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最近本気で思うこと
私は、あと5、6年で、人生が終わることを望んでいるような気がする。 理由は、単純。生きているのが、「しんどい」から。 で、保険も、あと5年か、6年なら、妻子も十分生きていけるだけの、金額が下りるはず。 だから、大丈夫だ。 終わりにしたいわけじゃない。 生きようとがんばることがつらいだけ。 4年半前、僕は、一度、脳内出血で、死に掛けている。そのときは、幸せで、素敵な彼女も居て、自分でも、未来に向かって、がんばっていた。 しかし、全ては、脳内出血で奪われた。 その出来事は、僕を死の恐怖から、遠ざけ、 生きる希望を失わせた。 どうしてそうなったのか、記憶も定かではないのに、僕の周りの人は、居なくなった。 将来の希望も、自分が復活できる自信があっても、 周りは、上から押さえつけるように、見下す。 バカな両親は、一生辛抱だという。 そんな人生なら、生きる意味は無い。 そう思って、自分を取り戻す為にがんばった。 新たに、彼女も出来た。 結婚もした。子供もできた。 人生は順風満帆になった・・・わけじゃない。 それは、僕の寂しさや、負けず嫌いから生まれた、当たり前の、人まね人生・・僕じゃない。 そういう人生が欲しかったわけじゃない。 最近、なんとかそこまで取り戻した僕も、 以前のような、未来が輝いた人生は、もう無い。 死ぬのはなんら怖くない。 痛いとか苦しいとか言うのがいやなだけ みんなの意見が聞きたい・・・みんなはどう考えて生きているのかを・・脳内出血で、あほになったと思っている僕に、考え方を教えてください
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私なんかが答えていいのかなと悩みましたが、 気になったので回答(と言えないかもしれませんが) してみようと思いました。 生きる希望がなくなったと感じる人は世の中に たくさんいると思います。私もその一人です。 そういう状態に陥ってしまっている時は 例えば「生きたくても生きられない人もたくさんいる」と 聞いても、何も感じることはできませんでした。 「そんなことは知らない。私は死んだらラクになれると 思うだけ」という気持ちでした。 今思うと、昔に戻ってその時の自分を殴ってやりたい気分です。 でも、心のほんの片隅では 「もしかしたら明日になれば何かが変わるかもしれない」と 期待していた気がします。時間はかかりましたが それは現実になりました。死ななくてよかったと 心の底から思っています。 まだまだ、ふとした時に一気に暗闇に叩きつけられたような 気分になりますが、希望も出てきました。 何より母親を一人にしておけないと思っています。 お子さんの成長をみてみたいと思いませんか? こんなこと言わないほうがいいのかもしれませんが 私の父は私が物心つく前に脳の病気で亡くなりました。 前触れもなく突然だったそうです。 助かっても植物状態だったそうです。 でも私はたとえ植物状態だったとしても父に生きていて ほしかったと思っています。生身の父がどんなっだたのか 知ることは一生できないのですから。 私は無宗教ですが、(父の仏壇やお墓に手はあわせます) 質問者様が脳内出血で倒れても死ななかったのは、 まだこの世でまだやることがあるからだと思います。 大げさな使命とかではなく、です。 私の父は短くても濃い人生だったと信じています。 語弊のある言い方ですが、いつでも死ぬことはできます。 がんばるだけがんばってもいいし、希望がないなら ないなりに今は淡々と何も考えず過ごしたらいいと思います。 以前、テレビでタレントの小池栄子さんが、 「毎日たくさんの方が事件や事故、病気で亡くなっている。 そう思うと私は‘生き続けさせられている,んだと思う」 ということを言っていました。私も本当にそう思います。 ちなみに今の私は昔の夢や希望をぜーんぶ忘れてしまいました。 今はただ毎日を何も考えず、静かに暮らしています。 今はそれでいいと思っています。 長文失礼いたしました。
- sirouto1gou
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こんなにもしっかりとした文章を書かれる貴方を誰が「あほ」と思うのでしょうか。 脳内出血で亡くなる人は大勢います。私の祖父もそうでした。でも貴方は生き残ったのでしょう? 結婚もできた。子供もできた。この事は私にとってはうらやましい限りの事です。 私には生まれつき子供を作るための能力が欠損しています。このために結婚という事は非常に考えづらくなりました。 それでも、私が生きている事には自惚れではないですが、何らかの意味があるのではないかと考えています。人が生きているのは何らかの意味が必ずあるからだと信じているからです。 輝いていなくてもいいじゃないですか。 過去の事なんてもういいじゃないですか。 貴方がもしいなくなれば貴方のお子さまや配偶者の方は必ず悲しみます。 それでも貴方は死ぬ事を希望されるのですか? 今、私は愛犬3匹と暮らしています。それが私の幸せです。みんなが娘と同義です。 私は娘達を見送るまでは死ねません。絶対に生きてみます。 それが私の生きる意味なのですから。 そのために頑張れる。娘達がいるから私は生きれるのです。 そして、娘と別れる日が来ても私は生を全うしようと思います。 それは娘達を忘れないようにです。そしてある意味では貴方の様な人を勇気づける為なのかもしれません。 頑張って、貴方の人生を全うして下さい。 人生の終わりはある程度自由になりますが、伸ばす事は容易ではありません。 今、病院では瀕死の状態でも生きようとしている人がいる事を忘れないで下さい。 頑張って下さい。
お礼
お返事ありがとうございます そうですね 私の人生を全うしたい でも、僕の積み上げてきた人生は、無残にも崩れ去った。 その希望とはちがう、ささやかな人生を、僕の人生だと、胸を張って、生きがいととして見出せるのでしょうか? 何もしなければ、ただ、だらだらと人生を生き、時が来て、寿命を迎えるでしょう。 それは、平坦ではないし、努力も必要とする。 あなたの言うように、瀕死の状態で、生きようともがいている人がいると言うことを、普通に生きることができることを取り戻した人間に言うには、あまりにも浅はかに感じます。 まさに、数年前、私は瀕死の状態だったわけですから。 意識不明の状態から、半身麻痺・・・リハビリに努力し、医者にもほめられるぐらいの、奇跡の回復・・・そして、そこから這い上がり、ここまできた。 そしてちゃんと考えられるまでになった私は気づくのです。 「自分の人生は、失われいる」と。 そして、もう一度新たな人生を・・・と思うのです。 でも、そこには、新たな人生は、同じように築くことはできない。病気が完全に治っても、時間は取り戻せない。 記憶も感覚も、おそらく性格も取り戻ってるのに、社会や、立場や人間関係は、取り戻せない。 そして、思うのです。 人生は、むやみに捨てたりしないけど、 あの時、終わっていれば、こんなに悲しい未来を経験することはなかったと・・・。 そして、自分の欲望なんか何一つ思いつかなくなってしまった。 ただ、自分の人生を取り戻したくて・・・。 自分の喜びや、楽しみも無く、嫁や子供のために、ただ、そのためにだけに、人生を全うし、ただ生きている自分が虚しい
- rekarin
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それに気づけただけでも幸せなことだと思いますよ。僕も今生きていることが心底どうでもいいと思います。 いつまでも夢みたいな希望ばかり見ているより、いつか必ず来る「死」ということを冷静に見つめられるのは良いことだと思います。 幸せになっても、それは一時のことでいつか終わりを迎えます。その期間が長いか、短いかというだけの違いでしかないと思います。 的外れな意見だったら、ごめんなさい。
お礼
ご意見ありがとうございます そうですね。 的外れかもしれません。 僕の場合、どうせ死ぬならという発想で生きてきたのです。 でも、今、生きることはもとより、死ぬこともどうでも良いという気がします。 人が、感動や衝撃を受けても、すべてが、僕には、めんどくさいだけ。テロだって、どうでも良い。地震や津波で、大量に亡くなっても、どうでもいい。僕自身、怖いものが極端に減っています。 人生長いか短いかというのもまた違って、どうでもいいこの世界で、何をするかというのが、僕のテーマになっているように思います。でも、どうでもいい世界で、やることはどうでもいいこと。 だから、死にたいのではない。めんどくさいのです・・。 まだ死に向かって、冷静に見つめられるあなたがうらやましい。 これを言うと、みんなにばかばかしいと思われますが、自分が一度は、死んだ人なので、その後蘇生して生き返ってきた人なので、そのときの夢だと思われる記憶は、生きてても死んでも、たいした差は無い。ということなのです。 僕が意見を言うなら、 「死」なんか下らんもん見つめてどうするのですか? そこには、たいしたものはない。 自分の人生の終焉がそんな立派なものだとでもお思いですか? 生きてても死んでてもたいした差は無い。 死なんて、あんなくだらんもんを、怖がって、びびって、宗教なんかにはまる感覚がわかりません。 「死」は、いろんなものを見ましたが、僕が知っているのは、すべて、安らかに亡くなるだけなのです。 そこにあるのは、無。 そんなもん、冷静に見つめて何の足しがありますか? でも、今生きていることが、ソレよりも価値を見出せないなら、無になってもいいのかもしれません。 宗教でも、「無」を解く人がいますが、あんなもの、無から無を見てるのではなく、有から、無をみて、屁理屈並べてるだけです。 まぁ、死を待つだけなら、どうぞ、ほっておいてもいずれ、有は、無になります。 幸せは、無にはない。 でも、幸せがわからないし、感じられないという人もいるのです。 そういう人にとって、無は、死は、たいしたものではない・・・・。 ご意見ありがとうございました。
- pritneypritney
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こんにちは。 おもわず書き込みします。 毎日しんどいこともあります。揺らぐこともあります。世知辛いとも思います。迷いもします。 でも、それだけじゃないことも知っているから頑張るのかな・・・。生きることは戦うことだなぁと感じています。(あくまでも私の意見です)。 天地がひっくり返るようなうれしいことはそうめったにないと思います。なので、身近な小さなことを愛せるような気持ちで生活することを心がけています。 過去は取り戻せないです。現状をどう生きるかだと思います。 そして、もしも間違っていたらすみません。 脳内出血とのことですが、手術しましたか?友人のお父様が脳内出血で倒れたとき、脳の手術をしたそうです。そのとき、お医者様より『性格が変わります』と言われたそうです(脳をいじるから?)。 手術後のお父さんはとても難しい人に変わってしまい、友人は成人後同居が困難と判断し、家を出ています。 かなり前に聞いたのでそれが正しいか分かりませんが、そんな話もありました。 あくまで私の意見です。ご参考までに。
お礼
そうですね。 僕も性格がかわったように思います。 単純に言うと、怒りっぽくなったといわれます。 それは、先日、テレビでやっていた脳の特集で、脳の同じような部位に損傷を受けた方の人生を見て、謎が解けました。 以前は、嘘つき放題。でも、うまく嘘をついて、後腐れなくする天才だったようです。 でも、今は、嘘つきません。嫌なのです。まったく嘘が無く、生きていくことなんて、できないと思っていましたが、できるものですね。 でも、ここ2年ほど、やはり、元の性格が戻ってきたのか、思わずスッと嘘をついてしまうことがあります。 過去の自分自身が戻ってきたのでしょう。 もともと感情を押さえ込んで嘘をつくのが得意だった僕ですが、感情を出しているつもりは無いのに、感情的だといわれることが増えていました。しかし、ここ2年ほどい、そういわれることも減ってきました。 きっと、ご友人のお父さんは、ご年配なら、怒りっぽい状態で落ち着くのかもしれません。脳の、成長能力が低いので。 僕も、DHAや、EPAといった、脳を構成する為の補助になる物質を、欠かさないように、心がけています。 ご意見、ありがとうございました
- ozisan
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行動を起こしては否定し、泣き言は言いたくない・・・ 人はこの世に生まれた限り、裕福な人も貧しい人も平等に死を迎える事が出来ます。 あなた自身の望む、人生の終焉が迎えられるように往き続けて下さい。 あなたが生きていたから彼女が出来、結婚も出来ました。 お子さんも生まれました。 決してあなた一人の人生ではなかったと思います。 私は、みんなの優しさの中で生きてます。
お礼
私も、以前は、そう考えていました。 しかし、今大きな山を越えて、 そうではないと感じています。 みんなやさしさではなく、甘えの中で生きているのです。 僕が、病気をしたとき、親しい友達や、彼女は、やさしく、僕の周りにいてくれました。やさしさの仮面をかぶって。 でも、それは、病気をするまでの僕に対する、対外的な対応にしか過ぎませんでした。 病気をして、楽しくなくなったから、縁を切るというような、冷たい人間だとは、言われたくないだけだし、自分もそんな人間だとは思いたくないし、認めたくは無い。 でも、ほとんどの人は、そんな人間なのです。 一人ではなかった。当たり前です。これでも人気者でした。しかし、病気・・・これが、僕の能力や、性格を変えました。親しかった友人は、病気した僕のそばに駆けつけてくれました。しかし、みんな楽しくもない、メリットのないやつと付き合いつづけることが、苦痛になります。脳内出血したやつと親しく付き合って行くメリットは、親友ですらなかったのです。 半年・・・なんとか、みんな友達でいてくれました。 でも、これが限界だったのです。 時間と共に、一見まともな僕に対して、とってもさげすんだ態度に変わっていきます。 週末毎週のように、遊びに行っていた連中も、誘ってはくれません。そしてさらに、みんな人生があり、それぞれ、結婚、出産、死別・・・そういった、時間の経過は、やさしさではなく、現実の厳しさが勝って、自分の為にならないものは、面倒なだけになって、切っていくのです。 みんな、甘えの中にいると、やさしさだと勘違いするのです。やさしさとは、厳しさの中にいても耐えられなければならない感情・行動だと思います。 これは、やさしくなるためには、時には、がんばって、苦しんで、傷つくこともあることを、物語っています。その苦痛に絶えてまで、やさしくなれる人は、いませんし、それを周りの人に強いるのも良いとはおもえません。それぞれ、人生、欲望、感情、大切な人、みんなあるのですから。 ご意見ありがとうございました
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お礼
ご意見ありがとうございます 生き続けさせられている この言葉は、私の価値観には、当てはまりません。 生かされているのではない。 たまたま、生きているだけなのです。 そこに意味があるとしたら、知識をもつ人間が、その稚拙な思考で生み出した、人間だけにしか通用しない価値の中でのみ。 私は、脳内出血と言う病気でした。 先天性動脈奇形 あなたは、昔の夢や希望を全部忘れたという言葉で表現されているけれど、それは、勘違いです。 私は、本当に忘れたのです。 今は、かなり思い出すことに成功しました。 当時の彼女のことだけは、雰囲気を忘れまいとして、覚えています。それは、大切な人がいない感覚に襲われ、誰かわからないけど、忘れまいとした自分もいました。その彼女が、僕が普通に生活できるレベルになって、僕の前から去るときに言いました。 「もう、直ってるんでしょう?」 と。 その質問、答えられると思いますか? 自分が取り戻せているのか・・・・わからないのです。 覚えていないのだから。 過去を忘れてしまうというのは、そういうことなのです。 そう、あなたは、諦めたのです。 私は、忘れてしまった・・・そして、時間と共に、その記憶が、夢や希望を思い出し、その欲望を、強制的にあきらめる現実に直面するのです。まさにそれは、絶望でもあるのです。 記憶がよみがえれば、今生きていることを恨みます。 そして・・・なぜ生きているのかと・・・取り戻せない過去と共に、いなくなるべきだったのではないかと。そう思うこともしばしばなのです。 その気持ちは、非常にむごく、がんばる力を、奪い去ります。未来に絶望します。すべてが絶望につながる。そんな、悲しい感覚に日々呆然とします。 ありがとうございました