# 1 です。
私はあまりウィキペディアを信用していません。
特にこういう芸能界ネタの情報には不正確な記述が結構ありますから。
私は、昭和38年9月に日本クラウン(クラウン・レコード)が設立された頃から、レコード業界の情報には割りと興味を持っていました。
日本コロムビアの常務だった方が、新会社として日本クラウンを設立しました。
その際、コロムビアからクラウンに移籍した歌手は、北島三郎や五月みどりなどです。
美空ひばりにも声がかかったようですが、移籍まではいかず、ご祝儀代りにと、クラウン・レーベルの第1弾として、『関東春雨傘』(CW-1)が発売されたのでした。
会社設立後、なかなかヒット曲が出なかったのですが、新人・西郷輝彦が昭和39年2月に『君だけを』でデビューし、瞬く間に会社初の大ヒットを記録し、当時は“クラウンの救世主”とまで呼ばれました。
水前寺清子は、その後昭和39年10月になって『涙を抱いた渡り鳥』でデビューしたのですが、その頃のテレビ番組『歌う王冠』(クラウン所属の歌手を紹介するもの)で、楽曲の歌唱だけでなく司会者とのトーク時間帯もあり、その中で“小さな民子”から“チータ”と呼ばれているとの説明があったことを覚えています。
ですから本名が林田民子ということは、その頃から知っていました。
また私は彼女とはほぼ同年代でもあり、一時熊本市内の白川沿いに暮らしていたこともあったため、白川をはさんだ対岸に彼女が通った碩台小学校が見えていたという点でも、多少の縁があるなと思った次第です。
質問者様が、ウィキペディアのことに触れられたので確認してみましたが、やはり結構いい加減な記述部分もあるようです。