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無宗教の追悼施設を作ることは可能?
「靖国神社の首相参拝に賛成か反対か」という質問の回答の中で、「無宗教の追悼施設を作るべき」と私が書いたところ、「哀悼している時点で無宗教ではありえない」という考えを述べた人がいました。 小林よしのり氏も「戦争論」で「無宗教の追悼施設を作るのは不可能」と書いていましたが、私はこの考え方が理解できません。 亡くなった人を悼み、その気持ちを何らかの行動で表すのは人間の自然の気持ちだと思うのです。その人の暮らしている環境によって、ある宗教の様式が追悼行動に意識的あるいは無意識のうちに入り込んでくることは否定しませんが、人を悼む自然の行動をいきなり「宗教」と言われても困惑します。 辞書を引いても、宗教が人を悼む行為であるとは書いてありませんでした。 よって、私は、特定の宗教によらずとも人を悼むことはできると思うし、そのための施設を作ることも可能と思うのですが、私の考えは間違っていますか? 「人を悼むことはそれだけで既に宗教である」という方は、その根拠をお示し願えれば、大変勉強になります。それが私の納得できるものであれば、以後考えを改めます。
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世の中には「霊の存在を認める」事と「悼む」事、それに「宗教」との違いの判らない人や拡大解釈でヒトククりにしている人が多いです。 無宗教の施設の建設は可能。でも、そういう人が居る限り実質的に不可能と言う事になります。 人の想像力には際限がありません。だからこそ自ら際限を設けなければなりません。それができないのなら「識者」とは言い難いですね。 無宗教という事は、一定の宗教(教え)に偏らない。つまり、指向性を持たせない事が無宗教です。逆に言えば、個人個人の思考で、自分の心の中だけで指向性を持たせられる事が無宗教ということです。 霊の存在を信じない人も戦争で犠牲になった人に思いを馳せ、平和を望む事は出来るでしょう。その象徴としての施設ならいくらでも建設可能です。 問題は無宗教(指向性の無い)施設に形を設けない事です。例えば石一つで十分でしょう。そこに形を与えたり、プレートなどはめ込むから指向性が生まれます。 石でなくても何でも良いのですが、不変で無形的なものとして適していると思います。建物の中に設けるなら、ただの白い壁でも構わないのです。その建物も周辺環境に合っていれば公民館のようなもので十分です。そこに特定の形式を持たせるから指向性が生まれるのです。(まさか公民館を見て宗教施設だと思う人は居ないでしょう) それより大切なのは「追悼式」です。追悼式は黙想だけで十分。挨拶など入れるから指向性が生まれるのです。 唯一必要な指向性は「追悼」です。なぜならそれ自体が目的だからです。しかし、それは目的であって宗教ではありません。その理由は次項にあります。 「人を悼むことはそれだけで既に宗教である」 宗教とは一定の崇高な教えに師事する者の集団です。その中で特に神秘的な人物や人知を超えたものを宗教と呼んでいますが、実質的には無神論者であっても、それを唱えた人を中心として教えを広めれば立派な宗教です。 しかし、故人を悼む心は自然発生的な心の発揚ですから、これを以って宗教とは言いません。なぜならそこには指向性を持たせる為の「教え」が無いからです。 従って、この論題は成り立ちません。
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- nacam
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http://homepage2.nifty.com/boen/index.htm こういったところが既にあるのですから、十分可能だと思います。 無宗教というよりも、全ての宗教を包括する施設であれば問題無いわけですから。
- kasutori
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憲法89条を参照してください。もっとも、慰霊碑などならば理解できます。
お礼
早速のご回答ありがとうございます。 憲法89条、見てみました。 「公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。」 ということなら、公共団体の管理する追悼施設なら公費で建造可能と私には読めます。 それとも、「公の支配」とは追悼施設での追悼の仕方にまで及ぶと解釈すべきでしょうか?もしそうなら、「無宗教」の追悼施設とは呼びがたくなるので建造は無理ということですね。
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お礼
>無宗教という事は、一定の宗教(教え)に偏らない。つまり、指向性を持たせない事が無宗教です。 私の「無宗教」に対するもやもやした感じを、上記の言葉ではっきり定義していただきました。ありがとうございます。 この辺でこの質問は締め切りたいと思います。 ご回答いただいた皆さん、大変参考になりました。ありがとうございます。