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映画「青春の蹉跌」のあの歌
昨日深夜、一部地域で放映された映画「青春の蹉跌」を見て質問です 私はリアルタイムであの映画を見た世代ではなく、 ショーケンの「えんやーとっと、えんやーとっと・・・まつしーまー・・・」 というあの歌い声に不覚にも笑ってしまいました 最初はとにかく「なんで?なんでこの歌が?」という感じでしたので。 なぜああいう歌を物語の随所に挿入されたのでしょうか? 昨日の放送または昔この映画を見た方で、 「あのショーケンの歌が取り入れられた理由について自分はこう思う」 または「この歌は映画の中で●●●●を表現している」などのご意見を聞いてみたいです 皆様方それぞれの考え方などきかせてほしいのです 私としては、この歌が流れていた場面の出来事についての ショーケンの無関心、無気力さみたいなものを表しているのかと感じたのですが・・・
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- JCSGS
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すいません、読み返すと監督のことばっかりで、自分が当時どう共感して「傑作」といえるのか、の面が少ないですね。で補足。 「エンヤトット」は一言でいえば<虚無感>の表現だと思いますが、70年安保後にこれを感じた人は多かったでしょう。10代後半だった私も思いかえせば、世界が終わるか完全な<革命>に至るかどちらかしかない、と思っていた気がします。あの時代に渦中にいた人は多かれ少なかれそう感じ希求したはず。アホかと思われるでしょうが、そうでなければあのエネルギーは説明できない。 しかし時は非情に流れて自動延長。さらに連合赤軍事件やベトナムのカンボジア侵攻など、<幻想>が砕かれるときがやってきます。ものみな生産や生活に再従事し秩序が整えられるなかで、どう生きていくのか。もう残りカスの人生ではないのか・・・特攻隊の生き残りを表明していた鶴田浩二がときどき語ったようなものかもしれず、歴史上も革命後に建設に向かう際の反動と虚無感が報告されています(フランス革命後の混乱を世界史で習ったと思うけれど)。しかも権威は残っている・・・。 でもチンタラ生きのびるには---唄でもかなでてやり過ごすしかないじゃないですか。70年安保後の数年に『時代を表すキーワード』とかネット検索があったら<シラケ>てのが沢山ヒットしたはずです。○○節はきっと主人公かショーケンかスタッフの郷里の民謡で、祭りを遠まきに見ていた幼い頃に耳にこびり付いたものだったかもしれない。 前言したように脚本にないアフレコであり、役者たちがラッシュ画面を見ながら議論しつつ挿入していっただろう事がうかがえます。主人公の心情を映像でドラマ化しつつ音声の再演出でふたたび客観化する。入り組んだ演出がオリジナルな神代節へと昇華しています。このいっけん無関係な映像と音声の衝突を全面展開しているのがジャン・リュック・ゴダール監督です。とくに後期のは音声の字幕を追うのに疲れて睡眠に入りがちですが、ゴダール節てのが確かにあります。 もうひとつ本編に即していえば、当時渦中にいた者のスローガンで「家族帝国主義を粉砕せよ!」がありました。つまりいっぱんに親などの家族は闘争を理解してくれないわけで、主人公も荒木道子の母や権威的な叔父さんとの間に、説得にかかるか無視するか、はたまた権威とみなして破壊に動くか、選択を迫られ何らか実行したはずです。でもそこから黒ヘルだったかに囲まれて「俺はカンパも署名もしない!」に至り、叔父さんに頭を下げるまでの心情の落差を思いやるべきかもしれない。原作の設定にあるように経済的に苦しいなかで大学に通ったわけで、どうしても<生活>に復帰せざるを得なかった、その空しさの表現でもあると思います。 今から思えば「団塊世代の甘ったれ!」と批判されるのかもしれない。しかし日本の基地から爆撃機がベトナムに飛んで虐殺を続け、米軍傷病兵が担ぎ込まれ、佐藤栄作政権が戦後最長でダラダラと続き、大学行けばすし詰めのキャンパス、旧態依然たる教授たち。その閉塞感が10年続いたのです。ネットがなくても世界中で呼応して権威の破壊運動が起きたのはあたりまえだったし、その<改革>の実は現在、社会の中堅となった私たちに播かれ、継続しているのだと信じたいです。 ●前回書いた「T・ドライサー『陽のあたる場所』」は映画化された題名で、正しくは『アメリカの悲劇』でした。 ●>ラストは少しがっかりだったのですが そうね。曖昧なストップモーションでね。体操みたいに着地も完璧に決まればね。でもま許す。 ●またも長々と。オジさんの懐メロのオダ話でした。久々に書く気持ちにさせてくれてありがとね。さ生産と生活にもどろう、エンヤトット、と。
- JCSGS
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オジさんとしてはこの映画について語りたいこと沢山あります。 「エンヤトット」の映画的効果については質問者や前の回答者が述べたとおり、または自由に受けとめてけっこうだと思います。ただ脚本のト書に「画面外から主人公の『エンヤトット』が流れる」とかあったのではなく、あくまで監督・神代辰巳(くましろたつみ)の独自表現なのです。それは彼の作品を時系列的にほぼ全体験した私にとって自明で、「やってるやってる」と嬉しくなった記憶があります。 72年『濡れた唇』での「屈辱を受けました。腹でも切りますか」。同『一条さゆり・濡れた欲情』での「えーなかなかなんけ」の春歌。73年『恋人達は濡れた』での・・・ンー何だっけ、初期の神代作品の主人公たちは進行する画面とは直接関係のない、哄笑に似たつぶやきを繰り返します。同時録音ではなくアフレコを多用(口パクの不調和も散見するほど!)し、つまり画面を先に撮ってのち音声の再演出をしたのだと思うけれどその独特な絡み合いによりめざすのはひとつ、主人公の内面表現であり、純粋な意味でドラマそのものです。 手許に『キネマ旬報1972年度ベストテン発表号』があり、佐藤忠男さんの日本映画総評の冒頭を長いですが引用します。 「1972年の日本映画は、総体的には甚だしい沈滞を続けたが、一部にめざましい昂揚があった。 めざましく昂揚した部分として、とくに目立ったのは日活のロマン・ポルノであり、とくに神代辰巳監督の『濡れた唇』『一条さゆり・濡れた欲情』の二本(中略)などであった。日活が、71年に、いったん製作の中止を発表したとき、これで日活映画もおしまい、と思われたし、その後、ロマン・ポルノ路線を発表したときも、それまでの日活の有名監督たちはすべて手をひき、スターたちも他社へ去った状態だったので、直接費700万円とかいう極端な低予算ではたしてどれだけのことができるのか、ほとんど期待できないのではないかと思われたが、目だたない二線級の監督と目されていた神代辰巳がとつぜん見違えるばかりの旺盛な作家精神を燃やして、なるほどポルノにもこういう行き方があったか、と瞠目するような作品を発表したのは嬉しい驚きであった。 そこには、堕ちて、堕ちて、堕ちぬくということの壮烈な快感がうずいており、敗戦直後に坂口安吾が『堕落論』で説いたようなことが、今ようやく、具体的な作品に実ったかのような感慨があった。そう言えば、神代監督は、坂口安吾が『堕落論』を書いた頃に学生だった世代に属している。(中略)その作中人物の人生に対する捨て身の構えには神代辰巳の人間観が濃密に出ていると思う。」 ンン。神代さんのすごいのはこの初期の評価というか指向をそのまま遺作『棒の哀しみ』まで一貫した事です。田中登、加藤彰なんかはじめは凄かったのよ。でも中途から普通の職人監督になってしまって寂しいこと。(魁皇もさっさと横綱にならないと!) エロティック表現を武器に優れた作品を撮った監督は、新藤兼人、実相寺昭雄、P・グリーナウェイ、ケン・ラッセル、最近ではD・リンチやクローネンバーグとか古今おりますが、ドラマ-人間同士の関わり-にしっかり収束させたのは神代さんが随一だと思う。そこには人の生きづらさや哀しみに触れあい寄り添い続けることで、さらには乗り越えての希望まで垣間見せようとする意思が表現されています。 で、72年のベスト5が松竹・斉藤耕一監督『約束』でショーケンの映画デビュー作。その自然な演技(なんとつまらん表現)に目を見張ったものです。いっぽう東宝に青春映画路線てのがあり68年『めぐりあい』69年『俺たちの荒野』70年『その人は女教師』など初期には魅力的な作品がでたものの活力を失ってきており(話は違うけれどTVの東映『デカレンジャー』東宝『ジャスティライザー』の違いですな。マジメすぎるんだよな)、ダイニチの末期にニューアクション路線で映画ファンを熱狂させた(現文科省幹部の寺脇研氏や、秋本鉄治氏などキネ旬の常連投稿者でした)藤田敏八監督で桃井かおりの映画第2作『赤い鳥逃げた?』を73年につくり、翌年にショーケン起用となったわけです。 その彼のたっての希望で神代辰巳が抜擢されたのです。その後75年『アフリカの光』83年『もどり川』85年『恋文』とコンビでの秀作を連発。最良の幸せな時代がありました。神代監督はTVでも酒井和歌子を使った2時間ドラマなど、日テレの鶴橋康夫とならぶ?みごとな演出を見せていました。しかし95年死去。享年67歳。映画青年だった私にとってトップにあげたい彼の不在は---『花と蛇』で少しミソ付けたとはいえ石井隆が頑張ってくれているけれど、今も喪失感として継続しています。ひょっとしてショーケンもそれを埋めきれないのか? ●原作は当時も指摘されましたがT・ドライサー『陽のあたる場所』(M・クリフト主演で52年映画化されアカデミー賞7個)の翻案で、やや固いところのある小説です。それを長谷川が学生闘争後の虚無感漂う青年におきかえ、監督がさらに実に迫った傑作といえると思います。 ●>ホコ天で 100円でええねん…と見知らぬ人にしがみつく女性にも笑ってしまいました あの女性の役は芹明香(せりめいか)といって、たしか『四畳半襖の裏張り』で助演デビューしたての頃で、後に多くの神代作品に主演した、ロマンポルノでは中川梨絵につぐ?!大好きだった女優さんです。世間の多くから蔑んで見られたポルノの女優さんが、東宝の看板しょった作品に端役でも出たのが嬉しかったっけ。 ●映画を監督でみることに慣れていらっしゃらないと、映画マニア的な書き方、と思われたかしら?たとえばベートーベン『第9』の終わり方の数節が指揮者によって全部違うように、まして具体的な事象を扱う映画をその作家性に注目してみていくといろんな発見があって面白いですよ。 ●>あの時代のことはもう経験者の方のお話や本などでしか知ることはできないのですが、そんな私でも楽しめた映画でありました。今の時代ではもう作れない映画ですからね 「楽しめた」のならぜひビデオかDVDを借りて全編をご覧になって下さい。必要な伏線として置いた細かい部分がTV放映ではカットされている可能性があります。 昨今『突入せよ!あさま山荘事件』『光の雨』『身も心も』とふりかえる映画が作られました。学生闘争の残り滓に少し関わった私にとっても避けられないテーマです。が、ここまでにしましょう。長々ごめんなさい。
- Nightbreaker
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↓凄い読みづらい分になっちゃいました、ごめんなさい。 私は78年のリバイバルで見ました。 あの歌が流れてくるたびに私は「どうしようもないんだよ」というショーケンの虚無的な心象風景の呟きを想像して心が冷えていくのを感じます。才能が有るにもかかわらず、自分の弱さに抗えない男の呟きの様に聞こえてしまいます・・・ この映画、「ブルークリスマス」と同時上映だったのですが、どちらも破滅へと傾斜しながらなすすべも無い男を主人公にしている点では同じだと思いませんか。 実は原作は読んでいません。映画を見た後、図書室にあった原作を手に取ったのですが、映画版と違いあまりにも通俗的なラストにがっかりし、本を閉じてしまいました。原作が書かれた当時、あるいは石川の主義ではあれが当たり前の収束だったのかもしれませんが。 後日、「青春の蹉跌」の公開当時の評価を幾つか読むチャンスがあり、「ロードショー」誌では「ザ・ヤクザ」(シドニー・ポラック)と並ぶ日本人には不可解な日本人とかボロカスに評され、地元タウン誌では原作のクダラなさを爽快にブチ壊す長谷川脚本と絶賛されていましたが、共通するのは、石川原作の道徳主義が全然時代にマッチしない、ってことでしょうか。あの主人公は連載当時でもかなり古臭い通俗的なタイプに感じました。もっとも映画の場合は、原作が発表された年から映画化まで、たった6年で世の中ががらりと変わってしまった所為もあるのでしょうけど。 原作が発表された、学生運動がヤバくなり始めた68年と、全共闘が絞りかすになってきた74年では、70年安保を挟んで急激且つ過激な、劇的な盛り上がりと終息を一気に迎えてしまったので、小説と映画の意味、価値観に違いが出てきたのも無理は無い話しだと思います。 全共闘の革命&共同体幻影がぶっ潰れオイルショック真っ只中で日本人の高度成長志向に影が差したあのあたりでは石川達三の描いた江藤(ショーケン)よりしらけ世代の橋渡しみたいな長谷川和彦の脚本のディスペレートな感覚のほうが、原作よりも時代にマッチしていたのでは、と思います。 まあ、ここまで原作をなぞりながら主人公を大胆に変えちゃった長谷川脚本に石川氏が怒るのも無理ないわな、後にこの長谷川オリジナルが同じディスペレート感覚の主人公で開花する「太陽を盗んだ男」(長谷川、レナード・シュレイダー共同脚本 )になるのね。 あの映画の暴力感覚の凄さ(暴力シーンじゃないよ)!「100円でええねん」や、闇から過激派が現れる怖いシーンなども語りつくせない! ラスト、ショーケンを逮捕しに来る刑事が故・下川辰平氏というのも凄い楽屋オチ! それにしてもあのラストは凄いね。
お礼
ご意見いただきありがとうございました。 >原作が発表された年から映画化まで、たった6年で世の中ががらりと >変わってしまった所為もあるのでしょうけど。 数年間の間に情勢も変化し、学生運動も下火になったりと、 若者にとっても激動の時代だったのですね。 あの時代のことはもう経験者の方のお話や本などでしか知ることはできないのですが、 そんな私でも楽しめた映画でありました 今の時代ではもう作れない映画ですからね それはそうと「反逆児のカリスマ」と検事さん?に言われた萩原健一もついに 「萩原健一容疑者」となってしまいましたね・・・(笑) 私が見たあの映画の役も、もともとは彼の素だったのでしょうか・・・
- RINGO-TAMA
- ベストアンサー率23% (128/556)
「青春の蹉跌」はリアルタイムで見ました。石川達三の原作もたぶん同時期に読みました。ほとんどの映画は原作より劣ると言っていいと思いますが、この映画を見たとき、原作の雰囲気をみごとに出している映画だと思いました。 「えんやーとっと」の歌は、表面には出さない暗い心を自分自身でちゃかしている、と私は見ました。結局、破滅に終わったわけですが、その結末を潜在的に解っていたというふうにも思いました。 同時期に見た映画、ATG系の映画はそういうニューシネマ的な要素が大きかったと思います。エンターテイメントとは別の、深く人生を味わうための映画、とでもいうか、、、。 私の文章力ではうまく表せませんが、その頃、そういう映画ばかり見てるような人が集まる場所(ゴールデン街の飲屋とか)では、そういう議論で盛り上がってましたね。 もし暇があったら、原作を読んで見て下さい。。。
お礼
えんやーとっと、についてのご意見をありがとうございました。 「青春の蹉跌」ラストは少しがっかりだったのですがなかなか見ごたえがありました ホコ天で 100円でええねん…と見知らぬ人にしがみつく女性にも笑ってしまいましたが… 桃井かおるの独特なセリフの言い回しや存在感もよかったです ゴールデン街の飲屋などで映画のそういう議論で盛り上がっていたというお話、 昭和の古きよき時代ですよね。 携帯やネットが発達した今の若者達にはもうほとんどないことだと思います でもこうして見知らぬ方と映画についていろんなお話ができるのもネットの魅力ですね!
お礼
しばらくこの質問のことを忘れてしまっていて、お礼が遅れ申し訳ありません このたびは2度にわたりご意見いただきましてありがとうございました う~ん・・若輩者のわたしにはむずかしいお話もあり、完全には理解できない 部分もありました。 こんなわたしですから・・・あの映画の時代背景というか、 魅力なども完全には味わいきれていないと我ながら感じております あと萩原健一容疑者についてですが、 「いまはあんなだけど、ショーケンって昔はほんっとにカッコよかったんだよ!」 という声はよく聞くんですよね実は。だけど自分には・・・ 正直ショーケンのカッコよさみたいなものもあまり感じなかったですね ただ、あの時代の「雰囲気」みたいなものはうっすらとあの作品から感じ取れたと 思っていますし、自分にはあらゆる場面が新鮮に感じられる映画でした ショーケンよりもむしろ脇役の桃井かおりの演技が光ってみえましたね~ >「楽しめた」のならぜひビデオかDVDを借りて全編をご覧になって下さい。 >必要な伏線として置いた細かい部分がTV放映ではカットされている可能性があります。 もう~ラストはがっかりだったし、テレビのあの放送でもうお腹いっぱいって感じですので(笑) いろんな意味で今まで見た邦画の中ではインパクトがありましたが(笑)