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ハイセイコーが表紙を飾った雑誌を教えて下さい!
30年以上前の話ですが、ハイセイコーという競走馬が 国民的人気モノになり、少年雑誌や女性誌の表紙を飾ったことがあると聞きました。 そこで皆さんに教えて頂きたいのは、ハイセイコーが 表紙に登場した (1)出版社 (2)雑誌の名前 または何月号か (3)現存しているか の計3点です。 ご存知の方がいらっしゃいましたら教えて下さい。 よろしくお願いします。
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まずはハイセイコーの大まかな足跡ですが、父はチャイナロックという当時の大種牡馬(父親)で数々の名馬を出した優秀なお父さん、母はハイユウという地方自治体が開催する競馬(地方競馬)(所属は南関東ブロック=船橋・浦和・大井・川崎を指します)の大井に所属し南関東ブロックで57戦16勝という優秀な成績を挙げた馬で、血統も良いという馬でした。 この馬がデビューした1972年は高度経済成長も陰りを見せ始め、経済的にこれからどうなるのか不安の多い時代でした。そこに大井競馬に所属・デビューしたハイセイコーは6連勝、しかもそれぞれ8馬身・16馬身・8馬身・10馬身・7馬身・7馬身と圧倒的な強さを見せました。そこでその力を大舞台で試したいと中央競馬へと移籍、その強さを競馬新聞を初め、一般紙も特集し移籍初戦の弥生賞では単勝1.2倍、中山競馬場の来場者12万人と前代未聞のオッズと来場者の前で見事に勝利、そして次の大レース・皐月賞も堂々と勝利し国民的アイドルの座を獲得したのでした。その後「3冠レース」(満3歳となった馬が目指す3つ大レースのこと=皐月賞・日本ダービー・菊花賞)はダービーでも人気になりながら当時伏兵であり、生涯のライバルとなる「タケホープ」に敗れ3着、その年の秋に雪辱を誓った菊花賞ではまたもやタケホープの2着と辛酸を舐める結果となりました。明けて74年になっても前哨戦においては勝つも、春の大目標「天皇賞・春」(天皇賞は年2回春を京都、秋を東京で開催される。)でも敗れ6着となる。しかし人気は衰えることなく、次の「宝塚記念」で念願の雪辱を果たし、その年の「有馬記念」(毎年最後の週に行われる大レース)を最後に現役を退きました。 地方競馬時代は大井競馬場、中央競馬時代は東京競馬場(東京都府中市、当時は中央競馬で関東に所属する馬は各競馬場に隣接した厩舎に所属し、生活していた。現在は茨城県美浦村の「美浦トレーニングセンター」に一括して所属し、レースの時だけ競馬場に運送されている)だったのですが、逸話として小学4年生の女の子が「とうきょうとハイセイコーさま」と書いて送ったら無事届いたという話があります(この葉書は現在東京競馬場にある競馬博物館に所蔵されています(非常設展示品) 子供から老人まで幅広く愛されたハイセイコーは種牡馬としても優秀な成績を残し、2000年5月4日、牧場で毎日の日課である放牧を終える夕方に迎えに行くと、既に亡くなっていたそうです。享年31歳、死因は心臓マヒ。サラブレットではかなり長寿でしたが、天国へと旅立っていきました。その一報は当時一般紙・テレビ等でもトップニュースで伝える新聞、局もある程でした。生涯アイドルだった馬でした。 それでは質問の回答ですが (1)講談社 (2)少年マガジン 73年頃 (横尾忠則のアレンジ) (3)古書店にて流通しているようです。 (1)中央競馬ピーアールセンター(当時・日本中央競馬会) (2)月刊・優駿 73年5月号 (3)同上、ただしこちらの方が安価と思われる。 長々とした前置きの割に2冊しか申し上げられませんでしたが、参考になればと思います。
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- akira2082
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NO.1です、中間報告させてください。 (3)の現存しているかの点についてですが、手に入れようとしているのであれば、女性雑誌はとにかく入手が困難だと思います。よほど神田古書店街を探す位しか可能性はないのではないかと思います。また論文作成などの資料として使用なさるのであれば、国会図書館や大宅荘一文庫位ですね。 女性雑誌は表紙の概念が浅いのか、特定は本当に難しいのですが頑張ってみます。 今日は報告まででした。
お礼
重ね重ねご丁寧な回答ありがとうございます。 見ず知らずの人間にここまで優しくして下さり 涙が出そうなぐらい嬉しいです。 本当にありがとうございます。 結果がどうであれ、心より感謝致しております。
お礼
ご丁寧な回答、まことに有難う御座います。 お礼が遅くなってスイマセンでした。 さて、頼みついでといってはなんですが、 もし、上記の雑誌以外、特に女性誌で ハイセイコーが表紙に載っている月号を ご存知でしたら教えて下さい。 ワガママなお願いばかりいって申し訳ありません。