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俳句の季語について「・・なし」と否定形で詠むと無季になりますか?

先月小野小町ゆかりの随心院へ行き、俳句を詠みました。桜や芍薬が満開で見ごたえがありましたが、裏側の日陰の道を行くと、多くの男性から寄せられた文を埋めたという文塚がありました。そこで 「恋文を埋めたる塚や花もなく」と詠んだところ、季語の花がないと詠むと、無季になってしまうと言われました。 このように季語を「なし、なく」など否定形で詠むと、無季になってしまうのでしょうか?ご教示お願いします。(句の出来栄えは別として) 無季俳句の是非とか難しい議論ではなく、特別の場合を除けば季語はあった方が良い位の立場でお願いします。

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  • ha575
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回答No.2

私は、身出し季語(季題)に内在する従季語(季題の傍題)の類推解釈語としてと否定語を季語として認められるとの信念の下に句を詠んでいます。しかし、いまだに発表出来る句は出来ていません。 「花」の時期に、そこだけに無かったという「花もなく・花がなし・花見えず」、「水澄む」時期に、小町の化粧井戸など、そこだけが澄んでいなかったという「水澄まず」、或いは、「春(秋)ゆかず」、「蝌蚪見えず」、「竹の春(秋)ならず」などは従季語(傍題)として認められるべきだと思います。 ただし、俳句が座(結社・グループ)の文学であり、一定のルールの下に競詠するものであることから、俳句季語の範囲や解釈は、主宰(指導者)が専権的にルールとして定めます。従って、指導者が季語として認めないと言えば認められないことになります。 また同人結社では、目標や季語の範囲などルールが示されて、同意した者が参加しますので、季語解釈などの問題が生じることがないようです。

soyokaze02
質問者

お礼

回答有難うございます。 難しいことは分かりませんが、おかげで頭の中が大分整理されました。 私が文塚の句を読んだときは、花の時期なのに文塚には花がないという気持を詠みたかったわけです。 そのような場合に、「花」の時期にそこだけに花が無かったという「花もなく・花がなし・花見えず」などは従季語(傍題)として認められるべきだというご意見に、力づけられました。 その一方でそれを使っていい句を作るのはなかなか難しいというお話にも、成程と思いました。 「花もなく」と詠んでも、それを補足する言葉を含めて、今が花の時期なのかどうか、季節がさっぱり分からないじゃないかという場合には、sosdada様が言われるように、やはり無季ということになってしまうように思われます。 初心者で今回何も知らず不用意に「花もなく」と詠みましたが、季語を含めて俳句はとてもいいなと思っていますので、今後も楽しみながら勉強していきたい思っています。 大変有難うございました。

その他の回答 (1)

  • sosdada
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回答No.1

 たとえば、「雪もなく」だと冬以外のいつなのか判らないので無季です。それと同じで、お詠みになった句は無季の句です。「花の跡」なら春ですが、変な句になりますね。 「芭蕉去てそののちいまだ年くれず」(蕪村)  「年暮る」という季語に「ず」をつけて、一応いつでもいいですが真夏の感じではないですね、冬です。  無季の句もたまにはいいでしょう。

soyokaze02
質問者

お礼

回答有難うございます。 若い頃一杯もらった恋文の塚には、今玄関、中庭に咲き乱れている桜や芍薬の花一つとてない、小町さん寂しいですねと詠もうしたのですが・・・。 しかし、花はないと詠んでいるのだから、この句が花の季節の句かどうか分からない。言われる通りですね。 詠んだ時、「花もなく」だと無季になるから、「若葉風」とか別の季語にしたらと言われました。しかし、そうするとどうしても詠もうとした気持とぴったり来ません。初心者にはなかなか難しいですね。 ということで「無季の句もたまにはいいでしょう」と慰めて頂いたのでしょうか。 「右眼には見えざる妻を左眼にて」(草城)という痛切な句があります。このような立派な句は、季語があってもなくても良いと思いますが。 有難うございました。少しずつ勉強していきます。