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くそったれな世界

 相変わらず戦争で無意味に人が死に、貧困で飢餓や病気によって人が死ぬ。広い視点で見ればそれでバランスがとれていると言えるかもしれません、けれどやはり悲しむべき現状だと思います。  この世界がこのようにくそったれなのに自分には何の責任もないとお考えですか?いろんな方の意見を聞いてみたいです。  僕はもちろん自分の不甲斐なさがその一因だと思ってます、ほんの小さな影響しか与えていないとは思いますけど。当然、自分一人で世界を変えられるなどとは思ってはいません。  また、自分よりもさらにバカな奴らどもが足を引っ張っているから、世界はくそったれなままなのだとも思ってます。  質問が削除されてしまうかもしれませんが、そうなったらごめんなさい。

質問者が選んだベストアンサー

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  • baka_inu
  • ベストアンサー率58% (148/254)
回答No.14

はじめまして 質問者の方の捉え方は、全体としてキリスト教的な原罪の意識に似た潔癖さ/崇高さと、部分的には人と比べて自分の位置を確認する世俗さとが相まっているのかな、と推測します。たぶん、頭の良い方なんでしょう。 精神性が、SMAPがこないだ出した「Triangle」という歌の歌詞に、なんとなく似ているというか。Mr.Childrenが出した2~3つ前のアルバムやその頃の歌の歌詞にも通じるというか。 そして、私がもった意見は、大きく2つあります。 「くそったれ」についてと、「責任のある/なし」についてです。 まず「くそったれ」について 確かに悲しむべき現状はあるにせよ、世界は総体として「くそったれ」と断言できるわけではないのかな、と思っています。ミスチルだって世の中に対して戦闘的な姿勢を時折みせながらも「It's a wonderful world」なんていうタイトルのアルバムを出していますね。 水牛が大河を渡る際に、数十、数百頭の犠牲を出すことも厭わないように、大事の前の小事、と考えられなければ、全体を動かすことはできません。1頭の犠牲も出さないようにするために河を渡らないでいると、それ以上の犠牲を出してしまう…そういう場面があることも、すでにご理解されていると思います。水牛に関して言えば、これは総体として「全滅するよりはまし」で「うまくいっている」と捉えるべき状況でしょう。 そういう意味では、世界の色々なことは以前から比べたら「だいぶまし」になってきている、よりよい方向に進んでいるとは思えませんか?それでも「くそったれ」と評したいでしょうか? ある物を見ても、「くそったれ」と思う人と思わない人がいます。それは、目が節穴な人もいますけど、確かな目で見て、それでも「くそったれ」と思わない人もいます。私は後者になりたいなぁと思っています。 なぜなら、「集団の持つ力」と「心の持ちよう」は相関するからです。プラスに思う人が多ければ、プラスに働き、マイナスに捕らえる人が多ければ、マイナスに働くものです。プラシーボ効果やピグマリオン効果、多数の意見に従ってしまう社会心理については、ご存知でしょうか。 …身近な例を考えるなら、質問者の方が「くそったれ」と思うこと自体が、事態を「くそったれ」にしている可能性もあるかもしれませんね。不良の子も、不良だと思って接するか、素直な子だと思って接するかで、相手の反応も、その後の展開も変わることがあります。質問者の方は、ご自分がそういう相互反応が生じる社会の中で関わっていることを、どのように認識されているのでしょうか。 社会的な地位のない人なら、一人でいくらかのお金を募金するよりも、身近な家族や友人をはじめ、今まですれ違った数百・数千人との関わりを変えることの方が、効果があがるかと思っています。渦は、自分を中心に回すのです。 次に、「責任のある/なし」について。 「責任」という語は、言葉の意味があいまいです。例を示します。割れたコップの代わりを買ってくることは代償であって、割れたコップが元に戻るわけではありません。代償行為をもって「責任を取る」ということなら、人によってなんだって「責任を取っている」と言えます。世界には餓死している人がいるから残さず食べなさい、とか。よく言われますが、子供向けのすり替えに近い論理でしかありません。責任の有無にかかわらず、飢餓問題に取り組むなら、別のアプローチが必要でしょうから。元通りにはできない、それでも、何もしないよりはまし、という意識が、今回話題に上がったケースで世間一般で感じている「責任」だと考えます。 また、責任があるかどうかは、契約書を書いた上で適切に判定したりしなくては、「ある/ない」とは言い切れません。養老孟司も述べていますが、「ある」と「ない」は等値ではなく、「ある」ことを示すことは易しく、「ない」ことは証明が難しいのです。そういう意味で質問者の方は、自分にも責任が「ないとはいえない」と思っていらっしゃるのかな、と推測します。責任のある/なしで考えてもよいのですが…人によっては、あるからどうなの?という考えにつながる気がします。 私は、責任とは「感じるもの」であり「果たすもの」だと思っています。つまり基本は主体的に判断し処理することかと。我々ができることが代償行為でしかない以上、自分と直接関わりのない事例に対して責任をどうこう言っても始まらないし、始めに契約でもするか、法律でも整備されていない限り、責任感のない人に対して責任を負わせることは難しいと思うのです。自分の感じた責任は自分で行動することによってしか果たせないのですから、あとは自分が粛々と責任を果たし、身近な人にも責任を感じられるように日々接していくことかな、と。 現状に不満があっても、全てを一度に変えたり、全てを助けていくことは、とても難しいのです。当事者には当事者なりに、直接の利害関係もあります。それらを知った上で、建設的な意見を言わなくてはならない。遠い責任の所在を云々言うより、もっと具体的で建設的な方法があるはずです。 …日本人は国際比較的に十分な教育を受けているので、ミクロな立場もマクロな立場も、利害関係も含めて知っておくべきだと思っています。とはいえ、質問者の方はすでにご存知でしょうね。 一人が世界を変える必要はありません。 身近な世間を変えていきましょう。 最後に。 こういった場を利用して周囲の意見を収集することは、質問者の意見をブラッシュアップするとともに、質問者の方の立場を不特定多数に伝える効果も期待できることです。なので、それなりに意味のあることだと思っています。 私がここに書くことに対し、誰かがそれなりの意味が見出して頂ければ幸いです。長くなりましたが、この辺りで失礼します。

yellowbutterfly
質問者

お礼

 ありがとうございます。  とりあえず、ミスチルは全然聴かないです。  確かに、徐々に世界は僕にとっても良い方向に向かっているのかもしれません。けれど、根本的には全然進歩がないなと感じています。今、この時代にソクラテスが蘇ったとして、多分そのように感じるのではないかと思います。  僕の認識では、世界は「くそったれ」か「美しい」かではなくて、「くそったれで美しい」か「くそったれでもなく美しくもない」なのです。世界をマイナスにだけ捉えてるわけではないのです、そして、プラスにだけ捉えることに疑問を感じてもいます。  1円の寄付で責任を果たしたと思う人もいれば、1万円の寄付でも責任を果たしてないと思う人もいる、というのは理解しています。  「責任」という言葉は適切ではなかったのかもしれませんね、どうも過剰に反応されてしまうみたいだし。そこにきちんとした契約が交わされていない以上、責任問題というのはどうしても曖昧になってしまうので、それを追求しようという気はさらさらないのです。  僕が知りたかったのは、世界の物事と自分との間に何らかの関係性、因果というものを他の人々は感じているのだろうかということなのです。つまりそれは、マクロな立場で物事を捉えることだと思うのですが。  常にマクロな立場も考慮しつつ、ミクロな、身近な世間を変えていきたいものですね。

その他の回答 (14)

  • 5ji55fun
  • ベストアンサー率9% (45/491)
回答No.4

人としての崇高な価値を愛というならば、 この世の悪は、無関心から生まれるという事を聞いたことがあります。

yellowbutterfly
質問者

お礼

 ありがとうございます。  なるほど、そうかもしれませんね。つまりこの場合、責任を感じないというのは無関心ってことに近いととっていいのでしょうか。

noname#62693
noname#62693
回答No.3

世界を作るのは人で人の集まりだと思っています。 責任を問題にするのならば、「自分には」というよりもまず各国の頭の責任問題が先とも思えます。 分かりやすいのは韓国でしょうか。きちんとした情報を流さないから今でも韓国の方の多数は日本人に恨みを持っておられます。奪ったものを還元できませんが、要求以上の破格の償いをしているにも関わらずです。情報が正確に流されないばっかりに憎しみが生まれています。  人が世界を別の世界に変えるのではなく、人が変わることによって世界が変わるのだと思います。自分には責任があるかないか、の問題ではないと思います。 私は責任云々よりも考え方だと思います。 >この世界がこのようにくそったれなのに  誰がくそったれな世界だと決めたのでしょう?またくそったれな世界の基準はなんでしょうか?戦争がなく貧困がなければそれでいいとは思えません。  戦争で無意味に人が亡くなったと質問者様は仰っておられますが、その亡くなった方々は少なくとも、質問者様の仰る「くそったれな世界」でも生きたかったのでは?死なず、生きたかったのではないかと思います。戦争に限らず、色々な外からの力に屈することなく誇りを持ち、生きたかったのでは?そんな人たちが生きたかった世界を「くそったれ」と評していいのでしょうか。私は戦争などで亡くなった方が亡くなってしまった事も悲しむべきことと思いますが、しがみついた世界が「くそったれ」と言われることも同時に悲しむべきことだと思います。 >自分よりもさらにバカな奴らどもが足を引っ張っているから、世界はくそったれなままなのだとも思ってます。  こういうお考えが世界、世間の一部に差別や精神的な貧困を生んでいると私は思いますが質問者様はどういった基準で自分と、自分よりも…という相手の区別をつけていらっしゃるのでしょうか?むしろ誰の物差しでしょう? 自分より相手を卑下し、その繰り返しが戦争だと思います。 つまり質問者様にとっての「くそったれな世界」が続いているのでは?

yellowbutterfly
質問者

お礼

 ありがとうございます。  社会と個人は切り離して考えられる問題ではないと思うので、国の頭に責任があるのなら同時に個人にも責任があるのではないかと僕は思います、よって「まずは各国の頭が…」とは考えません。まずは社会ありきだと思わないし、まずは個人ありきだとも思いません、まずは社会ありきと考えるのはそれはそれで自由だとは思いますが。  人が変われば世界が変わる、僕もそう思いますよ、それもある意味人が世界を変えるということだと思います。  戦争や貧困は例としてあげたまでで、もちろんそれがくそったれの基準のすべてなわけじゃありません、そしてその基準は僕がくそったれと思うか思わないかです。  僕がくそったれな世界にいまだしがみついているのは、半分惰性で、半分はくそったれと同時に美しくもあるからです。  「世界は美しく、けっしてくそったれなんかじゃない」と言う人には僕はこう言いますね、「お前の目は節穴か」って。  天は人の上に人をつくるし人の下に人をつくると僕は思います、それを差別だと言うから差別なのであって、それは単に事実なんだと思います。事実としっかり向き合おうとしない精神的白痴さが、僕にとってのくそったれな世界の一因だとも思います。僕が足を引っ張られていると感じているのは事実だし、僕が誰かの足を引っ張っているだろうことも事実だと思います。

回答No.2

責任が全くないとも思えませんが、自分のどういった行いがどういったことに影響しているのかがはっきりと分からないのでどうにも出来ないことが多いような気がします。(正に「北京で蝶がはばたくとニューヨークで嵐が起きる」という感じでしょうか。きっとどこかでやったどうでもいいことがトンでもないことを引き起こしているとは思うんですが…)。 分かる範囲内ではやれる時はやりますけどね。たとえばなるべく節約するようにするとかね。たまに寄付をするとかね。沢山食べ過ぎないようにするとかね。でもその程度しか出来ません。(政治に関しては誰に票を入れるかを慎重に考える、という程度のことしかできません)。

yellowbutterfly
質問者

お礼

 ありがとうございます。  noboruさんのようにわずかでも責任を感じることの出来る人がいることはこの世界の救いだと思います。  butterfly effectってやつですね、まったくそれはその通りだと思います。良かれと思ってしていることが実は大迷惑だったりすることだってある、それならば何もしない方がまだましだったということもあるでしょう。  しかしだからと言って、どうにも出来ないからって諦めるのは所詮言い訳だと思います、出来ないのではなくてやろうとしないだけだと思います。だって面倒臭いから、僕だってやらない、出来ないんじゃなくてやらないんです。

  • fevrier2
  • ベストアンサー率13% (22/165)
回答No.1

こんにちは。 パンキッシュなタイトルですね。 私は自分に責任を感じているからではなく 自分がしたいから、いろいろな事をしています。 人が足を引っ張っても関係ありません。要は自分が 何をしているか。私は自分が不甲斐ないとは思いません。 出来ることは沢山あるし、そのために生かされていると 思うから。前向きに。

yellowbutterfly
質問者

お礼

 ありがとうございます。  fevrier2さんのスタンスは基本的に僕と同じなんじゃないかと思います。  例えば、人助けなど、するべきだからするのではなくてしたいからする、ただそれだけ。したくない時はもちろんしない。それでいいのだと僕も思う。  他人が何をしようと、それは自分が何をしようと自由なのと同じで自由だから、自分が出来ることをするだけ、他人なんて関係ない。  ただ、責任は感じます。例えば、あの時10000円寄付していればいくつかの命を救うことが出来たかもしれないのに、それをしなかった自分にはやはりその命に対しての責任がわずかばかりであるにしろあるんじゃないかと思ってます。

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