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東京 練馬区の忍者
江戸時代の練馬区にも忍者がいたのか調べていますが、 なかなか決定的な証拠がなくて困っています。 どんな小さな情報でもいいのでご存知の方いらっしゃいましたら宜しくお願いします。忍者にまつわる神社や、歴史や集団などご存知でしたらとても助かります。
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- kuwagataja
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No.1です。 次の方がより詳しかったです。江戸の忍者は練馬暮らしだったんですね。知りませんでした。 --- http://www.yasaka-j.nerima-tky.ed.jp/1_gakkou_syoukai/gakkou_syoukai_005.htm 大泉町(おおいずみまち) 江戸時代から明治の中ごろまで橋戸村といいました。ほとんどが幕府直轄の村ばかりあった練馬区内としては、数少ない私領で、忍者服部半蔵率いる伊賀組の給地 でした。その伊賀衆奉納の御手洗(みたらし)が氷川神社(大泉町5-15)境内にあります。地名の起こりは、村の開発者が八戸あったからとする説もありますが、 白子川の地形がつくる「端の瀬戸」と解した方が妥当のようです。 明治22年小榑村(こぐれむら)と合併、埼玉県榑橋村(くれはしむら)となり、同24年東京府へ編入、大泉村大字橋戸といいました。昭和7年市郡 合併で板橋区になったとき、大泉村は東・西・南・北大泉町と大泉学園町の五つに分かれました。旧橋戸村は北大泉町と呼ばれました。昭和22年練馬区成立後も町名は そのままでしたが、55年住居表示が実施され北をとって今の町名になりました。北端(きたはし)のイメージをぬぐい去って、町発展の期待がこめられているのではないでしょうか。
- kuwagataja
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こんにちは、 下記がありました。 --- http://nerimaku.jp/ooizumi/ooizumi2_4.html 氷川神社 とにかく、武蔵野には氷川神社が多い。 歴史は古く、殆ど全てがスサノオのミコトが御祭神です、詳しくは古事記を参照のこと。 ちなみに関西には殆ど無いらしい。 橋戸村(大泉町)の鎮守として、地域と共に、永い歴史を歩んできた。また、境内には嘉永二年(1849年)伊賀組衆108名が奉納した水磐と鳥居があり、区の有形文化財に指定されている。 東京都神社庁HPより。 東京都神社庁HPはこの様な調べ物に超便利です。 伊賀衆奉納の水盤 伊賀と言えば甲賀と共に“忍者”の代名詞である。どちらも三重県に現在もある地名である。 伊賀衆が奉納した水盤がこれ。 嘉永二年といえばもう江戸末期ではないですか。4年後には黒船が来ちゃうじゃないですか。 その頃まで伊賀衆が存在していたのが驚きである。さすがに忍術修行は無いと思うがどうなんでしょうか?
お礼
>4年後には黒船が来ちゃうじゃないですか。 ほんとそうですよね!! 貴重な情報ありがとうございます。
お礼
ありがとうございます。 練馬の忍者のシルエットがずいぶん見えてきました! 調べて分かったのですが、 現在の練馬の高松に服部半蔵の仁王像があるのですが、これってつまり高松も忍者の領地ということになるのでしょうか? http://www.city.nerima.tokyo.jp/shiryo/bunkazai/bunkazai/b009.html