※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:博士院試が相対評価?)
博士院試が相対評価?
このQ&Aのポイント
博士院試は相対評価なのか?審査基準が不平等であるという問題点を指摘。
研究分野によって審査員が変わり、客観的な審査基準がないことが問題。
審査員の恐怖心や個人の好みによって、甘い点数が入る場合があり、公平性に欠ける。
建前上、学問は絶対評価なのだと思います。良い論文は良い。ダメなのはダメ。これ以外に評価の仕様もないと思います。しかし現実的には相対評価になることが間々あります。定員が決まっている院試、紙幅が限られている学術誌、教員の公募などは相対評価です。教員の公募などは、相対評価にせざるを得ないこともわかります。これは学術というより、就職活動だからです。しかし博士院試の定員など、研究科の裁量の範囲に思います。これが相対評価になるのは納得が行きません。この理由は次の通りです。
(1)研究分野によって審査員が変わり、客観的な審査基準が無い。
(2)しかも審査員によっては、憎まれ役になることを恐れ、甘い点を徹底的に入れる。すると、きちんと審査された論文が落ち、甘い教員に当たった論文が査読を通過するということが起きる。
(3)この結果、全体としてみた時、審査基準が不平等になる。同じジャンルの研究者が集まっている研究科の場合はそれでもまだ「競争」と言って済ませられるかもしれないが、東大の駒場をはじめ、様々なジャンルの研究者が集まっている研究科の場合、「競争」を行う舞台がそもそも成立しないのだから、競争させられることそのものが理不尽である。
おそらく社会人としては、こうした不平等は当たり前なのでしょう。しかし学術がこれで良いのかと私は疑問をもちます。とはいえ、どのような審査形態に移行すれば平等性が確立されるのかもわかりません。究極的には、研究テーマが異なる研究者を集めて一つの「科」を設立したというコンセプトがそもそもおかしいとも言えそうです。こうした不平等を是正するにはどうしたら良いのでしょうか。私個人は仕方ないのかなと思って諦めてもいるのですが、何となく、「嫌だなあ」という鬱屈とした気持ちを抱えています。
なお、どこの研究科とは言えないのですが、私の通った院では上記の問題が顕著なものとなっており、院生らが悲鳴を上げています。 院生らは「通りやすい」と噂されるゼミに籍を移し、また教員の方でも点数の甘さを派閥形成のための餌にしています。通りやすいゼミの登録者は六十人を超え、通りにくいゼミの登録者は五人程度です。なお評点が甘い先生は、イデオロギーによって審査しており、自らのそれと合致する場合は、何としてでも合格させてやろうと献身的に画策するのだそうです。このゼミは「宗教団体」と揶揄されています。
お礼
ありがとうございます。 >問題設定とか方法論,論理は,普遍的な観点で評価できます。それに,地頭のよしあしは現れます。 おっしゃる意味は分かりました。しかし、これは書式とか、整理の仕方の問題ではないですか。だから、誰かそれを熟知している人が手伝ってやれば、いくらでもどうにでもなる範囲じゃないでしょうか。そして、投稿してくる以上、大体の人はその基準を八割方、クリアーしているのじゃないでしょうか。そんなに駄目なものですか。それとも私が甘い考えをしているのかもしれませんが。 >「講師」には業績・年齢が高すぎる応募者しかいなかった。(採用後に周囲とくらべて,「なんでおれが講師で,あいつが教授なんだ」と不満をもちます。) >アホ教授が,「おれより優秀な若手に来られては,威張れなくなるじゃないか」と考えて横槍を入れた。 私の分野だと、講師に応募する若手が教授よりも業績をもっていて当然という事態が発生しています。五十歳の教授に、三十歳の院生が勝っているのです。就職したくて必死に業績を作ったのに敬遠されることがあるとは、暗澹たる思いです。まあ、おっしゃるケースは、公募でトップの業績をもつ人がよほど性格が悪く、この人を拒否するためには公募そのものを流すしかない、というような事態なのでしょう。ともあれ、相対評価ではないことが分かりました。 >また,過年度に多くとったために,今年はいくらか割ってもいいかなという判断は,たしかにあるようです 私のいたところは、これを操作して枠にプールをつくっていたように思いますよ。どこの研究科もしていることだと思ったのですが、回答者様の反応を見ると、うちが少し異常だったのかもしれないと思いました(それか、私の事実誤認)。 >いまは「指導学生数」という教員評価項目もありますので,「5人しか引き受けない」先生のほうが,むしろ肩身が狭い思いをすることもあるのです。その先生が(たぶん分野も異なる)教祖様にたいして,「おまえ,衿をただしたらどうか」とは言いにくいです。 言いにくいものなのですね。そして、裏を返せば、回答者様のところにも、教祖化した先生がいらっしゃることが察せられました。主ゼミの定員数でも定めてくれたら、ゼミの拡大運動がなくなり、解決するように思うのですけれど、こういうことは検討されないのですか。 >前にも書きましたが,「あそこは師弟そろってだめ」という評価もあるようですから,社会の害悪とまではいえないかもしれません。「学問の自由の侵害」は,その教祖様が奇異なテーマばかりやらせ,結果的に研究科がいびつになるとなれば,そういえるでしょう。 確かに〇〇ゼミの出身です、と言うと、へっ?あれなの?という反応はありそうな気がしますね。ちなみにその大派閥のゼミは、単なる、ディプロマ・ミルではないようです。ゼミぐるみで学生活動などをやっており、セクトではないにせよ、何かの団体ではあります。教祖が率いてコロックなどに乗り込んでいき、小さな会場を埋めて占拠するくらいは朝飯前です。このゼミには学問の自由はありません。これはそこに入門した学生の責任としても、研究科全体にまでその余波を広げないでほしいという気持ちです。私の友達など、M7になっても進学できなかったんです。決して、超優秀ではないけれど、かなり頑張っている人でした・・・。