こんにちは。
守護仏というのは、本来、密教に存在する考え方で、その守護仏との結びつきは、結縁灌頂(けちえんかんじょう)ともいわれ、密教の儀式の中で決められるものです。本来、その守護仏は、仏縁に恵まれて、また、信仰によって、その一生の守護仏が決まるものです。弘法大師空海は、灌頂の前の投華の儀式で、二度やって二度とも、曼荼羅の中の大日如来に華が落ちたという伝説が残っています。密教は、ある意味では多神教の世界であり、汎神論ならぬ汎仏論の世界ですから、あらゆるところに仏がいると考えるもので、守護仏は、それを特化した個性と考えてよいかもしれません。本来の仏法そのものはひとつのはずですが、いろんな形になって現れてきているわけです。そして、仏教本来の考え方は、他者の信仰を間違いだというような排他的な考え方をしません。密教は、それを拡大解釈したものだと思います。
しかし、民間に出回っているものは、あまり真面目に考えないほうがよいのではないかと思います。おそらく、十二支と組み合わせたりするのは、中国で考えたものかもしれません。これらの如来や菩薩、観音というものは、それぞれの悟りの段階やその法の性質を具象化したものであって、それぞれには別々の歴史的な意義を持っています。これらは、それが信仰なくして、何かの力を持つものとは思いません。
守護霊というものは、おそらく、明治以降に先祖崇拝の思想と、キリスト教のガーディアン・スピリッツとの考え方が結びついたものだと思われます。守護神というものは産土神(うぶすながみ)として、古来から存在していましたが、守護霊という考え方が、古来からあったようには思われません。仏教に「願生(がんしょう)-人に対して幸せを祈る」という言葉はありますが、日本は、純粋な仏教国とは言えませんが、霊が守るような思想や考え方は、基本的に新しい思想だと思います。民間伝承の産土神は、氏神(うじがみ)であり、先祖崇拝とは似ていても、自分の家系の人間が死して個性を残して霊という存在で守るということはありませんでした。氏神というのは、地の神であり、そこは、先祖の人々が感じた聖域というものに依存するものです。それは、人を守りもすれば、祟もするわけです。
守護霊は、ある種のその人の個性を司るイメージのようなものではないでしょうか?どの霊能者が言ったのか忘れましたが、「(守護)霊は三代」という言葉があります。それ以上さかのぼることは、ほとんどないと言われます。ただ、私個人が考えるのは、守護霊そのものよりも、両親や祖父の幼い時からの言葉だけでない物事の考え方や教育によるものが大きいような気がします。それが、今日の自分にプラスになっているなら、そうしたものに感謝することは、人として大事なことかもしれません。そうした考えが、個人のみならず、社会を平和的に繁栄していく力となるものだと思います。
守護霊を信ずる、信じないは別として、オカルト主義者や心霊主義者のような他者によって決まるものでなく、今の自分の存在や倫理観が、何によって成り立っているか、という意識が大事なのだと思います。
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回答ありがとうございました。