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風林火山の晴信 ウツケ者?
- 信玄は、諸国の武将には「ウツケ者」と思われていたのは、史実的に本当のことなのでしょうか?
- 信玄は、能ある鷹は爪を隠すを実行していた、ということでしょうか?
- 信玄の行動と思考には、一般の人とは異なる次元があるのかもしれません。
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私はドラマを見ていないのですが・・・ 信玄が父に対し「うつけ」の態度を装っていたのは史実にある事です。 信玄は幼少より学問を好み、初陣の時には既に孫子や呉子を諳んじていたと言われます。父の信虎は、そうした兵学を学んだ事はないそうで、理屈ではいつも信玄にやりこめられていたそうです。そうした事が信虎の癇にさわり信玄を嫌うようになったと言われます。 二人の間が決定的な破局を迎えたのは、信玄の初陣でした。海の口城という城を信虎は8000で攻めますが、なかなか落ちず、あきらめて国に帰る事になりました。この時、信玄が殿軍を申し出て許可を受けます。信玄は300の兵で殿軍をつとめますが、勝手に海の口城にとって返し、勝利の酒に酔いしれ殆どの兵が眠っていた海の口城を攻め落としたのです。父の信虎にしてみれば、息子であり部下でもある信玄に勝手な行動をされただけでなく、8000の兵で落とせないのを、300の兵で落とされたのですから、父としても総大将としても面子は丸潰れです。だから激怒しました。 結局、この後、信虎は従順で理屈など言わない次男の信繁を可愛がり、露骨に信玄を嫌い、廃嫡しようとする動きを見せます。信玄は仕方なく「うつけ」のふりをして、その場その場をごまかすようになったのです。 このように信玄は父にいいところを見せるどころか、いつもやりすぎて父の面子や感情をさかなでしていたのです。その結果、「うつけ」のふりをするしかなくなったというのが実情です。 諸国のどの武将が信玄を「うつけ者」と思っていたかは、私は知りませんが、信州の武将達が信玄を甘く見ていた事は事実です。信玄が父を追放し家を継いだ後、すぐ信州の武将達が連合して甲斐を攻め敗北しています。 「能ある鷹・・・」父に対しては、そう言えるでしょう。諸国に対しては、敢えてそうしたわけではなく、父にとった態度を見られたと言えるでしょう。
お礼
ご回答ありがとうございます。 そうです、その信玄の初陣で殿軍の場面が丁度先週の日曜日でした!! 最後に信玄(晴信)に攻められて海の口城に来ていた援軍の武将が 「おのれ、武田晴信、ウツケではないな・・・むぅぅ」 なんて言っている台詞もあったので、 諸国には「信玄はウツケ」なんて噂があったのかな?と思いました。 でも、晴信は、諸国に対してではなく、信虎に対してウツケをしていたのですね。 そうですかー、これでしっくりきました。 疑問が解決できて大変すっきりしました。 ありがとうございました!