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アイデンティティーの放棄

人の精神活動のほとんどはアイデンティティーの保持と拡大に消費されているのではないでしょうか。 私の信念、私の理想、私の友達、私の恋人、私の生活、私の結婚、私の夢・・・・ 私と言うコアは存在せず、全ては記憶によって保障されているアイデンティティーという概念です。 人の悩みもこのアイデンティティーに起因するものが全てと言ってもいいと思います。 人は本当にアイデンティティーなしでは生きられないでしょうか。 精神がなぜアイデンティティーを求めるのかは非常に興味のある現象ではありますが、とりあえずこの拡大し続けるアイデンティティーを解体してみる必要があるのではないでしょうか。 手に負えないほど拡大し、理想と現実のギャップを生みだすこの諸悪の根源ともいえるアイデンティティーを放棄したらずっと楽に生きられると思いませんか。

みんなの回答

回答No.10

アイデンティティとは『自分が自分として自分を認識すると云う意味と思いますので』放棄する事は『自分が誰か?』分からなくなるという意味になると思います。 自分が誰か?貴方は誰か?分らなくなった場合には『生活が成り立たない気がしますが?』如何なものでしょうか?分裂病になったと言う意味に取れます。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >『自分が誰か?』分からなくなるという意味になると思います。 いえ、そういう事ではありません。 記憶を消すことはできません。 イメージとしての「私」を作るな、使うなと言う意味です。 私たちは普段自分自身のイメージ越しに他人と関係を持ってはいないでしょうか。 私は男、私は先輩、私は日本人、私は仏教徒 このイメージは、 私は女、私は後輩、私はアメリカ人、私はキリスト教徒 このイメージともろにぶつかってしまうのです。 これは自分自身に対しても同じように働きます。 理想の自分と現実の自分というように。 色眼鏡で相手を見ないと言う事は自分自身の色を消すということではないでしょうか。

noname#209756
noname#209756
回答No.9

 アイデンティティは興味もっている範囲なのでお答えします。  エリクソンは発達心理学で青年の時期に自分のアイデンティティを考えるようになるといってます。エリクソンの発達心理学は表になっていて、図書館で読んでもいいですし、非常に明快な表です。  大分離れているので少し違う解釈かもしれませんが、心理学ではアイデンティティと危機はかなりつながりがあり、青年期の危機、中年期の危機、老年期?の危機というように一定の時期ごとにアイデンティティを再編するといわれています。  私は20代後半から30代前半までアイデンティティについて悩みました。自分のもっている世界観などもふくまれると思います。でもたぶんアイデンティティの形成時期を過ぎて、再編時期にも達していない時期で青年時につくったアイデンティティを維持し、自分なりに成長できるのが心理学上の理想だったことになると思います。  アイデンティティの否定は新しいことへの挑戦で自由な感じです。でも今までの既成概念を壊すのですから、勇気のいることです。質問者のおっしゃるとおり、個人の抱く理想もアイデンティティの一部でしょう。欲求が高くなり、自己評価が高くないというのは現代の社会病ともいえるかもしれません。  ですので、楽に生きるのはアイデンティティを放棄するのでなく、一定の時期に形成したのを維持し、自己評価について考えてみてはいかがですか。  自己評価で本で読んだのは、富とは社会的成功は外面的で運も絡むものです。しかし、内面の優しさなどは自己評価として高く持ってもいいのではないでしょうか。そして、自己評価は低い人と高くてもろい人がいるそうです。どちらも問題と書いてました。 自己評価を高くするために努力することもいいことではあるのですが、今の自己をうけいれることも大事とのことです。 一部の紹介でしたが、ぜひ参考になればと思います。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 ここはメンタルヘルスのカテゴリなので、 >ですので、楽に生きるのはアイデンティティを放棄するのでなく、一定の時期に形成した >のを維持し、自己評価について考えてみてはいかがですか。 これが過剰に低いと自己否定につながるだろうと思います。 本来であれば多少低く見積もって努力への糧とするところでしょうが、低すぎて努力する気も起きないのかもしれません。 ただ、私はいわゆる正常値に戻すのではなく、その先へもっと高みへ登ってみたらどうだろうと提案したいのです。 簡単にいえば解脱しちゃえば? です。 地獄を見た人は案外天国へも近いのではないかと思うのです。

noname#156504
noname#156504
回答No.8

>おや、アイコンが変わりましたね。 >前のは申し訳ないがイケていませんでしたよ。 はあ? 何バカな事言って誤魔化してんの? そもそも、あんたの機嫌取るためのアイコンじゃないし。 人の神経逆撫でするのは上手いよな、あんたは。 >でもそうはならないんですよ。 証明して見せてよ。 もしくは参考文献の紹介。 やらないし、出来ないんでしょ、どーせ。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 ほかの方の回答などを参考に。 ちなみに貴方の猫も人間の赤ん坊もアイデンティティーは持ち合わせてないと思いますよ。 気に入らなければ回答などしなければいいのに。 >それでは脳味噌の無い、虫と同じです こういう回答を棚に上げて神経逆なでもないと思いませんか。

  • zebura23
  • ベストアンサー率30% (252/820)
回答No.7

仰るとおりです。 たまには考えてみる価値のある深い質問です。 我々は、ともするとアイデンティティを求めることが人生の目的になり、 すべてになってしまいます。 アイデンティティの使命は、自分が対象とするものを通して 自分自身を知り、自覚することにあると思います。 そのためにはさまざまな対象が必要であり、 それによって自分への認識が深くなると思います。 ですから相対的な存在への追求が止むとき、 真に自分を見出し、次の段階へ進めると思います。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 アイデンティティーの本来の目的、非常に興味がありますね。

noname#156504
noname#156504
回答No.6

アイデンティティー[identity] ・ある人・物が他の人・物と異なってもっている独自性。同一性。 (三省堂「大辞林 第二版」より) ・自分は自分であって、ほかのだれでもないことの確認。同一性。 (小学館「新選 国語辞典第七版」より) ・自我同一性、自己同一性、主体性、自己の連続性。自分が自分で  あることを感得しうること。1969年に精神分析学者エリクソンが  提唱した概念。 (三省堂「コンサイス カタカナ語辞典」より) >手に負えないほど拡大し、理想と現実のギャップを生みだすこの諸悪の根源 >ともいえるアイデンティティーを放棄したらずっと楽に生きられると思いませんか。 思いません。 それでは脳味噌の無い、虫と同じです。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 おや、アイコンが変わりましたね。 前のは申し訳ないがイケていませんでしたよ。 >それでは脳味噌の無い、虫と同じです。 そう思うでしょう? でもそうはならないんですよ。

noname#152704
noname#152704
回答No.5

患者さんを見ていて思うのは、 良くも悪くも主観的だという点ですね。 客観的だと感じる事は少ないです。自分の拘りや特定の状況に「主観的」に拘り、他人の意見を聞かないと思います。裏を読んだり、見方を変えたりする人間は少ないので、彼らの特定の主観に合わないと非常に付き合い難いです。 そこに、自己中心・自分優先等が絡んでくると、付き合い難いを通り越して絶縁したくなります。 自分に反対する人間の意見を良く聞く患者さん、 自分なんてどうでも良いから、医師・看護師さん優先で決めていいよという患者さん、 こういう人はあまりいないんですよね。 ささいな事を十年・数十年に渡って怨んでいる人が目立つような気がします。 まあ、本人には些少な事ではないんでしょうが。 医療よりも、「物事を過剰に捉えないコツ」といった講座に出席する方が有効だと思うんですけど。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 メンタルヘルスに問題があると言う事はそういうことなのでしょう。 全ては関連し合っているのだから特効薬を求めるのは正しいとは言えませんね。

noname#152704
noname#152704
回答No.4

キリスト教をやり始めた頃、「すべて神のためである」「神中心である」「あなたの事ではない」といった具合に、自己中心をやめよという説教が多く、こうやって宗教を通じて人間は自分がなくなって「死の訓練」をしていくんだなと考えたものでした。 いつも「神の前で自分なんてないな」「自分は一体何なんだろう」と不完全燃焼を感じました。 続いて仏教の書籍を読み、人間が己の拘りを解くところに解放があると確信していきました。 しかし、今迄勉強した分野では、宗教は掴みどころを捉えにくい分野であり、 自分を捨てよという教えは、その中でも最も辛く苦しく矛盾を感じる実行困難が伴うものでした。 反対に、心療内科では、患者の心優先で話を聴き、患者の要望に沿ってちやほやするものです。 決して、患者よりも重要なものがある・患者を超えた大きな存在があるとは言わないですから。(例:社会的使命) 患者は、自分優先で自己満足のための治療ですから。 殆どの医師が、患者を顧客と考えていますし、患者は自分のために医療が存在すると思っているのですから。 宗教でも、聖職者は神仏の権威=自己の権威となりやすく、宗教組織内でも信徒同士のアイデンティティーを満足するように動きやすい部分からは、人間生来の悪い性質がそうだからやむを得ないという考え方もあるかもしれません。 しかし、個人的には宗教ができれば一通りの自己犠牲は実行できると思います。 まあ、私は昨年の震災で1万円以上の物資支援を強要され、勉強になったものの組織を離れようと思っているのですが。宗教は個人より「神」「仏」を優先して自分を失くすという訓練にはなる場所だと感じます。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >自分を捨てよという教えは、その中でも最も辛く苦しく矛盾を感じる実行困難が伴うものでした。 自分が自分を捨てようとするから苦しいのですよね。 方法は無いという事をどう理解するのかそこが味噌なのでしょう。

  • NicksBar
  • ベストアンサー率26% (176/673)
回答No.3

完結に結論からいいます。 「違います」 そんな事より、日本語で「アイデンティティー」相当する単語をごぞんじですか? そこから勉強してみた方が良いと思います。 単なる、頭でっかちですよ。 御参考まで。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。

noname#156453
noname#156453
回答No.2

こんにちは。 難しいですね…しかし本当にその通りだと思います。 そういった悩みの先にある、偏見を持たれる事も多い心の病等も、まさにアイデンティティーが個々の中で誇張される現代ならではの病だと私は考えているくらいです。 ですが、やはりアイデンティティーは放棄できるものではないと思います。というより、人が存在するからアイデンティティーがあり、アイデンティティーがあるから人は存在する…といった感じで、共存しているものではないでしょうか。 諸悪の根源でありながらも、幸福感等の感情すらもアイデンティティー無しではありえないように感じます。 その不可欠なアイデンティティーのなかで、どう自己に折り合いをつけて生きていくか…ですね。 そしてその折り合いのなかで、“最終的に自分が決定した答えをベースに生きている自分”が、“コア”なのかなって思います。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 完全な放棄が解脱なのでしょうが、問題のないレベルまでそれ小さくすることが出来ればここは今よりずっと生きやすい世界でしょうね。

  • lalax77
  • ベストアンサー率37% (21/56)
回答No.1

 心理学や哲学を勉強しまくったうえで  またそういう風に思うなら、放棄してみては  いかがですか?  精神的に悩むと人は答えを求めますが、  答えは出ないものです。  楽に生きるのが全てではないです。  

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 私が言っているのは問題そのものがなければ答えは必要ないという意味なのです。