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御自身の心に年月を

故意に姑息に乱し犠牲にしてきた方たち(他人)を、あなたは許せますか。 その経験により、離職し住まいを離れ、それでもまだ故意に心に年月を乱され、心因性なるものを心に抱えさせられた場合。 故意に心に年月を乱された憎しみ深い長々しい経験から、アンケートとさせて頂きました。

みんなの回答

回答No.3

許せない場合と許せるときがあります。時と場合によりけりでケースバイケースですね。(かなりの長文です覚悟してください) 1.相手が死んだ場合は許せますよ。 ある福祉施設に勤めていて、そこの女性職員が産休で休みました。そのご産休満了して復職した際に、この職員を正社員からアルバイトに降格させる乱暴な人事を施設長が行ったため、この女性職員だけでなくほとんどの職員が憤慨し、女性職員に味方しました。しかし、施設長側は人事権を持っているために逆らうとアルバイトに降格すると脅して職員の分断を図ろうとしたため、私が労働組合を組織しました。このため職員の分断作戦に失敗した施設長は私を恨みに思い、そこの障碍者施設に入居していた女性の障碍者が偶然妊娠してしまったため事件が発生したため、この犯人を私だとでっち上げ、理事会に話を挙げて私への弾劾決議を会議で決定しました。預けている子供が傷つけられたとなれば親が主体の理事会で理性的な判断が下されるわけがありません。親は施設に子供を預けて四季の変わり目ごとに1週間から10日くらい自宅に帰省する日をもうけているためなかなか子供とも会えません。正直ほぼ預けっぱなしに近いため、内情など何もしりませんから施設長がこうですといえば「はあそうですか」という風になるのは当たり前でした。ただ、被害者の親が私と昵懇であったことから、私を全く疑わず逆に施設長が孕ませたのではないかと肉薄してくれる場面もありました。実際問題誰の子かはわからずじまいで堕胎させることで決着しましたが、私の処分は実行に移されました。私はこうして根も葉もない施設長のねつ造で、職を奪われました。 さらに奪われただけでなく、次の仕事を探そうと同業他社に連絡して何か所も面接に回りましたが、当時は前歴照会するのが当たり前の時代だったため、前の会社である問題の施設長のいるところに問い合わせがあり、施設長がことごとく私の面接先をつぶして回りました。20社受けても受からないことからおかしいと思い、施設長に問い合わせると「お前の進路は全部おれがつぶしてやったあ」と笑い声でいわれました。正直、こいつを殺さない限り、自分が福祉の仕事で転職することは無理かもしれないと思ったこともありましたが、老人ホームの仕事が決まったので凶行に及ばずに済みました。その後、悪事千里を走るじゃないですが老人ホームに勤めて2年後、くだんの施設長が病死したことを聞きました。癌でしんだようです。 死んだと聞いてもう何も邪魔もされることもないですから冷静になってその時を思い返してみると、異常に執着したり、言動が2転3転することもあり、ひょっとして癌が脳に転移して頭がおかしくなっていたのではないかと思うようになりました。また濡れ衣が晴れたことから前の職場の人たちが私の復職の運動を起こしてくれて、まちがった支持を出してしまった時の理事長も理事長職を辞任しました。私としては復職したかったのですが、すでに従事している今の職場から離れることができずにチャンスをつぶしてしまいました。 2.相手がうっかりの場合は許しています。 9年前交通事故で片輪の不倶者にされてしまいました。しかし相手が私をはねて障碍者にしてしまえと思ったわけじゃないので、相手を恨むことはありません。片輪ものの不倶にされて体の軸がずれてしまったのか1~2年働いては5~6年仕事ができない状況に追い込まれるという非常に不安定な生活を強いられていますが、相手を恨むことはないです。 3.時間が経過すれば忘れるというか許しています。 障碍者になってからある仕事に就いた時に、自分が仕事ができないのが一番いけないのですが、それが原因で職場の女主人と反目しました。女主人は私が無能であることをさとったため、私を使わないと宣言し、本当に会社に行っても何もさせてくれませんでした。指をくわえて9:00~17:30までボケーと過ごすのはかなりの苦痛で、発狂しかけましたが、別の部署の責任者がしばらくしてから声をかけてくれて私を使ってくれるようになりました。その後、そこの職場が契約期間をじりじり短くしてくるので落ち着いて仕事が出来そうもないと思い、せっかくひろってくれた上司には申し訳ないのですが、退職して東京に引っ越ししました。東京に引っ越して4~5年たちました。時間の経過とともにその女主人のこともなんとも思わなくなりました。 4.許せれない事例もあり、いまだに恨んでいることもありますよ。 高校時代の話です。私は岡山に中学卒業まで住んでいて、親の転勤で東京に出ました。そのため都立高校に通いだした当初、岡山弁が抜けないで、田舎者とバカにされ、岡山弁をまねされたりしました。私にとっては岡山は誇るべき場所であり、大好きな場所でした。親の転勤で転々といろんなところに住みましたが、最初は非常に苦労したものの、住み慣れてからは一番環境的にも先生にも恵まれたため岡山はいい思い出がたくさんありました。自分の心のふるさとを傷つけられ、バカにされ、挙句の果てには鳥のエサがきびやあわでできていることを知っていたらしく、岡山がきびだんごで有名でしたから、学校に鳥のエサを持ってきて「これで団子作ってみろや」といってバカにしてきました。自分がバカにされることや自分単体を傷つけることは構わないのですが、さすがに岡山全体をバカにされることは許すことができませんでした。さらにこの馬鹿にするグループの長が、東京大学の教授の息子で、しかも左翼の権威であったことから日教組のクラス担任は頭が上がらず、私が何度も苦情を申し立てても取り合ってもらえませんでした。バカにされてから2か月たったある日、いつものようにバカにしてきたので「次に同じことをしたら、口でいってもいうことを聞かないから殄戮するよ」と忠告しました。当然相手はバカにしきっているのですぐに挑発行為を行いました。私は通告通り、相手を思い切り殄戮し始めました。ほかのクラスメイトがすぐに止めに入ってくれましたから本当に殄戮しないで済んだのですが、相手も私も互いにかなりなぐり合いました。先に手を出したのは私でしたが相手も殴り返してきたのです。ただいじめの長は殴り返してきましたが、その子分は私が首を絞めた拍子に気絶して抵抗はしていませんでした。私は教師が喧嘩両成敗をするものだと思っていたのですが、私だけ謹慎1か月。いじめの長とその子分には何の咎もありませんでした。理由は最初に手を出したからだそうです。納得がいきませんでした。実は父が以前、電車の中で見ず知らずの男性に殴られ、父も負けん気が強いので相手の腕を決めてしめあげたようです。殴り返したわけでなく相手の腕を締め上げただけでも暴力になり、喧嘩両成敗で傷害事件での告訴は見送るべきと警察に戒められたそうです。いじめの子分は喧嘩両成敗にあたらないのは納得いきませんが同じ理屈で考えれば理解できるので我慢できますが、いじめの長は私に殴りかかってきて私も殴られているので喧嘩両成敗になるのが普通です。ところが親の毛並の良さから担任が親に遠慮して私だけ懲罰したのでしょう。不公平な結果はクラスメイトからも教師に逆らって学校へ来いという電話からもうかがい知れるように疑問にも不満にも思っていたようです。私は律儀に謹慎1か月を守って復帰しましたが、卒業までその教師と日教組に対してことあるごとに対立し、今でも日教組を許すことはできません。特に得意科目であった歴史では日教組の教師相手に国会図書館やいろんな大学の図書館に潜り込んで資料をかき集め、教師が授業中に行う歴史の説明で自分の考えと違う場合は徹底的に論戦を挑んで論破し、担任教師でありながら2学期から別の日教組の教師が日本史を受け持つようになり、この教師もさんざんに論破して女の教師であったことから授業中に泣き出して教室を飛び出すようなことがありましたが容赦なくそれでも徹底的に戦い続けました。今でも日教組を恨んでいます。

minaotehon
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました☆ 参考になりました 自問自答した上と 経験次第の心の余禄でありましょうか 大変なご経験談を御親身にありがとうございました。