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沢田研二
沢田研二 古い話ですが、沢田研二さんは何で1980年代になると急に歌が売れなくなったんでしょうか?
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女性のファン層が結婚したためでしょうね。 西城秀樹とか野口五郎とかもその辺から売れなくなりましたし。 男性も女性もアイドルは年代を問わず不変の原則でしょう。 そこから売れるにはサザンや長渕剛など どの年代にも受け容れられるようなスタイルにしないと難しいでしょう。 郷ひろみは割合と成功したタイプだと思いますよ。
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- tiger88
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当時の噂ですが ジュリーが映画に出演し現在の妻である田中裕子さんと競演、親しい仲になって しまったんですね。 ジュリーはピーナッツのエミさんと結婚していましたから、ピーナッツの後見人 というか父親的なナベプロのドンハナ肇さんの逆鱗に触れたのです。 ハナ肇さん宅の隣に家があったくらいです。 そして、当時絶大な力を持つナベプロはもちろん芸能界から干されてしまった のです。当然田中裕子さんも仕事がなくなりました。 事実、当時二人同時に日本の芸能界で見ることはなくなりました。 ここ数年前から二人ともCMから復活しましたね。
お礼
独立にはそういう背景があったんですね。田中裕子さんは結婚して家庭にはいったのかと思っていました。
- mirrinda2
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1985年にデビュー時から所属していた渡辺プロダクションから独立したのが大きいかと思います。 それまでのシングルは最低でも20位以内に入ってましたが(※「アマポーラ」28位は除く)、 独立しての1作目「灰とダイヤモンド」(19位)、2作目「アリフ・ライラ・ウィ・ライラ」(24位)こそ頑張りましたが、それ以降は30位にも入らなくなってしまいました。 ※アマポーラ・・・1930年代のスタンダード曲。映画「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」の公開に合わせて発表されたシングル。ジャケットはジュリーでなく、女優ジェニファー・コネリーの写真を使用。何故この曲をシングルに?と当時不思議に思ったものです。
お礼
1985年には既にかなり落ち目になっていたと思うのですが、独立がとどめをさしたと言う感じでしょうか。
- born1960
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80年代も半ばまではそこそこ売れてたと思います。 29 1980年1月1日 TOKIO 30 1980年4月21日 恋のバッド・チューニング 31 1980年9月21日 酒場でDABADA 32 1980年12月23日 おまえがパラダイス 33 1981年5月1日 渚のラブレター 34 1981年9月21日 ス・ト・リ・ッ・パ・ー 35 1982年1月10日 麗人 36 1982年5月1日 おまえにチェックイン 37 1982年9月10日 6番目のユ・ウ・ウ・ツ 38 1983年1月1日 背中まで45分 39 1983年5月10日 晴れのちBLUE BOY 40 1983年9月21日 きめてやる今夜 41 1984年2月10日 どん底 42 1984年4月25日 渡り鳥 はぐれ鳥 43 1984年9月25日 AMAPOLA 44 1985年8月8日 灰とダイヤモンド 45 1986年4月23日 アリフ・ライラ・ウィ・ライラ ~千夜一夜物語~ 46 1986年10月22日 女神 47 1987年3月21日 きわどい季節 私もアリフまでは知ってますが、それ以降は知りません(笑) ちょうどレコードとCDとが入れ替わる時期にはどの歌手も売れない時代だったかもしれません。 もちろん1948年生まれの彼は、1985年の時点で37歳。ザ・タイガースで1967年にデビューして、すでに20年近く男性POPS歌手のTOPにいました。 No1の方も書かれているように、ファン層ももちろん同じように年齢を重ねているって問題が一番大きいかもしれませんが、そうなると、同世代のシンガーソングライターがいまだに強いのは、やはり自分で作詞作曲して歌うという表現の素晴らしさってことかもしれません。 団塊の世代でいえば、拓郎、陽水、小田・・・桑田はジュリーよりも7学年も下ですが、すでに30年以上TOPを走り続けています。 彼らと比較するのはかわいそうですが、それでもジュリーは20年近くPOPアイドルで突っ走っていましたね。
お礼
シンガーソングライターはファンが求めているものが違うのかもしれませんね。
お礼
なるほど。ファンの側の変化ですね。考え付きませんでした。 確かに、郷ひろみのコンサートには既婚女性も行きますね。