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「罰が当たる」と言いますが、どのような時に当たるのですか?

当方、心療内科に通ってて極度の不安症です。 私は、極端に不安ですし、罰や恨みが怖いです。 例えば、神社やお寺で不謹慎な考えが出てきて、頭から離れなかったり(お願いしても意味ないんじゃないか?とか下品な考え等)とか 新聞とかの社会面で事件事故に巻き込まれた被害者に対して不謹慎な考えが出てきます。(馬鹿馬鹿しい事件だなど) また、死亡事故現場を通りかかっても同じ不謹慎な考えが出ます。 また、動物(鳥や牛、豚なども)なんか呪われるのではないかと いろいろ考えてしまいます。 世の中には、人に恨まれる事を平気でしたり、平気で話したり 神様に対しても失礼な事する人もいますよね。 逆に真面目に頑張って優しい人が早くして亡くなったりしますよね。 1、私のような不謹慎な考えなどする人でも罰が当たったり、呪われたりしますか? 2、また、どのような場合、罰が当たったり、呪われたりしますか? メンタル的なカテゴリとは違いますが、よろしくお願いします。

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  • hotchner
  • ベストアンサー率70% (7/10)
回答No.1

1.不謹慎なことを考えただけで罰が当たったり、呪われることはありません。 2.罰が当たったり呪われたりするのは、その人がそのような行為を行った場合で、関係ない人に同様なことが起きた場合は、単なる不幸な出来事があっただけです。 身もふたもない言い方をすれば、罰が当たるというのは悪いことをしないように言い聞かせるための方便です。 そして皆が神という存在は一人一人の小さな不正なんて気にもかけません。 罰してくれるのなら悪徳宗教家なんて速攻罰が下ってると思いますよ(笑) だからといって悪いことをしても罰が当たらないから何をやってもいいと言うわけではありません。 その場合自分の心に罰が当たることでしょう。自分の心に嘘をつかなければ大丈夫です。 天や神が許してくれても自分の心に許せないようなことだけはやらないようにしましょう。

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  • henmiguei
  • ベストアンサー率45% (1764/3876)
回答No.4

呪われたり、罪をかけられるといった類の物ではなく 仏教で言う「因果応報」ということです なくなった祖父が若くして商売を始めて間もない頃 年末の掛取りに回っていた所、何処も集金がうまく行かない 困ったなぁと思って歩いていると 暗がりで何かを蹴っ飛ばしたようなのでよく見ると”財布” 手にとって見ると沢山入っている様子 誰も見ていないのを確かめて懐へ 明るい所でよく見ると当時の金で10円位入っている 商売の金が足りない、其処へこの大金、ふと悪心を起こした祖父は 又、慌てて懐へしまいこんで帰路に着く その金を交番に届けずに”ねこばば”して商売につかったそうです 数年後には商売もうまく行くようになり 金回りが良くなってきた頃 年末の掛取りに回っていた所ふと懐に手を入れると 集金してきたはずのお金が財布ごとなくなっている 慌ててきた道を探しながら戻ったが見つからず 落とした金は100円ほど、拾ってネコババした金の10倍ほど 生前に 「自分の心に恥じないように生きなければならない」 「因果応報、会者定離、頓証菩提、南無阿弥陀仏」と 何だかよく訳がわからない事を言っていました 神仏に呪われるということではなく 罰が当たるという事はこんな事ではないですか。

winer
質問者

お礼

みなさまどうもありがとうございました。 自分は考えすぎという事がわかりました。 くよくよせずに頑張っていきたいとおもいます。

  • michael-m
  • ベストアンサー率50% (2724/5433)
回答No.3

貴方は周囲の人に対して気配りが大切だと思う人。様々な状況を瞬時に考える事が出来る頭の回転が早い人ではないでしょうか。 不謹慎や下品というのも多くの条件の一つでしかありません。出てくるものを抑えようとしても、かえって鮮明に出てきてしまいます。 根本的に判断する必要が在るのは、それを実現したいという誘惑に勝つ事だけです。頭で思うことには基本的に罪悪はありません。もしそれが罪悪だとしたら、小説家や映画監督のほとんどが罪人になってしまいます。 欲望は神が人に与えた崇高な能力です。人の残忍性もそれを失ったら決断力を失ってしまいますし、危機管理能力も失ってしまいます。 その様な神が下された能力を、神が罰するはずもありません。 罰を受ける人とは、欲望のコントロールが出来ない人。周囲への影響も考えずに欲望のままに行動する人です。 絶えず気配りをして、自らの欲をコントロールしようとしている限り、貴方に罰が下る事はありません。つまり、今の貴方に罰が下るわけはありません。罰とは自分の「行動」に対する結果でしかないのですから。 浮かんできたら、ある程度のところで流し去ってしまう。それによって自分の欲求もある程度満たされ、抑制も次第に効いてきます。 神というのは自分の中に存在するもう一人の自分。その自分と仲良くなって、自分がとるべき行動を素直に相談し、自分で納得する形で筋道を立てて踏みとどまれば、次第に抑制力が養われます。 無理に力で押さえ込もうとすれば、反発して欲望は膨れ上がります。

  • -merlin-
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回答No.2

人様に聞いておいてお礼も言わず放置。 そして締め切る。 それを繰り返していたら、いつか罰が当たるかもしれませんね。 お大事に。