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自分の葬式には多くの人に見送ってもらいたい
- 最近、内輪の人だけに限定したジミ婚やジミ葬(というのかな?)を好む人が増えているような気がする
- 私は教会で行われたお葬式に参列し、多くの人に見守られながら天国に旅立った少年の存在に感銘を受けた
- 私も多くの参列者の祈りと歌に包まれて見送ってもらいたいと思っている
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質問者が選んだベストアンサー
自分自身は消えてなくなってるので、どうでもいいんですが、残された遺族に対してどう考えるかですね。 遺産を残せなければムリせず地味葬してもらうしかないんですが、できれば死んだおじいちゃんは、こんな立派な人だったんだ、というのを孫達に感じてもらえる葬儀が理想です。(私自身そうなれるとは思ってないのですが、それは置いといて) 葬式ってのは、参列する人々や弔辞を聞くことで、あまりその人生を知らなかった孫や親戚にとって、その人をよく知るいい機会です。知ったところで本人はもう居ないのですが、自分のおじいちゃんはこんな風に人生を生きたのか、ってのは後の世代の心の遺産になると思います。 そういうのを少しでも遺せればと思います。孫たちにガッカリされないように。
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- cucumber-y
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私も沢山の人に見送ってもらいたいです。 アフリカだったかの有名な言葉で「人は命が終わって死ぬのではない 人は人から忘れ去られた時死ぬのだ」というのがあり、私はこれ結構好きなのです。 遺して行く家族に「これだけ多くの人に覚えられているんだ」と感じてもらった上で「家族として最後まできちんとした形で見送りたい」と考えてもらいたいです。 間違っても私の身勝手な「死ねば無だから葬式するな」なんて思慮の浅い判断でくだらないことを言い残し、それを守った家族が周り人から「あそこの家は家族が死んだのにちゃんとした葬式もしなかった」と誤解を招き誹りを受けるようなことにはしたくありません。
お礼
アフリカの名言はその通りですね。 やはり、その人の人生を締めくくるのに適したきちっとした葬儀を挙げるのが基本ではないでしょうか? どうも、そうした当然の儀礼や義務さえ、わずらわしいと感じる人が多いのでしょうか? 私にとっては、大変不可解です。
- hyakkinman
- ベストアンサー率16% (738/4426)
【葬儀不要】 「死んだら、自分は何もわからない」と考えていますので。 家族・身内・友人の心と、本人の物の「後始末」にすぎないので、要らないです。
お礼
3つ同様の回答が続いたので、もう十分です。 私には到底賛同できません。
補足
失礼なお礼で、失礼しました。 確かに「死んだら、自分は何もわからない」ので、あなたとしてはどうでもよい、 遺族の好きなようにやってもらったらよい・・・ということですね。
- Epsilon03
- ベストアンサー率24% (868/3495)
葬式不要者ですので、葬式など行って貰いたくは無いです。 それにどの宗教にも属しませんし、葬儀を行うと言う事は何らかの宗教が絡みますし無関係と行っても何らかの宗教の色が見えますので、一切不要ですね。 残された人にも面倒な儀式でしか有りませんから、死期を感じ始めたなら遺言に『葬儀無用』とでも書くかも知れません。
お礼
前回答と同様の内容ですが、一人一人色んなお考えがあるので、その意志が残された人に着実に伝わるといいですね。
- ocha2042
- ベストアンサー率62% (88/140)
正直なところ葬式の類は宗教団体や葬儀施設の金儲けの手段でしかないような気がして仕方ないので、私は自分の葬式は出して欲しくないですね。とりあえず火葬してすでに購入してある墓に遺骨を入れてくれるだけて、他は何もして欲しくないです。
お礼
私とは真逆のお考えですが、個々人のそうした意見も尊重されて然るべきなのでしょうね。
- KoalaGold
- ベストアンサー率20% (2539/12475)
地理的に無理という事の多い昨今です。 村で一生を過ごすなら未だしも、知人は世界に散らばっていますので、Facebook内で葬式をしてもいいかもしれません。 いいねをクリックして下さいってか。 高齢化社会では、自力で葬式に参列のできないお年寄りもいます。出かけずに参列できる方法を誰か考えて下さい。
お礼
冠婚葬祭は、普段の生活では交流できない仲間との再会のための絶好の機会でもあります。 又、交通の便の発達した近年では、もっともっと以前に比べて、遠隔地への短期旅行が可能となっています。 ネットでお参り、という方法が開発されるのも、それはそれで、何もお参りをしないよりはいいと思いますが、こうした絶好(?)の機会を利用して、バーチャルではなく、リアルの交流を実現することこそ、大切ではないでしょうか? 勿論、年配で行けないのは致し方ありませんので、手紙や電話、そしてこれからはテレビ電話などで弔意を伝える手もあると思います。
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お礼
おっしゃる通り、葬式はある意味、残された遺族のためのものだと思います。 故人がどんな人だったかを髣髴とさせる葬儀は、有意義だと思います。 自分のおじいちゃんはこんな風に人生を生きたのか、ってのは後の世代の心の遺産になるというお考えには、全く同感ですね。
補足
やはり一番私の感覚に近いNo.5さんにベストアンサーを差し上げることにします。 最後に、私の葬儀に対する考え方を整理しておきます。 1.葬儀の形態や声をかける範囲については、故人の意向が十分反映されるよう、生前にしっかり家族に伝えておくことが望ましかろう。 2.しかし、一方、葬儀は、残された家族のためのものであるとも言える。故人は家族に対し、「家族が好きなように執り行ってよい。」という意向を伝えることもよかろう。 3.葬儀は、参列者の多寡に係らず、故人がどう生きたのかが髣髴とされるような葬儀が望ましいと思われる。それによって、後の世代の心の遺産になるという面は大いにあろう。 4.人数はともかく、葬儀はその人がお世話になった人には幅広く声をかけ(義理で来る人は除く)、人生の最後を見送ってほしい。 (自分や家族の人生を忘れられてもよい、などと言い捨てられる人間は世捨て人としか私には思えない。社会と関係したくない、と豪語する人間が昨今増えているようであるが、そういう人間とは、ハイわかりました、ではさようなら、と言うしかないし、大変残念に思わざるを得ない。) 5.遺族及び参列者の負担を軽くするために、香典は取らず、代わりに少しでも多くの人に負担をかけずに、且つ心にしみる参画形式で参列してもらうためには、教会葬もお勧め。