>森高千里の魅力ってなんですか?
私は一介の中年オヤジですが、興味深いことに、当時の知人、友人の中でもより生真面目で不器用な男ほど森高にハマってました。
ライブ会場に集まるのも、挫折を繰り返してきた二浪、三浪の若者から、風采の上がらないネクタイ姿のサラリーマンといった連中ばかりでして、私のような健全な社会生活を営んでいる男の多くは森高なんかには興味も関心も払いませんでした。
この辺の微妙な裏事情については、詩人の荒川洋治が鋭く剔り出し、「赤い紙」という森高を題材にしたなかなか面白い詩を詠んでおります。
「赤い紙」の題名には若者に対する戦場からの召喚状の「赤紙」が掛けられているのですが、もしかして当時の地方ライブとは、さながら負傷兵、敗残兵ばかりが集まる各戦地での慰問公演といった意味合いを帯びていたのかもしれませんね。
スパンコールが放つ光の乱反射に眩暈しながら、ストリッパーよろしく舞台で次々と衣装を脱ぎ、パンチラで挑み掛かってくる森高に対し、当時のM男(今の中年オヤジ)どもは「ウオー、ウオー!」と咆哮していたわけです。
一方、彼女の歌詞については、たとえば「勉強の歌」、「あるOLの青春」、「地味な女」、「この街」、「私がオバさんになっても」、「渡良瀬橋」、「青い海」、「気分爽快」等々は立派な詩だと思います。
が、いずれの詩も、多くの女性が異口同音に評するほどには、素朴な女心を素直に歌っているわけではなく、正真正銘の作り物ばかりだと思います。
それも、女性自身が普段は意識していない深層部に渦巻く女心の本音を汲み取ったものが多く、それを典型的、普遍的な言葉に仕上げていると思います。
措辞面では、いわゆる口語体どころか、肉声そのものと呼ぶべき会話体から成っておりますが、これは取りも直さず、われわれがそうと意識せずに囚われがちな、既成の概念語に惑わされなかったからでしょうね。
このように優れた詩を生み出すための基本条件を彼女が易々とクリアできたのは、ほかでもなく、普段から健全な諧謔精神、鋭い批評精神を、さらには冷静に自己相対化、客体化する能力を備えていたからだと思います。
その結果、人生に挫折し、敗北感を抱いて生きるM男らの琴線に触れる歌が生まれたのではないでしょうか。
不思議なほどに明るく、透明感のある短調の歌の数々が。