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創価学会とクリスマス
叱られそうですけど、教えてください。 クリスマスは日本では殆どバレンタインデー同様お祭り扱いですが、 一応キリスト教の行事です。 創価学会や日蓮正宗の方はクリスマスを楽しまれるのでしょうか? 数年前我が家の告別式の数日後、隣家の日蓮系の宗派の方が見えて、15分ほどお経をあげました。 その後、仏間に飾ってあった神社の初詣で買ったお札をご覧になって、 「本当の正しいものを敬わないから、地獄に…」うんぬんということを言われて帰られました。 友人や同僚にも創価学会の家の子がいるのですけど、確か普通にバレンタインもクリスマスもやっていた気がします。 お隣がクリスマスを(お祭りとして)楽しんでいるのか分かりませんけど、 普通は大抵の日本人同様、単純にクリスマスを考えられているのですか?
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創価学会員です. 現在の創価学会では,いわゆるお祭り雰囲気ものとしての「クリスマス」に関して積極的に拒否するような指導はなされていません.ですので,街角で「クリスマス」関連のイルミネーションとかあっても,「きれいだなぁ」と感じたままに生活するのが普通です.プレゼントなども子供たちが慣習的なイベントとして楽しみにしてるのですから別にそれを禁じることもありません. しかし,当たり前ですが,信仰としての本来のクリスマスを祝うことは絶対にあり得ません.これは微妙な感覚ですし特定の信仰を持っていない人には伝わりにくい感覚なのですが,根本的に「あれは他宗派」という区別を付けているのは間違いありません.特に信心の篤い大人であればそうでしょう.あくまで良識と教義の範囲内で世間の流れに合わせている,ということです. 確かに昔々,戦後まもなく創価学会がその規模を拡大させていた頃は仏教・神道・キリスト教等々,他宗派の行事・施設に関して,今から思えば過度なほど距離を置いていた時期があったのは事実です.その名残が結構残っていたり,世間の人に印象深かったりで「神社に行かない」とか「お祭りに出ない」といったイメージが学会に対してあるのでしょう.これは創価学会の教義が厳格に他宗に対して優位性を説くものであることから,ある意味,自然発生しやすい行動パターンだったと思います.ただし,やりすぎるとやはり不自然なわけです.これは私が思うに,創価学会が教義を根本にした社会生活・市民生活のあり方というものに関して模索過程にあったことの反映だったと思います.従来(特に江戸時代以降),仏教の教義というのは出家信者が堅く護るもので,教義に則った生活のあり方も出家に関しては確立していました.しかし在家信徒には何ら確立したものがなかったのです.キリスト教などでは早くから聖職者と一般信徒の両者で教義を根本にした生活のあり方が確立していたのとは大きな違いです.特に,在家でこれだけ大規模な信徒集団ができるなど日本の歴史上非常に希有な出来事でしたので,創価学会としても日蓮仏法の教義を根本にどのような生活様式を確立すべきか,これまで模索し続けていたわけです.その過程で過度な反応をした時期があったということです. ちょっと前にクリント・イーストウッドとケビン・コスナーの「パーフェクトワールド」という映画で,コスナーが誘拐した異宗派の子供に「アメリカ人なら誰でもクリスマスを楽しむ権利がある」と語るシーンがあったのが印象に残っています.確かにこの台詞にも一理あるとは思ったのですが,同時に,「違う信仰を持つ者の違和感はどのように尊重されるのだろう」と感じたりもしました.なかなかに難しく深い問題だと思います. と同時に,純粋なキリスト教徒の人たちにとっては,宗派によるとは思いますが,異教徒もしくは無宗教の人たちがお祭り騒ぎしている様をどのように感じるだろうと,思わずにはいられません.これは特定の信仰を持つ者として素直に心配になってしまうことです.現在の創価学会としては,それが特に信仰性を帯びない限り,過度に戒めることはありませんし,自分たち自身は異教徒としてカッチリ区別をもっているつもりですが,それでも感じる違和感の元ともいえます.
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- paperbo
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創価学会の人も普通にクリスマスにはケーキを 食べたりしますね。 キリストの生誕を祝うとかじゃなくて、 単に世の中の流れ的にお祭りとして楽しむ感じです。 日曜日が休みなのもキリスト教の考えから 来ていますが、普通に休みます。 有名な絵画作品もキリスト教の思想が あってできたものであっても、 普通に見て芸術を楽しみます。 バレンタインもやりますよ。 神社のお祭りにも行きますし、 おみこしもかつぎますよ。 しかし、神社で手をあわすことはやりません。 それと、マリア像を家に置いて、手を合わせたり、 お札を家に貼ったりはやりません。 それ以外は自由にやっています。
お礼
お札を貼ったりはしないけれど、神社のお祭りに行かれたり、 おみこしを担がれるのですね。 マリア像を家に置いて手を合わせたり…というのは私には キリシタンのマリア観音様のような感じがします。 私の隣家のおじさんは、在家ですけどお坊さんの資格を取られたそうで、 そういう意味でも一般的な信者の方よりは熱心なようです。 ご回答ありがとうございました!
- localtombi
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そのあたりは非常に曖昧ではないかと。 確かに厳密に考えている人は神社やお寺の前を通り過ぎる時は息をしないで足早に走り去る、とか子供を京都・奈良の修学旅行に行かせるべきか真剣に悩んでいる人も確かにいます(私からすればナンセンスですが)。 しかしクリスマスを楽しむといっても、お祈りをしたりするわけではないのでケーキを食べる位なら何とも思っていないと思います(私の感覚からすればクリスマス=ケーキを食べる日)。ですから教会の結婚式に出ないという話も聞きませんし私はバンバン出ています。バレンタインもちゃんと貰っています。真言宗や曹洞宗の葬儀にも普通に出ています。
お礼
アドバイスありがとうございます。 私にも理解できないのですけど、笑うつもりはありません。 (迷惑をかけられない限り) 結構深刻に考えていらっしゃる信者の方もいらっしゃるのですね。
キリスト教など敵にあらず。と思っているのでは、ないでしょうか。ふつうにやってますよね。クリスマスリースも出してありますし、パーティも、プレゼントも。 彼らが一番敵視するのは、日蓮宗系の宗教なのでは? 昨今は、遠い宗教同士が争うようになりましたが、熱心な宗教者が一番敵対視するのは、根元が一緒のところですよね。歴史から見ても。 私は、ニュートラルの立場なのでいえませんが、キリスト教の信者さんは、言ってもいいんじゃないでしょうか。 クリスマスに参加するのは、やめてって。
お礼
アドバイスありがとうございます。 つまり神道や他の仏教の宗派と違って、キリスト教は別物という扱いになるのでしょうか? 私のクリスマスは、本来の意味は全く考えず、プレゼント交換と イルミネーションとケーキとご馳走です。 ロマンチックなお祭り以外の何物でもないのですけど、初詣のお守りや御札も 普通の淡白な仏教徒は深く考えませんよね? 御札ひとつで地獄うんぬんという発想は、私にはまったく理解不能です。 でも、本当のクリスチャンの方は、クリスマスは家族で祝う神聖なものだそうですね。
お礼
確かに私もクリスマスを祝うという感覚はありません。 お祭りの一種のような感じに思っております。 ハロウィンなんて更にお祭り扱いです。 キリスト教でもカトリックやプロテスタントという大雑把な分け方だけでなく、 色々な宗派がありますので想像もつきませんけど、日本人のクリスマスは 仏教徒としての宗派関係なく、本来の意味も忘れたロマンチックな行事ですよね。 深いご回答、ありがとうございました!