• 締切済み

先生からの特別扱い。他意はないですか?

小学校高学年のときに、スイミングスクールの個人コーチから性的ないたずらを受け、しばらくそれが継続的にありました。恥ずかしくて、他の人には相談できず、我慢しました。 周囲からは立派な人という評価でしたから、子どもである自分などが性的な対象になるとは思いもよらず、ショックでした。変態は、外見では判断できないものなのですね・・・。 しかし、そのことは、自分では、トラウマというほどの傷にはなっていないと思っています。 ただ・・・。 その後、中学、高校、大学、そして塾でも、そのときどきの担任の先生に、特別扱いを受けたとき、その見返りに何かを期待されているのではないかといつも考えてしまい、怖かったです。 特別扱いというのは、例えば、試験の最中に先生が私の机のところへ来ると立ち止まって、間違っている箇所をそっと指で教えてくれる、とか、自由課題や論文などでは自己評価以上の最高点をくれたり、個人的に趣味の本などを貸してくれたり、たびたび、呼び出される(悪いことではなく、特別に課題を与えられたり、個人的な用件)など、他の生徒には気付かないように、私だけにされるものでした。 単に、生徒として気に入っていただいているという好意であれば、素直に喜びたいのですが、いつも複雑な気持ちでした。いったいどうなんだろう?と、いまだにそのときのことを思い出して、もやもやしてしまいます。 女性の先生も特別扱いをしてくださることがあったので、深い意味はなかったと思いたいですが、大学時代には、研究室で人目がないときに、突然、男女関係を迫る発言をする頭のおかしい教授もいましたので、何がフツウで何が私の考えすぎか、自分でわからなくなってきました。 よろしくおねがいします。

みんなの回答

noname#104430
noname#104430
回答No.4

質問者さんが子供の頃、性的いたずらを受け、嫌だったけど 我慢た―そのことがトラウマにはなっていないつもりでも、 知らず知らずのうちに傷を受けてしまったのではないですか? でも、今あなたは大人になって、もしそのようないたずらを受 けても「NO」ということができるのです。 ここが大きな違いではないでしょうか。 特別扱い自体は罪ではないと思います。でも見返りに何かを求 めるのは罪です。 先生だけではなくて、この先就職したら上司からも特別扱い を受けるかもしれません。 でも、相手が何か求めてきても、質問者さんはそれを拒む 権利があります。 その時に「絶対屈しない」という強い意志があれば大丈夫ですよ。

suzieq
質問者

お礼

subaru2009さん、回答ありがとうございます。 もちろん、迫られたとき、拒む権利はあります。 ただ、「この好意には、他意があるのではないだろうか?」と、疑心暗鬼というほどでなくても、常にそのことが頭の片隅にあるのは、あまり気持ちの良いものではないのです。 もしかしたら、私のほうに原因があるのかもしれません。 何かをいただいたら、別のなにかを返さなければならないと思っているのかもしれません。筋としては、勉強して成績を上げるなどで先生を喜ばせることができれば、お返しになるのでしょうね。 ありがとうございました。

  • kwan1234
  • ベストアンサー率18% (111/603)
回答No.3

教師も人間である以上教え子の個々に好悪の念を持ってしまうのは仕方ないでしょう。普通の、仕事を真面目に考える教師はその気持ちを抑えて少なくとも外形的には平等を心がけます。 私は老年の男ですが、小学時代に男性教師から試験の時に同じような扱いを受けました。彼の思惑がどうであったかは知る必要もないと思いますが、私がその時とっさに思ったのは子供ながら「こいつはダメだな!」ということでした。質問者の中学時代の先生や私の小学時代の先生がまともな退職をすることが出来たのかどうかわかりませんが、難しかったかもしれません。 質問者さんは  性的な裏心があったのならイヤだけどただかわいがってくれたのならうれしい というスタンスのようですね。 私はそういう問題ではないと思っています。 教育という(教師にとっての職業の)場に個人の感情をあらわに持ち込むべきではないという問題だと思います。

suzieq
質問者

お礼

kwan1234さん、回答ありがとうございます。 >私がその時とっさに思ったのは子供ながら「こいつはダメだな!」ということでした。 小学生でkwan1234さんが教師に対して、そこまで考えておられたとは、私のまったく想像しないのことで、正直驚きました。私の思考では、おそらくいまでも、そのような考えには至らないかもしれません。 同じ状況でも、人によってそれぞれ感じることが違うということですね。 >質問者さんは  性的な裏心があったのならイヤだけどただかわいがってくれたのならうれしい というスタンスのようですね。 kwan1234さんの回答の趣旨とは違ってくるのですが、回答を拝読していて、自分で気付いたことがありました。 もらえる好意は全部受け取りながら、下心はイヤだが、ただかわいがってくれたのならいい、と主張するのは自分本位なことです。 これがもし、男女関係であれば、わがままで勝手な女、ということになりますね。 自分のもやもやの正体が少しわかってきた気がします。 試験や点数での優遇は本来間違っている行為なので、受け取った私にも罪悪感を感じたのかもしれません。 特別に課題が与えられるとか、手伝いを頼まれるとか、趣味の交流の範囲なら、問題がなかったのかも。でも、隠すべきようなことでなくても、おおっぴらではなかったのは(なんとなく隠していたようなところがあったのは)、やはり良いことではなかったのかもしれません。 もしかすると、私はそこに、ひっかかっていたのかもしれません。 ありがとうございました。

  • doukanaa
  • ベストアンサー率42% (78/183)
回答No.2

きっとあなたは容姿に恵まれたとても魅力的な女の子だったのでしょう。 やっぱり人は可愛い子、綺麗な人には甘くなるものです^^ 中には性的に迫ってくる勘違いな方もおられたようですが たいがいは「かわいいな」「力になってあげたいな」ただ純粋にそれだけだったのだと思いますよ。 容姿がよいということは得なことですね。 私は容姿はともかく、ぱっと見がおとなしそうに見えて文句とか言えなさそうに見えるせいで連れ去られそうになったり襲われそうになったことが幼少期から中年になるまで何度もありましたが、何度か怖い目に遭ってから、これからは毅然とした態度でいようと心に強く思って、痴漢にあってもバッと振り返ってにらみつけるぐらいの強さを持つようにしてからはそういう目に遭いにくくなりました。 好意でよくしていただいていることには感謝しても、変な行動に出られたら毅然ときっぱりと強くお断りする気迫もだいじです。 参考になれば。

suzieq
質問者

お礼

doukanaaさん、回答ありがとうございます。 そうですね。ほとんどの場合は他意なんてないですよね、考えすぎだったと思います。 doukanaaさんも、何度も怖い目に遭われ、毅然とした態度が取れるようになったとのこと。 私もいまだに、ときどき怖い出来事に遭遇することがありますが、突然の出来事には、先に恐怖がたってしまい、声も出ず、固まってしまいます。 最近では、我が子を守ることなら毅然となれるようになったぶん、以前に比べて強くなったと思いますが、自分のことでは、まだまだだと思います。 同年代には毅然としているので勘違いされることもないのですが、先生など目上の人に対しては、私が心を許しすぎなのかもしれません。 絶対的に信頼してしまっている部分があるようで、また、先生に信頼してもらいたいという気持ちもあり、少々ヘンだと思うことでも、強く断るということが難しく感じるときがあります。 でも、それではいけませんね。 角の立たない断り方、交わし方などを上手にできるようになって、やっと一人前、なのかもしれません。 頑張ります。 ありがとうございました。

  • 11010ko
  • ベストアンサー率15% (30/194)
回答No.1

あなたが今現在、どのような立場(主婦、社会人などの)でいらっしゃ るのか、文面からは推し量ることができませんが、親元から自立されて いると考えましょう。 あなたの困惑は、いたいけない子供が親の「性交場面」を垣間見た時に しめす感情と類似しているようです。 子供は、両親を絶大なる扶養者として自らの上に慈雨を注ぐ存在として 映っています。その同じ人間像が子供の前で見せた「セックスをするい やらしい」存在でもあることを認識されたとき、彼らは一体どのように 自分の感情を整理したらいいのでしょうか? 子どもたちは、白は白、黒は黒と明確に示してくれないものを嫌悪の対 象として胡散臭く思います。同じ人間はいつになっても変わらずに自分 に愛情を注いでくれるものと思っています。その信頼する人間らが自ら の欲望をたぎらせて、子供たちの知らない世界で喘いでいる姿に豹変す ることもありうるなどとは、とうてい首肯されるものではありません。 その子供たちが自らの「性」に立ち向かわざるを得ない時点に立ち入ら なければ、それを理解することはなかなか困難なことと思います。 大人の人間って≪自分のあさましい姿と相手をいそしむ姿≫とが鏡の表 裏と同じように一体になっていることを自覚しているものです。 でも、それを認識できない子供たちは、このような矛盾した姿を≪汚ら わしい≫と判断するしか自分の考えを整理できないんです。 この矛盾を人間行動の発展と見るか、それとも≪豹変≫と映るかは、も のの見方に依存します。 人間って誰だって「死」を恐れます。でも、なぜ「死を賭して相手を助 けることができるのか?」を子供たちは理解できません。だって「死」 は、あくまでも恐怖であって、それに立ち向かうことは不可能だと思う からです。でも人間の歴史は、この不可能を可能にしてきた歴然とした 足跡の中に存在しています。 子供たちが考えている「性」が、自ら欲する激しい情念(自己本位)で あると同時に、相手をいつくしむ感情(他人を無償で愛する)と一体に なっていて、両者は矛盾していてもお互いが両立しているものであると いう認識に至って、この不可解な人間行動を理解できるようになりま す。 人間ってこの矛盾をどのように判断するかに、問題解決の糸口があると 思うんですね。矛盾は、解消されなければならないものではなくて、そ れ自体が「発展」の切り口になることを認識ください。 「こんな人がこんなこともできるんだ!」との発見は、善悪のどちらに しても、起こりうる人間行動の本性に裏打ちされているものなのです ね。 ・

suzieq
質問者

お礼

11010koさん、回答ありがとうございます。 幼い頃に両親のセックスを目撃したこともありましたが、大人どうしのそのような行為にはそれほど激しい嫌悪感を抱いた覚えもなく、人並みの思春期を経て、大人になっていったと思います。現在は、子どもを持つ母となっております。 >「こんな人がこんなこともできるんだ!」との発見は、善悪のどちらにしても、起こりうる人間行動の本性に裏打ちされているものなのですね。 11010koさんの回答の結論からいうと、思い出すたびにもやもやする気持ちは無理に解消しようとするのではなく、何らかの「発展」の切り口にしなさい、ということなのでしょうか? 他意があった、なかったと白黒つけるわけでなく、両方あることを知り、そのまま受け入れるべきなんですね。 ありがとうございました。

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