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聴いた後のモヤモヤ
音が外れたとか 音程がどうのとか 演奏の仕方や表現や解釈が気に入らないとか そういう話ではないのですが… 音楽を聴くことにより、感情が波打つのですが 自分が演奏するわけでもなく 受身に感情だけ波立っているうちに 胸騒ぎやモヤモヤ、解消しきれない感情の波が 聴いていると胸元からのど元に溜まって 叫びたいようなもだえたいような気持ちになります。 こういった気持ちになるときはありますか? 拙いながらもピアノを一心に弾いていても 声を発しないことに突然不思議な気持ちに陥り まるで言語を封じられたような とても不思議な気持ちになります。 邦楽とかなら一緒に歌ってみて発散したりもできますが なかなかオケ曲やピアノの名曲となると、音数、パートも多くて 解消できるほど歌えません。 指揮を降ってるつもりになったりもしますが いまいちです。 聴いている間の、叫びたいような感情の上下 聞いた後に残る欲求不満 みなさんはありますか?どうしていますか?
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それは音楽を純粋に「聴く」ということが実は出来ていないからかもしれませんよ。 日本人の多くにとって音楽というのは結局「カラオケソング」だと思います。簡単に口ずさめれば「好きな(良い)」音楽。口ずさめないものは「わからない」音楽。・・・これは決して言い過ぎではないと思います。 つい先日あるクラシック番組で、ドビュッシー生誕150周年が取り上げていました。でも日本国内では特に盛り上がりがいまいちなのです。(ちなみに日本は世界で最もクラシック愛好者が多い国の1つです。) そこで出演していた専門家が言ってたのが、ドビュッシーがとりわけ日本国内で過小評価なのは、彼の音楽が、(あくまでそれまでの古典派やロマン派に対する相対論でしかありませんが)メロディーが明確でないからだ、という話でした。(そんな中でも数少ない人気の「月の光」だの「夢」だのは確かに「口ずさめる」音楽ではあるかもしれませんが、芸術家ドビュッシーの本領ではないことは言うまでもありません。)これはまさしく的を射ていると思います。 例えば、英国なんかのヒットチャートに出るような大衆的な音楽を聴けばわかると思いますが、それらは決して「口ずさめる」ような音楽ばかりではないのです。クラブミュージックを始めとしたインストゥルメンタルですらも、日常的にチャート上位に入るのです。でも現地のリスナーからしてみれば間違いなく売れている曲はどれも「キャッチー」なのです。 おそらく「キャッチー=口ずさめる(さらに言うなら=いい曲)」だと信じて疑わない日本人にはこの意味がわからないと思います。 多くの音の断片の渦、ディアトニックの束縛を逃れたトリッキーな音階から成る主題・・・そんなドビュッシーの音楽は決して1人の人間が平易に口ずさめるような音楽ではないかもしれませんが、聴く人からしてみればある時は確実に「明確なビジョンを持った、キャッチーな音楽」なのです。 ちなみに質問に対する回答ですが、自分は音楽を聴いていて「自分でも奏でたいけど、奏でられなくてもどかしい」という経験はありません。自分で言うのもなんですが、おそらく純粋に「聴く」ということが出来ているからではないかと思います。(若い頃にずっと楽団活動をしていたので、「演奏者目線に立てないからでは」というのは当てはまらないと思います。) 「聴く」ということをもう一度自分の中で見直してみてはいかがでしょう。新たな音楽の発見(楽しみ方)があるかもしれませんよ。
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- Tann3
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感情移入というか、音楽と自分が一体になった感覚になるとか、そういうことはありますね。 いつもそういうわけでもなく、特定の曲や演奏というわけでもなく、やはりその時々の自分の状態や、その時巡り合った曲や演奏とちょうど波長が合って共鳴したとか、そんなことなのかな、と思います。 前に、フルトヴェングラーとカラヤンの本を読んだのですが、フルトヴェングラーは音楽と一体になって没頭して指揮をしていたとか、没入した演奏を途中で止めるのが大嫌いで、録音中に録音技師に止められて大変怒ったとか、そんなことが書いてありました。毎回、そういう共鳴をして、それをオーケストラや聴衆にも伝染させることができる指揮者だったのだと思います。(カラヤンは、逆に、目を閉じて常に冷静で理知的な指揮をしたそうです) 同じように、指揮者のバーンスタインの映像を見ると、いかにも音楽に没入して指揮しているのが分かります。 ピアニストのグレン・グールドに限らず、指揮者もうなって歌いながら指揮することが多いようです。録音に指揮者の唸り声や、決めの一発の前に足を「ドン」と踏み鳴らす音が入っているものも多いです。 いかにも音楽に没入した演奏に、ついていけずに冷淡に聴いて感動しなかったり、逆に聴いていて引き込まれて身動きできなくなったり、のりのりに乗せられて興奮したり、結局はその場その場での一期一会なのだと思います。
お礼
理性と感覚派、絵画や建築でもありそうですね。 没入していて止められると世界が突然変わるから不快でしょうね。 全身で交通整理のように腕をぐるぐる回して踊るような指揮を一度見たことがあります。 なんかもう今にも式台から降りて踊ってしまうのではないかという (ちなみにチャイコの花のワルツでした) 一期一会、は全くそのとおりだと思います。 >いかにも音楽に没入した演奏に、ついていけずに冷淡に聴いて そういえば、昔は私は情感のたっぷりな曲が非常に苦手でした。 モヤモヤ感は昔からあったのですが どちらかというと、引いてしまうというか。 なぜでしょうね。 今はなんとなく情緒面から聞こうとするせいか、疲れ果ててしまいます。
- SPS700
- ベストアンサー率46% (15297/33016)
僕自身はそう言う経験はないのですが、よくグレン•グールドの物を聞いていると、初めは気がつかなかったのですが、彼、結構ピアノを弾きながら歌ってますね。 記録映画では、コロンビアの録音技師が「今度は声のオブリガートなしでお願いします」などと遠回しに言っていますが、どこ吹く風。おっしゃる通りで、彼の気持ち分かるような気がします。
お礼
ありがとうございます。声で発散しないといられないタイプだったのでしょうかね ランランさんを見ていてもそんな気持ちがします。 ただ鑑賞として音楽を聴いていると 特に陰鬱な気持ちが波のように押したり引いたりして もやもやしたままで結構消耗します。 逆にハイになりすぎるのもあるんですけどね。 ベト7は春のクラス替えの前のようなソワソワになってしまうし 最近ではスラブ舞曲1番をピアノver.で聴いたところ 頭の中を引っ掻き回されたような具合で 曲が終わると叫びたい気持ちになりました(こんなときにブラボーって言うとごまかせそうですね) SPS700さんはそういうことはないのですね グレン・グールド聴いてみます
お礼
邦楽やカラオケが原因というのは私の場合は当てはまらないと思います というのも、子供のころから聴いていたのはクラシックメインで むしろ邦楽は遠ざけられていましたので。 聴き始めたのは20代後半です。 そして情感たっぷり歌い上げるとか、感情的に起伏しやすい曲を 楽しめるようになったのは30過ぎてからなのです。 感情を感じなかったといえばそうでもなく 子供のころでもモーツァルトを聞いた後はどうしようもなく寂しい気持ちになったり ツィゴイネルワイセンのあまりに身もだえするような響きには 逆に引いてしまって恐怖さえ感じて聴くのが苦手でした。 入り込むような聴き方をしていなかったため、かえって気持ち悪いぐらいで。 そういう理由からか、最近まで協奏曲なども苦手でしかたなかったんです。 今思えば楽器で吹奏楽やオケに入っていたときのほうが 表現や情緒は気にせず聴いていました。ただどうしても楽器の音を聞き分けるとか 演奏の仕方とか、音の出し方とか聞いてしまうので 純粋に鑑賞はしにくかったかもしれません。 ピアノについては音を追うのが必死で表現という意味で考え始めたのが遅かったせいもあるかもしれません。 ただ良い演奏、良い奏で方ほど感じるものがあり、感じるのですが発露ができない。 もしかして曲というものは表現手段なのか?とも思います ドビュッシーはそういえば、心穏やかに聞ける曲が多いです。 別に歌える歌が好きだとか、口ずさめる歌がすきというわけでもありません。 リゲティのムジカとかも好きです。 たとえばバッハのパッサカリアを聴くと、満点の星空が回る中に吸い込まれていくようで その途方もない深さや美しさとそれを受け止めきれないモヤモヤ感があります。 何か発したいようなストレスがあります。 昔はもっと弱く漠然とした感覚でした。 ハイになる、滅入る、モヤモヤする…幼稚園児ぐらいのころからそうだったので 演奏する立場から聞いてるからというわけでもないと思います。 ただこれを発散するには自分もその曲で表現するしかないのかなと。 質問の仕方が悪かったかもしれませんが奏でたいけど、というよりも もしかしたら、踊る、でもいいのかもしれませんが 入ってくる情報量と、自分の感情をいかに表現なり発散なりして解消しうるか、ということです。 しかしそこまで感情を動かされずに聴くことができるなら楽になるでしょう。 無意識のレベルのもんだいなので難しそうですが…考えて見ます。