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ビッグバンドジャズ
スウィング時代にビッグバンドになったのはなぜなんですか? 自分でも調べたのですが、「シカゴに集まったジャズマンがあまりにも多かったから」っていう記述しか見つけられませんでした。それはあまりにも安直過ぎるかと・・・。
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akceyさんの補足に、お答えしますね♪ >スウィングは、シカゴでできたものだと思ってましたが、違うんですね。 ・・・という話は、どこで聞きましたか? 多分これは、スウィングの王様ベニーグッドマンがシカゴの出身だということで混同されているのではないかと思いますが、お心当たりはありませんか? >シカゴで演奏されてたのは、ニューオーリンズのJazzの延長だったんですね。 「シカゴジャズ」と「ニューオリンズジャズ」は両方ひっくるめて普通のレコード店やスイングジャーナルなどジャズ雑誌の分類ではおおざっぱに「デキシーランドジャズ」と呼んでいます。(これは御存じですよね♪) でも、ルイアームストロングの吹き込み(1920年代にシカゴへ出てからの録音しかありませんが)を良く聞くと、デキシーに分類されている彼の演奏は、実は「ニューオリンズジャズ(1940年代に発掘されたジョージルイスやバンクジョンソンの作品)」でもなくて「シカゴジャズ(オースチン高校バンド/エディーコンドン一派の作品)」でもなくて、一種独得の突出した前衛スタイルだということに気づくはずです! 片っ端からいろんな「デキシー」や「スイング」を聞いてみて自分なりの違いを発見する楽しみを味わってみてください♪ >スウィングは、地域的にどこでできた。とは言えないんですかねぇ。 スイングがどこの地域でできた、という限定的なものはなくて、自然発生的にあちこち(田舎のローカルバンド止まりでNYに出てこないままだった優秀なバンドもいっぱいあるんですよ。ラジオが出来ていましたので、全米に波及するのが早かったと思われます)でバンドが生まれました 。 しかし、特筆される有名バンドの発祥地としては、1:ルイの入ったフレッチャーヘンダーソン楽団やビックスの入ったポールホワイトマン楽団が活躍したNY、2:NYのコットンクラブ専属になる以前のデュークエリントン楽団が発足したワシントン(エリントン楽団は最初ワシントニアンズという名前のバンドでした)、3:カウントベイシー楽団のカンサスシティ(カンサス州のカンサスシティではなくてミズーリ州側のカンサスシティです)が特に有名です。 しかし、年代的に最も初期なのはやはりルイ加入後のヘンダーソン楽団(1925)とビックス加入後のホワイトマン楽団(1928)が、今で言うところの「スイングジャズ」の原点になりそうな気がします。 ところで、カンサスでなぜスイングが発展したかというと、シカゴと似たような裏世界の事情があったからなのでした。 シカゴでアル・カポーネに代表されるギャングが暗躍して密造酒の闇酒場が栄えて、シカゴの白人デキシーランドジャズが完成したわけですが、カンサスの場合は、悪徳知事のトム・ペンダーガストが利権をわがものに乱用して、おいしい事業を全部自分の直轄として利益を吸い上げていました。そのおいしい事業の一環が娯楽産業で、世界恐慌の世の中にあってもカンサスだけは景気がよかったと言われています。そこでバンドマンたちの仕事も多く、腕のよい先進的なミュージシャンが沢山育ちました。 カンサスシティのスィングは、どちらかというとスイング発祥というよりは後期にモダンジャズとつながる橋渡し的な存在として有名です。 モダンジャズを創始したチャーリーパーカー、パーカーの先輩のレスターヤングは、カンサスの出身です。特にテナーサックスのレスターヤングは1930年代で既に1950年代のテナー奏者たちと同じモダンなフレーズを吹いていて、パーカーが十代の頃これにあこがれて猛練習をしたという逸話は有名です。 しかし、レスターヤングのモダンなフレーズはどこから来てるかと考えてよくレコードを聞くと、実はシカゴオースチン高校バンドの白人テナー、バッドフリーマンのフレーズに時々そっくりであることがわかります。 ジャズは10年単位でデキシー、スイング、バップ、クール、ハードバップ、ファンキー、モード、フリー、フュージョンと成長/変化してきましたが、そのルーツをたどると、ある日突然に変化が発生したのではなくて、一つ前のスタイルの突出した才能をもった人の演奏に源があることがよくわかります。 マイルスデイビスの「ビッチェズブリュー」はフュージョンの夜明け的作品として一般に知られていますが、実は壮大なフリージャズの電化実験作であることがわかります。 また、フリージャズの創始者とされるオーネットコールマンの最初の作品は今の耳で聞けば普通のバップですし、特にポールブレイをピアノに迎えた「ファビュラスポールブレイクインテット」という作品は完全にチャーリーパーカー&ディジーガレスピーのビバップをオーネットコールマンとドンチェリーがやっているのでビックリしてしまいます。 そのフリージャズも実はコールマン以前に55~6年にはピアノのセシルテイラーがレコードを残しているし、もっとさかのぼると実は実は1940年代後半にクールジャズのレニートリスターノがフリージャズの最初の録音をしているんですよ♪ さあ、こういう視点で聴いていくと、ジャズの歴史をいろいろ自分の耳で調べてみたくなりませんか? akceyさんのジャズライフの始まりに乾杯です! ジャズの歴史の本やCDガイドブックをいろいろ頼りにして、かたっぱしからいろんな年代のいろんなスタイルのジャズを聴いてみてください♪
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- altosax
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スイング時代(中心は1934頃~1944頃)はビッグバンドの時代といわれていますが、それ以前(つまりakceyさんのおっしゃる「シカゴジャズ時代」の1920年代~1930年代前半)にもオーケストラはあったんですよ。 その前に「シカゴジャズ」とは何か御存じですか? ニューオリンズの赤線地帯で始まった黒人のジャズが、売春防止法の施行(1917)に伴ってミュージシャンが職場を失い(売春宿の豪華な待合室でお客が順番を待つ間楽しめるように演奏されていたのがジャズでした)、仕方なくニューオリンズを流れるミシシッピ川から船に乗って、「自由の街」という幻想を抱いて行き着いたのが寒い寒い北部のシカゴでした。 売春防止法というのは正確ではなくて、本当はアメリカが第一次世界大戦に参戦した1917年、当時ニューオリンズが重要な軍港に指定され、これから戦争に行く兵隊さんたちの目の前にチラチラ売春街があってはまずい、という理由でニューオリンズの売春街「ストーリーヴィル(物語村)」だけが閉鎖されたというのが正確ないきさつです。 ルイアームストロングも当然ニューオリンズからシカゴへ出て、初録音はシカゴでおこないました。 南部からやってきた黒人たちが、なにやらイカした音楽をやってるぞ!と目を付けて、おれたちも 黒人になりたい!とシカゴ白人の若者達がまねして始めたデキシーランドジャズのことを「シカゴジャズ」といいます。そしてニューオリンズの売春街の音楽だったジャズは、折からの禁酒法時代のシカゴに行くとアルカポーネらギャングの経営する密造酒場(スピークイージー)のBGMとして演奏されることとなりました。その白人の若者は主にオースチン高校の生徒たちだったので、シカゴジャズの代表を「オースチンギャング」などと言いました。これが1920年代ジャズの中心だったシカゴの実態です。 でも、又の名を「ホット」と呼ばれたジャズ音楽の中心とは別に、ビッグバンドによる「スイート」と呼ばれた甘ったるいダンスの音楽が並行して1920年代におしゃれな大都会ニューヨークを中心に栄えていました。この「スイートジャズ」の中心人物が、自ら「ジャズの王様」と名乗ったちょびヒゲとハゲ頭のかわいいポールホワイトマンです。スイートジャズは、おしゃれな白人向けでブルース的な要素はほとんどありませんでした。 黒人のデュークエリントンも1920年代からニューヨークでビッグバンドを持っていて、その様子は映画「コットンクラブ」でも広く知られていますね! コットンクラブで演奏されたエリントンの演奏は、黒人見せ物的にネバネバねちっこい音楽を主に白人客に見せていた訳ですが、実は白人客向けに、信じられないようなスイート音楽をダンスホールで演奏していたことが1930年代前半の映画「チェック&ダブルチェック」で実際に確認できます。 1930年代の初め頃までは、いわゆるデキシーランドジャズ(シカゴジャズ)の全盛時代でした。 しかし1929年に始まった世界大恐慌の波を受けて密造酒場の客も減り、ジャズミュージシャンはニューオリンズの売春宿閉鎖と同じように失業者が増え、レコード吹き込みもこの時期極端に少なくなっています。 1930年代、不景気の中で人々は外出娯楽が減り、自宅でラジオを聞くことが多くなりましたが、ニューヨークで売れないビッグバンドを率いて四苦八苦していたベニーグッドマンが、1935年西海岸のロサンゼルスに最後の望みをかけて公演に行ったところ、連日満員の大人気を博して、この時をもっていわゆる「スイング時代」が始まった、と言われています。(ニューヨークでは深夜ですが、西海岸と東海岸ではかなり時差がありますので、ロスではグッドマンのラジオ放送を寝る前の時間に楽しみに聞いていた隠れファンの人が沢山いた訳ですね!)この辺の様子は映画「ベニーグッドマン物語」でよくわかります。 最後になぜ、デキシーランド時代の少人数編成のコンボジャズから、スイングの大編成オーケストラになったかというと、先にあげたもともと20年代からあった白人スイートバンドのポールホワイトマン楽団に、やはり白人ジャズの草分け的存在だったビックスバイダーベックが入団して団員たちに大きな衝撃を与え、スイートな中にスイングするジャズ的要素が高まったことがひとつ。もうひとつ、同じ時代の黒人オーケストラの代表だったフレッチャーヘンダーソン楽団(この人は後にベニーグッドマンに楽譜を提供しました)に、ニューオリンズから来た黒人ルイアームストロングが入団し、これまた他の団員に大きな影響を与え、一気にアドリブを重視するジャズバンドとして変貌を遂げたことが下地としてありました。 これがダンスホール全盛時代だったこの当時の伴奏バンド(ジャズメンたちは本当は自分のやりたいジャズだけ演奏したかったのですが、食べていくためにダンス伴奏バンドにならざるを得なかったという事情もあります)の一般的な傾向となり、スイートでジャズ的要素が不要だったダンス音楽が、バンドマンの趣向でダンス音楽がジャズ化していった、ということになります。 そしてグッドマンバンドの1935年の大ヒットまでは、ジャズの主流はギャング酒場のBGMのシカゴ風コンボだった訳ですが、不景気時代の健康的な世直し音楽として以後ビッグバンドが子供も大人も一緒にたのしめる健全なホームミュージックとして「ポップス化」していった訳です。 この「ポップス=ジャズ」だった時代は大体1944年末に軍人となって活躍したグレンミラーが英仏海峡上で遭難してしまう頃をもって下火になっていき、以後は再び小編成コンボの画期的な新しい黒人モダンジャズ「ビーバップ」の時代になり、ジャズは「踊れる音楽」ではなくなっていきます。 小編成のシカゴジャズから、大編成のスイングジャズに変貌していく様子は、映画「ベニーグッドマン物語」と「グレンミラー物語」を見ると、身をもってわかるようになります。 とくにグレンミラー物語では、本物のルイアームストロングやジーンクルーパといったシカゴでデキシーを演奏していたミュージシャンが出演してグレンミラーが見学して回る様子のシーンが見ものです。 また、ベニーグッドマン楽団では、彼が少年時代にデキシーランドバンド(ベンポラック楽団)に入っていた様子が、やはりキッドオリーなどミュージシャン本人出演によって再現されています。 どちらの映画も田舎のビデオ屋さんにも必ず置いてある名画ですので、この辺によく注目しながらチェックして観てみましょう♪
学生時代、ビッグバンドでサックス吹いてました。 あくまで、個人的な想像ですが。 コンボだと、多くても7~8人構成じゃないですか。で、この人数だと、どうしても「音の厚み」という部分で迫力に欠ける所ってありますよね。なので、より「迫力」がある音作りを追い求めた結果、ビッグバンドが生まれたのかな、と。 >シカゴに集まったジャズマンがあまりにも多かったから まぁ、確かにうなづける意見ではありますが(^^ゞ。
補足
詳しい回答ありがとうございます。スウィングは、シカゴでできたものだと思ってましたが、違うんですね。シカゴで演奏されてたのは、ニューオーリンズのJazzの延長だったんですね。スウィングは、地域的にどこでできた。とは言えないんですかねぇ。 こないだビデオ屋いったら「グレンミラー」はありましたが、「ベニーグッドマン」はなかったんですよ~(泣)