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「キューポラのある街」「未成年・続キューポラのある
日活が生んだ1962年の「キューポラのある街」と1965年の「未成年・続キューポラのある街」についてお聞きします。 1、監督はもちろんのこと、配役でも吉永小百合演ずるジュンの父役や弟役など違っていますが、何か理由があるのでしょうか? 2、両方の映画に出ますが、当時の北朝鮮は韓国より発展していたのですかね?
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こんにちは。 結局回答が無いまま、再質問されていますね。ということで私に答えられる範囲で記しておきます。 ・「キューポラのある街」、1961年刊。映画化、62年。 ・「未成年:キューポラのある街 第2部」、1965年刊。映画化、同。 http://opac.ndl.go.jp/recordid/000001062650/jpn http://movie.goo.ne.jp/movies/p21631/index.html 3年も間がありますから、配役に関しては映画会社や俳優の都合もあったでしょう。65年と言えば映画会社もかなり苦しくなっていた頃です。例えば俳優の専属契約を打ち切り始めていたかもしれません。前作の配役をそのまま再現しようとすると、製作資金がかさむというような事情が起きていたことも考えられます(通常の専属俳優なら基本給+手当てで済んでしまう)。 監督に付いてはかなりはっきりしています。 浦山さんは、監督第一作の「キューポラのある街」に続き翌年の「非行少女」でも十代の少女を主人公にする作品を撮っています。「キューポラのある街」での成功により、そういう作品の企画を持ち込まれることが続いていたようです。とうとう「小児科」という綽名まで付けられたとか。結局この傾向は更に「私が棄てた女」、日活退社以後の「青春の門」にまで及んでいます。しかも後年の大人の女を描く「暗室」、「夢千代日記」ともに成功作とは言われていません。 ともかく、本人が「俺はもうご免だ」というような発言を繰り返していたようです。 質問の2番目。 内戦では南北共に荒廃したわけです。しかし北には日本が敗戦時に残した工業施設がほとんど無傷で残り、しかも内戦の被害もあまり受けずに済みました。鉱物資源にも比較的恵まれていたため、1950年代は明らかに北の方が国力が上でした。帰還希望者に向けて「この世の天国」というような文句を使っていましたが、その頃には全くの嘘ではなかったようです。 これは60年代の半ばでもせいぜい五分五分だったのではないかと思います。現実にはそろそろ逆転の芽が出つつあったかもしれません。しかし既に北側からの情報はまともな内容のものは少なくなっていて、日本国内では相変わらず北側の優位を信じている者が多かったでしょう。 帰還運動の推進には日本政府も深く関わっていました。これが「日本人妻」問題として、政府への補償を求める動きにつながっています。とにかく一度北に行ってしまった者は、もうほとんど還って来ることはありませんでした。ある意味では南米方面への移住推進と同様の棄民政策でした。これからは人口も減少するので、さすがに繰り返されないだろうとは思いますが・・・。
お礼
有難うございます。第1質問の浦山監督の説明は大変参考になりました。