も未だ居ます。 興味御座いましたら参考文献等お知らせします、XPサポートもあと一月ですのでその後は暫らくお休みするつもりですので。 お好みの陶磁器は京焼の仁清ですね、私も最初は其処から始まりました、藤や雉の絵の壺、国宝だったかな? ヤフオクで偶に、江戸初期の絵付きの古清水焼の皿とかが5千円以下で出ててお勧めです、胎土が未だ軟らかくて鄙びた感じであまり人気高くはないようです。 では
お礼
お礼が、とんでもなく遅れてしまい、申し訳ございません。 MSN相談箱で、IEプラウザに問題が起きて、マイ・アカウントにサイン・インできない日が続きまして。現在も、根本的な問題は解決していないようですが、なぜだか、マイ・ページを開くことができました。 ソチのオリンピックも終わってしまい、今度は、ウクライナ問題がこじれているようですね。クリミア半島は、バルカン半島と並んで、きな臭い、戦争の起こりやすい地域で、こういうのはやはり、戦略的に重要な場所に位置しているとか、住民の自主独立の気概が強い、とかが、原因なのでしょうか。朝鮮半島はいかがでしょう。 開会式のときに、ボリショイ・バレエのプリマ・ダンサーが、ダンスの床ではない所で、張り切って踊っていたのが、”戦争と平和”で、私もトルストイを張り切って読み始めました。(ダンス世界では、オリンピックにダンスがないのは不公平だ、と言う人がけっこういます。)ナポレオンとプーチン大統領を重ねながら読み進めています。 こちらでは、スペインのアイスダンスを放映しませんでした。残念。金メダルを取ったディビス・ホワイト組みは、ショートプログラムの振り付けを、テレビの社交ダンスのプログラムで有名なダンサーに頼んだようにききました。 こちらの男の子です。パートナーは妹さんです。勝ちにゆく時は、そんな手段もとるようです。 https://www.youtube.com/watch?v=7KChBpxOA1M シリウスの話は、興味深いですね。 私は、成長期、家庭環境に恵まれなかったため、根本のところで、人間を信じていません。特に、人間の感性ほどあてにならないものはない、とあきらめています。絶望に近いものがあります。 哲学をなさる方は、自分に絶対の自信があるか、幼少期にご両親に可愛がられて大きくなられたんだろう、と、考えています。”自分の身は自分で守らなくてはならなかった”ので、マークさんがこだわっておられる部分を、今度は、私がすっ飛ばして生きてきたように思います。 ですから、無作為に美しいものや、人間の手になるとは信じられないものを、尊く感じます。そうしているうちに、梶井さんではないけれど、正しいもの、美しいものを、見極める”感”が備わっている人間が存在するように思い始めるわけです。 例にとられたランボーなら、人をうつ、衝撃的な詩を創作するけれど、彼にはそんなもの、何の価値もなかったかもしれない、でも、詩は残ります。そして人の心をうち続けます。私には、ランボーさんの生涯など、どっちでも良いのと同じです。作品が素晴らしければ、作家がどんな無頼であろうと、良いと思うのです。 詩は、それでも良いのですが、絵画や音楽の場合は、きちんとした方法論がなければ、何年たっても作品は完成しませんね。私があまり印象派を好まないのは、集団で、議論に議論を重ねて、方法論を、”庶民的”にしてしまったところにあります。”貴方も今日から、印象派の画家になれる”みたいな。。。。 長くなりました。。。うちのほうでは、モーガン・フリーマンがナレーターになって、宇宙科学のTV番組が。。。たしか、”ミミズの宇宙観”みたいな題で、あります。他にも、カク・ミチオ教授も、面白い宇宙物理の番組を持っています。彼の最新本は、こちら。”The Future of the Mind”、応用問題風です。 http://www.amazon.com/Future-Mind-Scientific-Understand-Enhance-ebook/dp/B00EX4E258/ref=la_B000ARDFYQ_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1393904664&sr=1-1 http://en.wikipedia.org/wiki/Michio_Kaku こちらでは、そんなところです。マークさんが思し召しの、むずかしい文献、私に理解可能でしょうか?? 最後に、私は、もう、素人ですが、いくら国宝でも、雉や藤の花はちょっと。。。もう少しキリッと、ピリッと、ひねりのきいたのをお願いします!! ご回答ありがとうございました。
補足
お礼に、肝心なお話が抜けていたので補足します。 作品の見方、についてです。 ”Out of focusは当時のCamera obskuraの写像だと輪郭が柔らかでハイライトの輝線が強調されえも言われない美しさだそうですが当然、人の目でも焦点をOutに出来ます。青いダーバンの少女はピントが少し手前らしい、。凝視せずに見る;動物との付き合い方。” フェルメールは、カメラ・オブスキュラの像を画面に取り入れて、それから、自分なりの工夫をしたんでしょうね。自然の線とは思えないねじれやゆがみが特に人間の表情に見られます。ダ・ヴィンチも、斜め後ろを向いた天使の表情など、自然では起こりえないゆがみ具合です。そのあたり、耳飾やターバンの少女がモナリザと比されるのも、当然のことかと思います。 ” Nativeインディアンの方法;カスタネダのドンファンシリーズ;ソノラ砂漠風景を同様の方法で観て、通常の知覚=トーナルを止観し情報を溢れさせ、Nagwarという高められた意識で見る事。知覚域を昆虫のように紫外線域、赤ちゃんのように超音波域まで広げるだけでなく磁気まで感受するのだと思う。世界の見え方は一変します。精霊とか神秘とかそういう事だと思う。” 通常の意識を全て、ガスの元栓を切るようにとめてしまう、というのには同感です。音楽や絵画に対するときに、どれだけ”捨てられるか”によって、受け止められる容量が違ってくるように感じます。対象が非現実であればあるほど、”常識的な自分”が邪魔をするので、それをかなぐり捨てないと!!! ”輪郭線についてはベラスケスの言葉が興味深く、GodardがPiero le fouで引用してベルモンドにしゃべらせてました。” 輪郭線。。。一番綺麗なのは,ボッティチェリでしょうか。。。浮世絵も、線画ですね。 ”方法は「長きに渡る」ですから、一定時間の根気が必要、サティのヴェクサシオンは8時間以上、何小節かをミニマルに延々繰り返すと聴覚が変容し別世界が出現する事が確認されてます。” 脳の働きについては、オバマさん、アルツハイマーを撲滅しようと呼びかけています。サティのような一見無味乾燥にきこえる音楽を繰り返すことで、怠惰になった脳の働きを高められるのなら、治療に使えるかもしれませんね。 ”絵を見る時は構えずに見たいですが、作為が要る場合もあるのでしょう。 ピカソを想って私は動物になって、爛爛と乗って対峙したり、。獰猛な知性!キースJarretは自伝でアドリブにはそれが必要と言ってます。 感情ではなく情動Affectus(外から来る&内湧き上がる)を捉え乗る事。狂暴かつ繊細:Forcener(Jackデリダのアルトー、デッサン論)。ピカソもそんな感じします、自由を描いたわけでは無い。” 恐れずに、能動的に対象を内包する、というのには、訓練がいりますね。今まで、どうということがないと思っていたものを愛し始めることができたり、素晴らしさがわかり始めるときのときめきは、ほかに変えることのできない、人生の贅沢なので、修行は続けなくてはいけません!! この、素晴らしい感覚は、実は、スポーツやダンスのあとの、すがすがしい気持ちのよさに、通じる所があるように思うのですが、Adeleさんならどうおっしゃるかなぁ。。。。 以上、長々しくも、駄文を連ねた補足になりました。しばらくお休みとのことです。寂しくなりますが、またお暇を見つけて、いつかお戻りくださいませ。
- からあげ ミームン(@marc2bolanti)
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今日は。スミマセン五輪で眠くて、一杯間違え訂正します(笑。 高潔な精神は充分条件・・云々は忘れて下さい^^、言いたかったのは 大芸術家にとって高邁さは必ずしも必要条件ではなく、むしろAmbitions野心が必要という事;これも大志と訳すと高潔さが強調され過ぎですね。 ピカソもマイルスDも女性を何人も乗り換え、英雄、色好むですか、他回答者様も嫌う処です^^、私も尊敬はしてません。でも芸の道の父親みたいな存在なのは否定しようがない。 倫理規範としてのMoralなど犬にでも食われてしまえ!でしょう、でも大家は必ず特有の人生のEthics;個人的Ethicaを持ってます。 二人とも完全なオリジネーターとは言えない。特にブラックとマチスからコンセプト拝借してますね、でも芸術的野心のお蔭で一番突出した作品を生み出してしまう、芸術の神(特にギリシャの)はその野心を愛してるという事です。芸術上突抜けようという欲望でしょうか。 哲学では、Conceptはキリスト教、Ideaはプラトンの事も含意してます、何か高次の概念;この世為らざるモノを孕んでしまうという、。天才の所以です。 観るほうとしてはその欲望にむせ返る時もあり、私は部屋に飾るにはマチスのほうを好みます。前回挙げたピカソのも学生時代の事、端整・メランコリー優美で夢見がち、。今は青白磁も好みません、伊賀丹波などの国焼きの土モノ愛好してます。でも芸術的達成としては、ピカソとフランシスBaconの何点かには驚愕しますね。 回答長くなるの避けようと、いつもスッ飛ばしてしまいます御免なさい、この際書いちゃいますね^^。 ◎「夢-マリ=テレーズ」ですが次サイト中頃、 http://yoi-art.at.webry.info/201202/article_3.html 上側の輪郭無くして正に半分夢に溶け出してるようですね。 でも色面構成はマチスに学んだと思います。似た印象のは、 http://www.francetvinfo.fr/culture/expos/matisse-le-meilleur-du-meilleur-au-centre-pompidou_68905.html 上から3枚目。 "La Blouse roumaine", と"Le Rêve=夢", この時期でしょうか。ピカソの「夢」はこれより早い時期ですが、もっと前のマチスから影響受けてるのでは? ◎泣く女」、私が見たのは違うタイトルだったかも知れません訂正します。泣く女は他にも有ったと思いますが、そのモデルのDora Maar の肖像だったかも。 http://www.ccma-net.jp/exhibition_end/2004/0522/04_0522.html これではないですがこんな感じ、。私が言う立体化が成功したのはごく少数でしょうが、似た絵は沢山有って、みな横顔と正面の複合が殆どですね。 それによって単一焦点が複数化され、見方によって焦点が決定不能となる。 焦点は多分、絵モデルの眼の位置が決定するのでしょうが、その互いの眼の距離の按配で3Dヴィジョンになる事が有るのだと思う、。 モデルの頭と視線が振え動き回り、正に生物のよう、。腰抜かしますよ!あの顔が生きて動くんですから。奥行感か動感かはっきり憶えてはないです、でも視差を利用した機械仕掛けの3D化とは異なるモノ、3Dどころか頚動する時間次元含め4D以上かも。 そのVisionは絵画史上初めて出現した奇跡では?、2次元でも3・4次元でもあるという存在の有り得なさ、正に創造。 神であり人でもあるという‘あの人’の出現のようではないでしょうか? それ程まれな事だと思う。新時空の創造こそ芸術家の役割、と哲学者が言ってます。 一般の3Dは現実の再現シュミラクルに過ぎないです。 皆さん、ドラマールの諸肖像画でそんな体験無いでしょうか? 評論家含め皆、立体なんかには見えるはずないとタカ括ってるでしょう、そうではない!どうぞ記憶の端にでも留めて伝えて下さいな。 もしや見方のコツがあるかも?例えばフェルメールの「 Slightly,Out of focus」、また長いので詳しくは今度にしましょう^^。 Cubismは、仰るようにブラックらとの理論が先にあるけれど、ピカソは理知主義ではなく、その都度の感覚的実験的な描き方だと思います。偶々出来ちゃった!其処が天才。 ご紹介の悲嘆の聖母のイコンは興味深いですね、確かにその伝統が近代まで有るのでしょう。でもパートナーの女性をあれだけ泣かしたピカソです、「ああ女が泣いてる、、絵にしてしまおう」などと先ず、絵を第一に考えてたのでは? 形態やマチスのように色の追求に特化はせず、画題と技法が渾然となった特徴を見ると、常に人生と出来事の真実;Essentia本質を表そうと常日頃から構えてた気がします、泣く事の真実とか、。哲学詩人のような見方で暮らしてたのではないか? 家族はどうでもいい訳ではないですが二の次だったでしょう。 5本足のグリフォン?も初めてで面白いです、ちょっと千住にあったお化け煙突思い出しました、見る方角によって、1本~4本にも見えるという、。 ショーン君は運営の杜撰さに抗議してもう一つの競技は棄権したそうで、流石にプロです、五輪メダルなどそんなに欲しくはないのでは? では又
お礼
オリンピック、観るほうも疲れますよねぇ。。。リクエストに答えて、詳しいご説明、ありがとうございます。 そうでしょうね。常に本質を突き止めようと、構えていたのかもしれないし、”絵になるものが、とにかく見えてしまった”のかも知れませんね。 ***** 聖書で、多神教のシンボルになるのは、Baalという、当時、中近東に広がっていた、雨を降らせ、雷を鳴らす神様で、農地に、豊作を祈るため、像を埋めていたそうです。それに、一神教の、旧約聖書の神様は、やきもちを妬いて、禁止して、自分だけを崇めるよう、口をすっぱくして言い続けましたが、カナンの地に落ち着いたユダヤ人は、最後までBaalの祭祀を先住民から受けついて、続けてゆきました。キリスト教では、Baalは悪魔扱いです。 一神教を信じて、厳しい自然や災害のなかで生きてゆくのは、所詮、やせ我慢ではないか。多神教が、実は、人間が部落を作って、農業や牧畜をしてゆくのに、より、ピッタリくるのではないか。多神教を、今も保っている日本の地に生まれ育った私は、この、”あっちがダメなら、こっち”という考え方の、心地よさを良くわかっています。 それと同じように、男性も、一人の女性だけで満足してゆくのは、本来の男性の姿ではないのではないか???英雄、色を好む、というのも、優れた人間は、それだけ数多くの女性との交渉を、構造上、必要としてしまうのではないか???(昔から、言われてきたことですが。。。それを可能にするだけの、魅力もあるんでしょう。) ****** ピカソの3Dもそうですし、ご指摘のフェルメールの絵画も、”光の加減のいたずら”というのがありますね。美術館の採光で見えないものも、自宅の居間なら見えるかもしれないし、午前と午後でも、まったく見え方が変わりますので。なにが、真実か、どれが本物か、というのは、私たちの網膜の奥の、脳の優劣によるのでしょうか。テレビや映画の映像で慣れてしまったわれわれが、自然光のなかで、コロッとだまされることもあります。:) 余談ですが、夫は、色弱で、ブルーと緑の区別がつきません!!絵を見に行って、”多分、貴方と私は、まったく違ったものを認識しているのよねぇ。。。”、”君が、どんな風な画像を見ているのか、知りたいものだ。。。。”みたいな会話になります。イチロー選手は、動体視力が異常に良いそうで、速く動きすぎて、私たちに見えないものが、とまって見えるそうです。それも、面白そうですね。目の色でも、色の認識が変わってくるらしいですね。マーク2さんの目の仕組みに、なにか、秘密があるのかもしれません。 ****** 伊賀丹波がお好きとのことで、そういえば、熱海になんとか言う美術館には、つぼというか、甕というか、たくさんコレクションがありました。私には全部同じように見えたつぼは、ひとつ、ひとつ、微妙に景色が違っているらしいですね。私の好きだったのは、こちら。女子供の好みです。 http://www.moaart.or.jp/collection/japanese-ceramics171/ ****** キリスト教でコンセプト、ギリシア哲学でイデア、というのは、始めてききました。野心を持つことで、人ならぬ、神に属する崇高なものを孕んでしまう、ということですね。。。子供だましですが、ヤギの角を持つ、半神半獣、牧神が、そこに存在すると、それだけで、いつも見慣れた景色が、薄紗をかけたように美しいものに変わる、という伝説を思い出しました。野卑なものの存在が、美を際立たせる、一例です。 オリンピックで、お忙しいところ、ご回答ありがとうございました。
- alterd1953
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お言葉に甘えてまたまた登場します(笑) 突飛な引用で恐縮ですが 私は、そのひねくれた性格が大嫌いなんですが ビートたけしが言った言葉で一つだけ共感した言葉あります。 それは 「男の勝負は一瞬で決まる」というものです。 実際、人間は、まず面構えにほとんど全てが表れているように思います。 ですので、その人の人間性は一瞬で分かると言っても過言ではないのではないかと 思います。 そこで、芸術作品のついて敷衍すると 絵は一瞥、文学は最初の一行、映画はタイトルバック、音楽は最初の数音に 多くの情報がすでに含まれていると思います。 勿論、同じ受け手であっても時期によって感じ方が変わりますので 最初、何も感じなければ、とりあえずスルーして 時期を置いてから、また接すれば良いのだと思っています。 添付して頂いた絵は、やはり良い作品だと思います。 やはり、うずくまった裸婦を描いたゴッホの作品があったかと思いますが 同じように深い絶望を抱いた女性の姿に胸を打たれます。 とても、生半可な画力の画家では描けない境地でしょうね。 あ。 後、私が観た「青の時代」の絵の詳細は覚えていません。 先にも書きましたが、私は、まず、その作家がどの程度の力量なのかを見ますので 作品の出来不出来やモチーフの詳細等は二の次なのです。 そして、あの体験は、それらの細かい事は吹っ飛ばすほど強烈でした。 そして、私は、例えばディラン等もそうなんですが ピカソのような、あまりにも力強さの勝った芸術家は実は少し苦手なのです。 でも、そのピカソが、プリミティヴ・アートのルソーを絶賛したというのは 微笑ましいエピソードです。 これもまた、突飛な例えかもしれませんが あの爆笑王だった枝雀が人情話が上手い噺家を羨ましがったことに似ているでしょうか(笑) ではまた(笑)
お礼
枝雀さんが、人情話のうまい噺家さんを、ですか? 師匠が米朝さんだと、登れど、登れど、頂上が見えなかったかもしれませんね。枝雀さんは、女の人、色っぽかったように覚えていますが、自己に厳しいかただったんでしょうか。 ピカソが、ルソーを? 下の、蛇使いは、アダムとイブの、イブであると、解説されています。りんごをくれた蛇を、操っているらしいです。ご存知でしょうが、ピカソが、ルソーのこの作品を見て、”君はアフリカ風、僕は現代風に同じものを追及しているのだ”といって、解説者は、面白い。。。Funny。。。といっています。 これ、膨大な量の葉っぱ、大変ですよね。。。クリムトのときも、小さな渦巻き、骨が折れました。 http://www.henrirousseau.net/the-snake-charmer.jsp アルタードさん、これ、お好きだろうなぁ。。。。 http://www.henrirousseau.net/carnival-evening.jsp ピエロだと、私のお気に入りは、ヴァットーになります。 http://www.louvre.fr/en/oeuvre-notices/pierrot-formerly-known-gilles 蹲ったゴッホの裸婦。。。女性の身から見ると、冷徹な絵ですね。 http://www.wikipaintings.org/en/vincent-van-gogh/sorrow-1882-2 アルタードさんが、一瞬で、絵画からでるバイブ、すなわちオーラを大切になさる、というのも、私には、面白く感じられます。 模写したいほどの気持ちは、私の場合も、限られた絵にしか、持てません。大好きな絵でないと、途中で、必ず挫折します。それが一瞬のうちに予言できるといいんですが、描いているうちに、うんざりすることもあるので、その時点で、”失敗だったなぁ”。。。とため息をつきますね。 一月のち、とか、完成間じかのこともありますので、パッと、見分けられると、助かります。 またまた余談になりますが、ジョージ・クルーニー、マット・ディモン、ケイト・ブランシェで、第二次世界大戦中、ナチに押収された名画を、取り返しにゆく、”モニュメント・マン”という映画が、今週末に封切りの様子です。DVDを待って、観てみたい気がします。 ご回答、ありがとうございました。
- からあげ ミームン(@marc2bolanti)
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今日は。ピカソは私、学生の頃3枚室内に飾ってました。 ◎《酒場の二人の女》、青の時代。添付されてる物です。仏文だと、教養としてデカダン・耽美・アンニュイ・世紀末、等には浸らされるのです、普通は其処から卒業します^^。若くて受容力があるから、恐いもの見たさで付き合えるのでしょう、ピカソも若気の所業でしょう。でも既に弱者への慈愛は一流、これも仰る並外れた生命力の為せるワザ。愛が有り余ってる人だけに可能です。 私達もアプサン・ペルノー飲みながら語りましたよ、無論、毒を除去したヤツです。 ◎腕を組んですわるサルタンバンク、新古典主義時代。 http://www.bridgestone-museum.gr.jp/collection/works/23/ これは綺麗な名品で現物観ました大きいです。色面と線で構成されちょっと近代日本画みたい、日本画の方が真似したかも知れませんが。私の恩師が自作絵も少し売れた人で、色んな画家の模写もしてましたが、この時代と晩年の子供のような絵は結構難しいらしいです、特に線。私も書や禅画と捉えてました。 模写ではなく、各画家の技法でお好きな対象を書くトライも楽しいそうですよ。知り合いのキリスト者はルオーも好んで模写してましたね。 ◎「夢-マリ=テレーズ(1932年」題名の通りの素敵な画面構成。マチスの剽窃でしょうか。ピカソやマイルスは本家より巧くやってしまうことが有りますね。違いはより高次のIdea=Conception(処女懐胎の意味も含む)、何かIdealなモノを孕んでしまうんですね。 そこが表現者としての洞察力の優劣なのでしょう、別に高潔な精神とかあまり関係無く、それは充分条件に過ぎない、むしろ野心、神の領域にも近付くような好奇心が必要、それを神も好むのかも知れません。 さて私、こんな質問しました、Weeping Woman について http://oshiete.sponichi.co.jp/qa8088467.html 「ピカソのキュビズム泣く女が本当に3D立体に見えた方いらっしゃいませんか?」カタログが手元に無いですが確か、スペインの美術館所有だったと記憶してます。他の同題材画ではその効果は判りません、ピカソでも傑作は限られてるでしょう。 しかしこれは掛け値なしに革命的絵画です。只の3Dヴィジョンとは違って、絵が動く感じでした。 兎に角、写真では絶対に判らない、そんな絵は結構ありますね。逆に、展示法や照明が悪いと写真の方が良いのも有ります、マチスやゴッホでがっかりしたのも御座いました。 しかしそれも個人の感受容力や体調にもよるので絶対評価は出来ません。 泣く女も、皆その効果を享受したのだろうと思ったら、3Dに見えた等と言う輩は世界中で私だけかも知れません。 Netで調べても出てない、評論家でも誰も言ってないよう、。画家本人はその様に見えてたと確信してますが、。 でも分析的Cubismはそれを狙ったはずなんです。私はその時、薬物などやってない、正常な視力だったんですけどねぇ。特殊かも知れません、だから絶対的に孤独です(笑)、でもピカソはお友達と思ってますから^^。 そもそもDimension次元は数学的イデアであり・・、 以下Cubismについて御興味御座いましたら次回補足します、 只今アイスホッケー女子;アメリカVsカナダ観てる処です^^、。では又ごきげんよう。
お礼
女子アイスホッケーは、アメリカ、敗戦だったようですね。負けてしまうと、特に、チームスポーツは、全然ニュースになりません。グーグルしても、スロバキアに勝ったことは、おおっぴらですが、負けたゲームについては、探すのがむずかしいです。内緒にしているのかも。個人で、オリンピック二連覇、三連覇を狙っていた選手は、軒並み、こけたようですね。ショーン・ホワイトは、見ていて、可愛そうでした。皆、同じ気持ちのようで、そっとして置いてあげたいです。 マーク2さんは、驚いたことに、大学の頃から、美麗かつ端正な絵画がお好きだったようです。昔から現在まで、お好きな傾向は変わりませんか? 生意気を承知で言えば、お好きな絵画には、陶磁器の艶やかさがあるような。さらに、整った形をした、青磁・白磁の涼感に満ちているように感じました。でも、同時に暖かくもあります。手の冷たい女性の心の温かさを思わせます。 たまに、”すっ飛ばしてしまわれる”ことがあり、今回も、かなり遠くまでとんでおられます。”エッ?エッ?”といいながら、読んでいます。 ”(マチスとピカソの)違いは(ピカソの場合、)より高次のIdea=Conception(処女懐胎の意味も含む)、何かIdealなモノを孕んでしまうんですね。 そこが表現者としての洞察力の優劣なのでしょう、別に高潔な精神とかあまり関係無く、それは充分条件に過ぎない、むしろ野心、神の領域にも近付くような好奇心が必要、それを神も好むのかも知れません。” というところが、私の誤解を呼んでしまったように思います。 高次元の概念とその包括するもの(が生み出すアイデア)+充分条件としての高潔な精神+野心と好奇心+神からの祝福=ピカソの作品 ではないですよね???違いますよね??? もう少し、噛み砕いてご説明いただけると、納得できるかもしれません。ご存知でしょうが、処女受胎は、immaculate conceptionという用語があり、一般のいわゆる受胎とは厳しく区別されています。一応、念のため。 http://www.pablopicasso.org/the-weeping-woman.jsp ウィーピング・ウーマンにつきましては、激情のスペイン、伝統のMeter Dolorosa (これに音楽をつけると、スタバト・マーテルになりましょうか。)の系譜をたどるものらしいです。以下、画像です。 http://commons.wikimedia.org/wiki/Category:Statues_of_Mater_dolorosa_in_Spain ピカソの恋人らしい若い女性が、ハンカチを噛みながら、いやいやと首を振りながら、悲しみにうちひしがれているところでしょう。(恋人が画家だと、絵に描かれてしまうんですねぇ。。。。私には、実際にそう見える、というより、理論的には、こうなるはずだ、という風に感じます。 ローマのおっぱいをあげている母狼だと思いましたが、これは、私の間違いで、アッシリアの顔と羽のあるライオンが、見えるままに彫刻していったら、五本足になってしまったというのがありました。 http://www.britishmuseum.org/explore/highlights/highlight_objects/me/c/colossal_statue_winged_bull.aspx その手法を、素直に逆にたどって行ったのかもしれませんね。 ピカソの一筆書きについては、水墨画や書道の伝統のある日本人には、わかりやすいように思いました。書道家の篠田桃紅さんの大作が、むしろ抽象画のようなのに、ピカソのほうが、より一筆書きっぽいのは、ほほえましいです。 最後に、今回は、ピカソと貴方のかかわりを知りたくて質問いたしましたので、学術的なご説明も受け付けますが、う~ん、ウェブサイトで読めるものは、あまり参考にならないこともあります。 ご回答、ありがとうございました。
- alterd1953
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何度もすみません(笑) 「精神のリズム」に関しては、もうお分かり頂けたようですので 全くの蛇足になってしまいますが 前回投稿した後、思い付いたことがありましたので述べさせて頂きます。 それは、初めての人と話す時に、しばらく話していると その人の知性や物事をどのぐらい正確かつ深く あるいは、どのように理解しているかを大体分かるかと思います。 そこで、ピカソを初めて観た時に驚愕したのは その、物事を見通す目の正確さと深さだったのではないかということです。 それは、他の超一級の芸術家一般にも言えることかと思いますが 私を畏怖させるには十分なものでした。
お礼
アルタードさんは、感が鋭くておられるんでしょうね。 青の時代のどの絵画をご覧になったのか、大変興味があります。 あと、もうひとつ、候補として、青の時代の、ブルー・ヌードも興味があるのですが、多分ヌードを家に飾るのは、夫が嫌うでありましょう。 http://www.pablopicasso.org/blue-nude.jsp 対象を、正確にキャンバスに写し取る技術は、もう、十歳の時には、マスターしていたといわれていますね。そこからの長い旅路です。 そこからの、彼の成長は、目を瞠らせられるものがあり、その、あまりの成長ぶりに、時折、蛇が窮屈な皮を脱ぎ捨てるように、画風を変えざるを得なかった。。。とも理解できます。 一生涯、孤高の画家だったわけではなく、時にマチスや、ブラックのような同志がいたのに、私の心が和む思いです。 ぎりぎりまで質問を開けておきますので、何か思われることがありましたら、再度のご回答をお願いしておきます。私の場合は、旅も同じなのですが、準備の段階が楽しくて、一度描き始めたら、苦しいことのほうが多いのです。:) また余談になります。 ボランティアで、小学生の子供たちに、スライドを見せて、だいたい十五分で、一人の芸術家の人生と作品のレクチャーをしておりました。ピカソの”青の時代”について、子供向けのアートの本からとって、そのまま説明したんですが。。。ローズの時代は、ピカソにガール・フレンドができて、失恋してしまって、青の時代に移行したなんて言っておりまして。。。まったくの嘘でしたねぇ。。。 そんなこともありました。 ご回答、ありがとうございました。
こんばんは。 もう・・・大雪の名残で、千葉では積雪が30cm以上です。 内ではTVでオリンピック、外でもオリンピックのようで・・・ Ciaopolpoさんのピカソの質問は承知しておりましたが、 私は分からないと言うか、抽象画なるものに余り興味がない。 分からない、興味がない、嫌い・・・私の簡単な三段論法です。 写実画にしか感動しませんものね・・・ ですから昨日のisokenさんの質問の最後の付け足し印象派云々、 Ciaopolpoさんへの回答のつもりでしたが、どうかな?とも思いましたので ピカソが一元的な写実画に限界と言うのか?飽き足らず二元、三元へと、 私もそれくらいの事は承知しております。 分からないものを語る資格もないでしょうし・・・ 作品は知ってる、その程度です。 「ゲルニカ」、「青の時代」、「アビニョンの娘たち」等々でしたか・・・ 小林さんに「近代絵画」と言う一冊があります。 ピカソにも触れていたと思います。 今、手許にあればもう少し気のきいたことも言えるのでしょうけど。 同じ小林さんで数学者の岡潔さんとの対談「人間の建設」、 この中で小林さんはピカソを評してこう言います。 「ピカソにはスペインの凶暴な生臭い血がある、それを我々は理解出来ない 結局、我々日本人は分かったようなつもりでいるが、何も分かっていない」 岡潔さんに至ってはこう言います。 「私はピカソを評価しない、むしろ醜悪な匂いさえする」 このような意味合いの言葉だったと思いますが、はて?どう言う意味なのか? 凡人の私には知の巨人の言うことは理解不能です・・・ 美術評論家が天才画家と言うのならそうなのでしょう。 私は分かりません。 ただ、以前にもお話しましたが私は評論家と言う人種をあまり信用しません。 それでいて小林さんは尊敬しておりますから、我ながら矛盾しております。 ピカソの話はこれくらいで・・・ 先日、日本酒「獺祭」(ざっさい)を紹介しましたが、 何とかそちらで手に入らないものか? 少し調べたのですがロスとサンディエゴなら手に入るようですが、 距離感が良くつかめないのですが、車ですと3~4日もかかるのですか? さすがに、酒を買うのにそんな人もおりませんものね。
お礼
十何年ぶりの大雪だったそうですね。 ニテンズさんから、都心をはさんで反対側、世田谷区に住む従妹から、写真付きのイーメイルがありました。門柱とその脇の植木に、綿帽子のような雪が。。。2・26事件といったら、笑われました。 お酒ですが、私も夫も下戸です。かわうそのお祭りですか?見つかったら、長男・長女に振舞ってあげましょう。料理用には月桂冠を使っています。 先日、親子丼と一緒に、昆布だしで、大根とお揚げのおなべをしました。お酒をたっぷり効かせまして、根菜を足し、物足りないような気もしたので、鶏のモモと、おもちも足しました。そうしてぐつぐつ煮ていたら、お目当ての大根が溶けてしまって。。。 仕方がないので、最後に大根おろしでいただきました。温まりましたよ~。 小林さんは、確か、一冊だけ読んで、”当たり前のことを当たり前に書いておられたよう”に思われ、まぁ、今読まなくてもいいかなぁ。。。などと生意気にも先送りにしてしまい、そのままになってしまいました。(私は洋の東西を問わず、だらだらとした長編小説の、その、終わりが全然来ない感じが好きなのです。)評論で、楽しめたのは、寺田寅彦さんぐらいでしょうか。。。ただ、小林さんについては、戦前の、きちんとした教育を受けた、”日本人らしい日本人”の価値を、正統的に継承なさったかただ、という強い印象があります。 そんな生意気な私が思うのは、音楽でも、演劇でも、踊りでも、絵画でも、ジャンルを問わず、”良いものは良い”、ということなのです。だから、ブランド品を愛する日本の女の子は、ちょっと怪しいと感じます。そして、この監督のものは良い、とか、ピカソのものは全て素晴らしい、という人は、ちょっと、どうかなぁ、と思ってしまいます。人によって、好みも違いますしね~。ただ、自分の感性を磨いていって、他の人の言うことを真に受けず、一つ一つ、美しいものと、真剣勝負で相対してゆくのがすきですし、そんな時間を大切にしてゆきたいです。ですから、岡潔さんのコメントは、残念です。 小林さんのおっしゃる、”スペインの血の凶暴さ”については、スペインの宗教画の激しさに通じるようにも感じます。なにか、”血がたぎる”。。。物をつかむときの握力の強さ。。。密室の愛。。。フラメンコや闘牛。。。そして、イスラムに占領されていた過去。。。そんな途切れ途切れの言葉が浮かびます。 アルタードさんのお礼で言及しました、”鏡の中の少女”です。大変な完成度なのです。 http://www.moma.org/collection/object.php?object_id=78311 こちら、青の時代のギタリストです。 http://en.wikipedia.org/wiki/The_Old_Guitarist どちらの絵画も、あれこれ”区分わけ”されているのです。けれども、私には、~イズムだの、~派だの、あまり意味がなく、美しい絵画が目の前にあるだけです。美しい女性は、国籍や肌の色に関係なく、美しいのに似ています。 抽象画がお好きでないのは、やはり、心の中の鍵穴に、鍵を、かちりと合わせる機会がなかっただけではないでしょうか?いつか、そんなチャンスが訪れますように。 斧定九郎はいかがですか?完成したら、ぜひ、額装をなさるなり、表装をなさるなりして、お部屋の一番目立つところに飾ってください!飾られているうちに、絵が、一段とよくなります。 ご回答、ありがとうございました。
- dogchibi
- ベストアンサー率34% (352/1016)
14歳の時に描いた作品を見て、信じられませんでした。あまりにも上手すぎる。 青の時代の作品で、酒場のカウンターで女性二人が背中を向けてスツールに座っている作品を見て、彼女たちの生活ぶりから心の中までわかってしまうような描写にびっくりしました。何かこう二次元の面だけに収まりきらない精神を描ける画家なんだと思います。 抽象画にはついていけないものも感じますが、リアルな描写力はすごいと思います。あれだけ描ければ、物足りなくなって抽象画に行きたかった気持ちがわかるような気がします。 画集でなく展覧会で実際の絵をみての感想です。
お礼
深い考察に満ちたご回答、ありがとうございます。 http://www.wikipaintings.org/en/pablo-picasso/two-women-sitting-at-a-bar-1902 こちらは、ロンドンの国立美術館にある、題名、そのまま”バーで座っている二人の女1902”でした。夜のお仕事でお疲れのご様子です。メランコリーとか、退廃とか、そういった言葉がピッタリでしょうか。 同じ、キャバレーの女性を描いても、ロートレックなどは、もう少し、女性に華があったようです。この時期、彼の心を惹いた人たちや事柄は、長期間、画題にしてゆくには、無理があり、画風を変えてゆく必然性が起こってきたようにも思われます。 いつの時代にも、dogchibiさんのおっしゃる、”画面に収まりきれない精神を描ける”力量が、画面に満ちているようです。本当にそうですね。 実際の絵画をご覧になってのご感想、ありがとうございました。
- alterd1953
- ベストアンサー率20% (239/1173)
どうもです(笑) ピカソと言えば、昔、青の時代の小品を神戸の美術館で観たことがありますが それこそ、雷に打たれたような衝撃を受けました。 「将軍達の夜」でピーター・オトゥールがゴッホを観て異常に興奮するシーンが ありましたが あんな感じです。 「芸術が人を打つのは、背後に流れている精神のリズムである」と言いますが どんなものであれ、背後に流れている精神こそ最重要であると思います。 その精神のレヴェルで言うと ピカソに匹敵するのは、ミケランジェロ、カザルス、ディラン ビリー・ホリデイ、ピアフ、マイルス等ぐらいしか知りません。 後、ピカソが偉大だと思うのは、マイルスのように 常に変わり続けたことです。 マイルスは「音楽は常に新鮮でなければならない」と言いましたし また「半年前のスタイルでなんかやれない」と言いました。 その、常に前へ前へ突き進み芸術家の本能は ピカソも同じであったろうと思います。
お礼
焦点の定まらない質問にお付き合いくださって、ありがとうございます。 ”芸術が人を打つのは、背後に流れている精神のリズムである”。。。。ここで、私の意地悪な疑問がむくむくと沸いてきました!!! ご覧になった”青の時代”の絵画は、友人の自殺による悲しみであった、その悲しみの底に、十九世紀初頭のパリのデカダンスが流れているらしく感じます。バーで一杯やっている女性は、例外なくアブサン依存症のように見受けられます。その、不穏な時代背景と、ピカソの悲しみがアルタードさんに精神に衝撃を与えたのでしょうか。どんな精神のリズムだったでしょう??? もうひとつは、クロード・モネ、セザンヌ、マティース、例に出された、ミケランジェロ、ダ・ヴィンチでもいいですが、一旦、画風を確立すると、それを一生を賭けて深めてゆく芸術家が多い中、ピカソは、コロコロと画風を変え、最後には、”子供のように描きたい”といって、一筆書きのような、作風になってしまいました。これもやっぱり、”進歩”なんでしょうか。 私も、ゲルニカが、彼の芸術の頂点だったんじゃないかなぁ、と感じます。(実際にみたことがないので、これは間違っているかもしれません。)その後は、数学で言えば、応用問題を解いているようなものだったんじゃないか?なんて、生意気にも思いますが、彼は、果たして、最後まで、進歩し続けていたと思われますか? 言いがかりのようなお礼で申し訳ありません。ご回答から導き出された疑問ですので、お暇がありましたら、お考えを明かしてくださると、幸いです。 ご回答、ありがとうございました。よろしくお願いいたします。
お礼
お礼が、遅れて申し訳ありません。 いえいえ、私はアルタードさんが、趣味のよろしいかただと思っておりますので、箴言なども教えていただけるとありがたいのです。 以前の回答では、”精神”という言葉に躓いたんですね。”時代の精神”という言葉がありまして。”どのような人間も、個人として、時代の精神に逆らうことはできない。ショパンは、ナポレオンが馬に乗って凱旋するのを目の当たりにしたのだ!”。。。ショパンの英雄ポロネーズについての分析です。ここでの”精神”と、アルタードさんのおっしゃるところのピカソの”精神”は、まったく違っているのだと思い至りました。 私も、ピカソについては、”幹の太い大木”あるいは、こんこんと溢れる生命力に象徴されると思います。その生命力が、メランコリーになっていたはずの青の時代、また、一筆書きに至った老年時代(これがまた、長かった)にも、最盛期と同じように観る人をうったのには、驚かされます。 今回、こんな質問をしたのは、キリスト生誕も、終わってしまったので、ピカソを模写してみようかなぁ、と思い至ったからで、どんな作品が良いか、考えていたせいです。青の時代の”ギタリスト”か、最盛期の”鏡の前の少女”を考えています。 グスタフ・クリムト、マチス、ドガ、カンディンスキー、クレー、ゴッホ、と模写してきまして、ゴッホ以外は、模写してゆくうちに、どんどんオリジナルと違ってゆきます。画面が変化をしてゆくゆとりがあるし、色や形を変えてゆくのが面白いです。 ピカソの場合は、ギタリストは、多分”変奏曲”ができますが、鏡の前の少女は、そのまま模写しないと絵にならない。。。ゴッホの後期の作品と、ピカソの最盛期の作品は、それだけ完成度が高いということでしょう。 これは、余談としてきいていただきたいのですが。。。 夫と結婚して、最初に、壁にかける絵画を探しに行き、私は、ピカソの”ドン・キホーテ”が気に入ったのですが、夫は、いやだという。三十年前の話で、今は違うかもしれませんが、保守的な家庭に育った夫は、壁にかけるのなら、風景画、静物画、最大限妥協して印象派。”ちゃんと隅々まで色の塗ってある絵がよいと言うので、たしか、セザンヌかなにか、選んだように覚えています。最近はゴッホが大のお気に入りですので、模写したひまわりを玄関に飾ってあります。 余白に美しさを感じる日本人の私と、”きちんと隅々まで塗っていないと、なんだか損をしたように感じる”夫と、これから先の結婚生活の前途多難さを垣間見たような出来事でした。 わがままをきいて、ご回答いただき、ありがとうございました。