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宗教とは?

あなたにとって宗教とはどんな存在ですか? (また宗教と聞いて浮かぶイメージはどんなものですか。) また無宗教の方は神に代わるような存在はありますか? 例えばピンチに直面したときには心に誰を思い浮かべるのでしょうか。 学校の論文の資料にしたいので、ご協力よろしくお願いします。

みんなの回答

  • rokometto
  • ベストアンサー率14% (853/5988)
回答No.7

私はひっじょーにドライです 宗教とは大勢に人間を少数で統治するために作られた存在であり不満や苦境の中でも希望を持ち第三者に不満をぶちまけるをの防ぐものである 一方精神性を磨き上げ人間同士が共通の宗教を持つことで隔たりなく助け合えるとても尊いものである どんなに尊いものでも並び立たぬもので無理に押し付けあうと殺し合いになるなど不幸な結果となる 一言でまとめると宗教とは巨大化した共通の価値観である とこんな感じです ピンチになったら現状把握と突破口しか考えないっす

kuwannn
質問者

お礼

ピンチの時には誰にも頼らずに自分自身で考える方も多いようですね。 ありがとうございました。

  • michael-m
  • ベストアンサー率50% (2724/5433)
回答No.6

宗教とは天然自然の理を考えた人間の構築した教義を持つ集団と私は解釈しています。 この中には科学信奉者も含まれます。科学は未だ大半の事を解き明かすことは出来ずにいます。しかしそれを信奉する人間はその極めて不確かなことを信じきっています。これは他の宗教を信じるものとなんら変わりはありません。 多くの宗教には現象に対して「理由」あるいは「意思」を考えています。これが教義に反映されます。しかし科学は「理由」あるいは「意思」は解読できません。なぜなら科学にとっての自然は「なりゆき」でしかないからです。科学と他の宗教の大きな違いはこの点だけです。 神道には教義がありません。従って“神道は宗教ではない”これが日本での基本的な考え方です。つまり神道は宗教になる以前の天然自然の理を含むその者を崇拝する事になります。さらに先祖をも神として崇敬します。よって神道の唯一の“教義と言える様なもの”は「敬神崇祖」のみです。 しかし神道は一つではありません。その敬神崇祖の中から独自に教義というべきものを作り出した神道もあります。それが所謂「教派神道」と呼べるものや初期の天理教、金光教などになります。 神社神道は教義的部分を排除し、祭式作法のみを継承する神道ですが、戦後復古神道として教義や政治に深く関わるようになってきました。 私は敬神崇祖のみを第一と考えています。それは世界のいかなる宗教でも根源的な目標だと考えています。 私たちの祖先も神の子孫となります。つまり敬神も崇祖も集約すれば同一のもの、神です。 ちばみに神というと世間では創造主を思い浮かべるようですけど、カトリックでは正しくは「創造主」「父なる神」「全能の神」であって「神」ではありません。 神とは「人智を超えた存在」という意味であり、そうすると天使も聖人も「神」になるからです。口語では略して「神」とも言いますけど正確には違います。 私はカトリックで洗礼を受けましたが、聖書では全てを知ることが出来ませんでした。聖書絶対主義は「原理主義」と呼ばれます。しかしカトリック大学においても聖書が全てだと考えているものはさほど多くはないそうです。だからと言って聖書の説く教理を嘘と考える者も居ない。つまり彼らは聖書から搾り取ったエッセンスを真のカトリック教義と考えているわけです。 一方で神道では天地創造はなるべくしてなり、そこに神が派生したと考えます。しかしながら森羅万象全てに神は宿りと考えていることから神が派生する前の舞台においても神は存在したと考えるわけです。言ってみれば混沌の世界になりませる神は始めて「名を遺す神」と考えるものです。

kuwannn
質問者

お礼

科学と宗教…私は全く似つかないものだと思っていました。とても興味深いです。 神道についてももっと詳しく調べようと思います! ありがとうございました。

  • kyo-mogu
  • ベストアンサー率22% (3398/15358)
回答No.5

 神と宗教は切り離して考えるべきかなと。特に最近の新興宗教とかも含めて。  人を神として考えるか、自然を神として考えるかの違いも有る。最初は敬うという事があり、神様から感じ取った事などが大元だと思います。しかし、考える事で解釈の仕方、神という強い力を利用して従わせるなども出てきた。人間が神や仏などの名前をかたって、好きに解釈してきたのが宗教という形でしょう。だから、考え方の違いなどで宗派が分かれたりする。神の使いならまだしも、自分が神だと言い出すのもいるからなぁ。だから、私は神や仏は信じるが宗教は信じない事にしています。ただ、良い教えなどもあるので、そのエッセンスはもらいますが。  基本てきに自分自身がたち、歩く事なんです。しかし、人は弱い。ささえる杖。これが宗教。しかし杖に頼っていては自分の足が弱くなるので、極力自分で歩け、立てと。だから、まずピンチでも自分でなんとか頑張ります。それでも難しいときに神や仏にすがる感じですね。それでなんとか立ち直れば感謝して自分の足で頑張ります。

kuwannn
質問者

お礼

宗教に頼りすぎてしまうと自分自身を失っていってしまうのかもしれませんね。 ありがとうございました。

回答No.4

>あなたにとって宗教とはどんな存在ですか? 無用な存在です。 >(また宗教と聞いて浮かぶイメージはどんなものですか。) まやかし、捏造に寄り添う弱く哀れな人の集まりと そこから金を吸い上げる集金者たち。 >また無宗教の方は神に代わるような存在はありますか? ありません。 哲学を学べばことが足ります。 >例えばピンチに直面したときには心に誰を思い浮かべるのでしょうか。 人を思い浮かべるのではなく、何よりも打開策を考えるものでしょうが、 強いて言えば、(トラブルを乗り越えた)将来の自分の姿でしょうか。

kuwannn
質問者

お礼

哲学とはどのようなことを教えてくれるのでしょうか? ご回答ありがとうございました。

回答No.3

あなたにとって宗教とはどんな存在ですか? 人類が発明した最悪の共食い装置。 また宗教と聞いて浮かぶイメージはどんなものですか。 宗教=悪 また無宗教の方は神に代わるような存在はありますか? 無宗教ではありませんが、先祖崇拝はあります。 例えばピンチに直面したときには心に誰を思い浮かべるのでしょうか。 両親や兄弟、亡くなった祖父、叔父、友人など身近な存在ですね。

kuwannn
質問者

お礼

なぜそんなにも悪いイメージを持たれたのでしょうか? ご回答ありがとうございました。

noname#159825
noname#159825
回答No.2

誰にとってもイメージは悪いんじゃないでしょうか。どの宗教も大なり小なりカルト的な独特の文化が見えますし。実害のあるなしは別にしてね。 無宗教っての微妙ですね。それを言う輩に限って、無宗教と言い張る現代文明を盲目的に信仰していたり。 ただ、過去を振り返ると、やっぱり絶体絶命の時はとりあえず「神様ーたすけてー」なんて言ってますから、究極的にはそういう存在になるんでしょうねー。 #絶対絶命とは・・・超高いウォータースライダーの順番が来ちゃった時とか、バイクで明らかに「あ、これは転倒するな」と悟った時ですね。

kuwannn
質問者

お礼

やはり少なからず悪いイメージはあるようですね。私は泳げなくて水が怖いのでウォータースライダーはかなりの絶体絶命です(笑) ありがとうございました。

  • nahahaxw
  • ベストアンサー率25% (5/20)
回答No.1

難しいですねぇ。 自分は無宗教で、ピンチになっても特に思い浮かべるものもありません。 なので、友達が高校かな?で昔書いた論文の一部を貼って見ます。 この友達が書いたのは、【学校教育と宗教の違い】についてです。 もちろん、詐欺をしていない宗教を前提にですが、 (1)学校と宗教の認識のされ方の違い (2)組織としての差 (3)何故人が宗教に集まるのか (4)何故人は宗教詐欺に騙されるか 等(まだ沢山あります)を反宗教でも、賛成でもなく書いています。 今回貼るのは、(2)から少しです。本人にも許可は取ってあるので・・・ 学校教育と宗教活動の違い、というのをハッキリと答える事は難しいだろう。 しかし、その2つの共通点と言われればそれは意外とあっさりと見つけられるものである。 いくつもある理由の中で最も分かりやすいのが、その両方が現代社会において組織として機能していることである。 組織というものは現代社会にとっては無くてはならないものであり、ほとんど全てがの人間がその組織に属していると言える。 例えば、会社や何らかの同好会、ひいては日本というのも、国という名前の組織なのだろう。 国という名前の組織、県という名の組織、そもそもが、現代においては『社会』自体が組織と言っても過言ではないのではないだろうか? 学校は、勿論組織である。 同時に、宗教団体と言うのも組織なのだ。 学校、宗教団体、共に組織である以上はその組織としての在り方にも差が出てくるだろう。 まずは、その差に関してを考えていきたい。 しかし、差と言っても実はこの2つの組織は非常によく似ているのだと私は思う。 まず、第一に学校、宗教共に何かを教え、何かを諭す組織であるという点である。 勿論、教える内容に関しては違う部分もあるが、それは後述することにする。 何かを教える、と言う面についてはこの2つの組織は非常によく似た形式を取っている。 まず、1つは組織の構成だ。 文部省などの組織を除いたうえでの学校単体での組織で言えば、まず校長や理事長がいる。その下に、教師といった直接生徒に教鞭を奮う人間がいて、その下に生徒が存在しているわけだ。 その生徒にも、生徒会や委員会などのいわゆる自治的な組織が存在している。 宗教団体ならば、それはどうだろうか? まず、校長にあたるところの教祖が存在している。そのしたに、幹部などと言った直接的に信者に教えを与える人間、そして信者。 その信者、あるいは幹部による〇〇支部、などと言った物はいわゆる生徒会や部活動などに値するものではないだろうか。 校長、教祖と言ったトップの人間。 その下に、教師、幹部と言ったその下に直接の教えを諭す人間がいる。 こう考えれば、学校と宗教団体というものはとてもよく似ているのではないだろうか? さらに、同じ組織に属していながらも校長、教師や教祖、幹部は会社でいう所の社員にあたる。 そして、生徒や信者といった人間は会社でいう所の顧客に値する点だ。 こう言った形態をとっている組織と言うのは実はそう少なくはないのだが、そのほとんどに共通して言える点があるのだ。 例えば、塾、料理教室、専門学校やカルチャークラブなどと言った物がその代表格にあたるだろう。 それに共通する点は何か。 つまり、何かを学ぶ場所であるという事だ。 組織の中で上に立つ人間が下に属する人間に何らかの知識、あるいは技術を享受するという1点においては宗教団体も、その他の組織もあまり違いがあるものではない。 これらの組織に共通する、何かを学ぶための場所と言う概念に置いては宗教も同じであり、根底的な考えとしては同じものが存在しているのだ。 そして、活動資金が無ければ組織として成り立たないというのはどんな組織にでも共通して言えることである。 勿論、それは宗教団体が詐欺のような商法をやっていない、と仮定しての話になるわけだが。 宗教に置いての理論解説書などと言った物は、学校でいう所の教科書に当てはめても良いのではないかと思う。 それを教材とする事で、何かを学ぶという行為自体は同じであるからだ。 ある意味、教科書が教祖や幹部、支部長と言った人間からの説法だとするならば、理論書などは参考書ととらえても良いだろう。 ともすれば、数珠などはさしずめ勉強するのに必要な鉛筆やシャーペンなどととらえても良いのではないか。 学校で、教科書を買うのにお金を出すのにためらう親がいるだろうか? 勿論、宗教的に毎日お祈りや勤行(簡単に言えば、自宅に居ながら神に祈り、経などをあげる事)を実践していたとしてもそれが本当に幸せにつながるかどうかは分からない。 私自身、熱心に宗教を支持する人間でもないので、その点からいえば宗教を信じているとは言い難い。 と、こんな感じです。 さらに、(3)では学校教育と宗教はある意味で似た事を言っていると書いてありました。 宗教⇒学校とすると、 他人を傷つけると修羅界(?)に落ちる⇒喧嘩をしちゃいけません 物欲は餓鬼界に落ちる⇒人の物を取っちゃいけません 女性と関係を持たない⇒不純異性交遊めっ! ってな感じだったと思います。 表面だけ見れば、宗教は正しすぎるほどに正しい事を言っている故に人が集まる、という事みたいです。 さらに、宗教自体にも多々種類があり、友達が入ってみた(最終的に喧嘩して止めたらしいです)所では、お祈りだけでは幸せは成就せず、本人の努力も必要だと言っていたらしいです。 例 仕事をしていない人間が神様に車を欲しいと祈る⇒でも、車が手に入っても維持費があるはずもないので、神様はまず仕事を与える とこんな感じだったと思います。 宗教によっても差はあるんですね。 まあ、最後に個人的な感想としては「胡散臭ぁw」です^^

kuwannn
質問者

お礼

学校教育に例えるととても分かりやすいです。面白い視点での見方ですね。ご友人にもお礼を伝えてください! やはり「胡散臭ぁw」がとても正直な感想ですね…^^; ありがとうございました。