bonbonnier の回答履歴
- 仏教の「空」の思想を簡単に端的に教えてください
いまひとつ理解できません。 バカな俺にでもわかるように例をもって説明していただければありがたいです。
- 大乗の思想の最古の文言は?
中村 元訳「維摩経」 深く道を求める心は、すなわちぼさつの浄土である。ぼさつが仏と成ったときに、徳を具えている衆生がやって来てその国に生まれるであろう。 1 この文言の意味を正しくは理解できませんが、ここにはどうやら大乗仏教の発想がはっきり表れている気がします。この感覚は的外れですか。 2大乗の教えに直結する最古の文言を探すとします。どんな経典に初登場していますか。維摩経でなく般若経内を探す方がよさそうですが、般若経といっても山ほどあるのではないですか。大乗の思想が端的に表れた最古の文言は何という経典にありそうですか。 よろしくお願いします。
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- sono-higurashi
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- ゴータマ・ブッタと現代人(私)の死後観の違いは?
中村 元訳「ブッダのことば」 1 蛇の毒が(身体のすみずみに)ひろがるのを薬で制するように、怒りが起こったのを制する修行者(比丘)は、この世とかの世とをともに捨て去る。――蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。 152 諸々の邪まな見解にとらわれず、戒を保ち、見るはたらきを具えて、諸々の欲望に関する貪りを除いた人は、決して再び母胎に宿ることがないであろう。 163 七岳という神霊は答えた、「かれは明知を具えている。またかれの行いは清らかである。かれのすべての煩悩の汚れは消滅している。かれはもはや再び世に生まれるということがない。」 さて、質問です。 「決して再び母胎に宿ることがない」も「もはや再び世に生まれるという事がない」も字句通りに読んで、これが解脱の効果の一つなのだと思います。釈迦の時代には、こうした考えをもてることも公言できることも並大抵の事でなかったのかも知れません。 一方、今日では修行者であろうとなかろうと、欲望に関する貪りを除いてあろうとなかろうと、煩悩の汚れが消滅していようといまいと、大半の人がこんなことは口外しないほど当たり前になっているのだと想像します。極楽、地獄、餓鬼、畜生、何処に再生するとも期待も恐怖も抱いてない人が多いでしょう。少なくとも私はそうです。死後観だけに限定すると私のそれもブッタのそれも同じに見えてしまいます。が、そんな筈はあるまいとも思い直します。死後観に限定するとき両者のそれは、どう違うのでしょうか。学者や僧侶でなくてもよいのですがブッダの思想に通じている方の説教をお訊きしておきたいです。 よろしくお願いします。
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- ゴータマ・ブッタと現代人(私)の死後観の違いは?
中村 元訳「ブッダのことば」 1 蛇の毒が(身体のすみずみに)ひろがるのを薬で制するように、怒りが起こったのを制する修行者(比丘)は、この世とかの世とをともに捨て去る。――蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。 152 諸々の邪まな見解にとらわれず、戒を保ち、見るはたらきを具えて、諸々の欲望に関する貪りを除いた人は、決して再び母胎に宿ることがないであろう。 163 七岳という神霊は答えた、「かれは明知を具えている。またかれの行いは清らかである。かれのすべての煩悩の汚れは消滅している。かれはもはや再び世に生まれるということがない。」 さて、質問です。 「決して再び母胎に宿ることがない」も「もはや再び世に生まれるという事がない」も字句通りに読んで、これが解脱の効果の一つなのだと思います。釈迦の時代には、こうした考えをもてることも公言できることも並大抵の事でなかったのかも知れません。 一方、今日では修行者であろうとなかろうと、欲望に関する貪りを除いてあろうとなかろうと、煩悩の汚れが消滅していようといまいと、大半の人がこんなことは口外しないほど当たり前になっているのだと想像します。極楽、地獄、餓鬼、畜生、何処に再生するとも期待も恐怖も抱いてない人が多いでしょう。少なくとも私はそうです。死後観だけに限定すると私のそれもブッタのそれも同じに見えてしまいます。が、そんな筈はあるまいとも思い直します。死後観に限定するとき両者のそれは、どう違うのでしょうか。学者や僧侶でなくてもよいのですがブッダの思想に通じている方の説教をお訊きしておきたいです。 よろしくお願いします。
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中村 元訳「ブッダのことば」 1 蛇の毒が(身体のすみずみに)ひろがるのを薬で制するように、怒りが起こったのを制する修行者(比丘)は、この世とかの世とをともに捨て去る。――蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。 152 諸々の邪まな見解にとらわれず、戒を保ち、見るはたらきを具えて、諸々の欲望に関する貪りを除いた人は、決して再び母胎に宿ることがないであろう。 163 七岳という神霊は答えた、「かれは明知を具えている。またかれの行いは清らかである。かれのすべての煩悩の汚れは消滅している。かれはもはや再び世に生まれるということがない。」 さて、質問です。 「決して再び母胎に宿ることがない」も「もはや再び世に生まれるという事がない」も字句通りに読んで、これが解脱の効果の一つなのだと思います。釈迦の時代には、こうした考えをもてることも公言できることも並大抵の事でなかったのかも知れません。 一方、今日では修行者であろうとなかろうと、欲望に関する貪りを除いてあろうとなかろうと、煩悩の汚れが消滅していようといまいと、大半の人がこんなことは口外しないほど当たり前になっているのだと想像します。極楽、地獄、餓鬼、畜生、何処に再生するとも期待も恐怖も抱いてない人が多いでしょう。少なくとも私はそうです。死後観だけに限定すると私のそれもブッタのそれも同じに見えてしまいます。が、そんな筈はあるまいとも思い直します。死後観に限定するとき両者のそれは、どう違うのでしょうか。学者や僧侶でなくてもよいのですがブッダの思想に通じている方の説教をお訊きしておきたいです。 よろしくお願いします。
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- お釈迦様の時代の釈迦族には文字は
お釈迦様の時代の釈迦族には文字は有ったのですか?なかったと認識していますが。 入滅後、100年、200年後位にお経は書かれたと・・・。 よろしくお願いします。
- 《我れ》はある?ない? どちらですか(仏教)
仏教についてです。 はじめ釈迦は 世間に対する無常観として無我( anaatman )を説いたが この無我説を知り実践する主体として 涅槃を現わす如来我(仏性)を説くことになると聞きました。 →無我=http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%88%91 (1)梵我一如を ヒンドゥーイスムから けっきょく 継承したということですか。あるいは ブラフマン(梵)ともアートマンとしての我とも 仏教は違うというべきなのでしょうか。それでも 宇宙との合一といったことは説くということでしょうか。 (2)涅槃としての如来我は 自己到来・自己還帰(わたしがわたしである)や自己実現(わたしがわたしする)といった言葉で表現すると 間違いですか。 (3)梵我一如を〔仮りにですが〕含めて 仏性の顕現としてのブッダの智慧は わたしが 人間の能力によって 実現するのですか。わたし以外の力と働きが必要不可欠ですか。両方が必要だとしても 両方は互いに 対等な力ですか。 中で(3)は これまでにも問うてきましたが あらためて おしえを乞うものです。 もし答えられないとなれば 残念ながら 仏教について 人は 何にも分かっていないと受け取らざるを得ません。そもそも 仏教じたいが あいまいな内容であるのかというそのあたりまで 議論は進むと思います。 このような出で立ちですが よろしくお願い致します。
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- 《我れ》はある?ない? どちらですか(仏教)
仏教についてです。 はじめ釈迦は 世間に対する無常観として無我( anaatman )を説いたが この無我説を知り実践する主体として 涅槃を現わす如来我(仏性)を説くことになると聞きました。 →無我=http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%88%91 (1)梵我一如を ヒンドゥーイスムから けっきょく 継承したということですか。あるいは ブラフマン(梵)ともアートマンとしての我とも 仏教は違うというべきなのでしょうか。それでも 宇宙との合一といったことは説くということでしょうか。 (2)涅槃としての如来我は 自己到来・自己還帰(わたしがわたしである)や自己実現(わたしがわたしする)といった言葉で表現すると 間違いですか。 (3)梵我一如を〔仮りにですが〕含めて 仏性の顕現としてのブッダの智慧は わたしが 人間の能力によって 実現するのですか。わたし以外の力と働きが必要不可欠ですか。両方が必要だとしても 両方は互いに 対等な力ですか。 中で(3)は これまでにも問うてきましたが あらためて おしえを乞うものです。 もし答えられないとなれば 残念ながら 仏教について 人は 何にも分かっていないと受け取らざるを得ません。そもそも 仏教じたいが あいまいな内容であるのかというそのあたりまで 議論は進むと思います。 このような出で立ちですが よろしくお願い致します。
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- 《我れ》はある?ない? どちらですか(仏教)
仏教についてです。 はじめ釈迦は 世間に対する無常観として無我( anaatman )を説いたが この無我説を知り実践する主体として 涅槃を現わす如来我(仏性)を説くことになると聞きました。 →無我=http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%88%91 (1)梵我一如を ヒンドゥーイスムから けっきょく 継承したということですか。あるいは ブラフマン(梵)ともアートマンとしての我とも 仏教は違うというべきなのでしょうか。それでも 宇宙との合一といったことは説くということでしょうか。 (2)涅槃としての如来我は 自己到来・自己還帰(わたしがわたしである)や自己実現(わたしがわたしする)といった言葉で表現すると 間違いですか。 (3)梵我一如を〔仮りにですが〕含めて 仏性の顕現としてのブッダの智慧は わたしが 人間の能力によって 実現するのですか。わたし以外の力と働きが必要不可欠ですか。両方が必要だとしても 両方は互いに 対等な力ですか。 中で(3)は これまでにも問うてきましたが あらためて おしえを乞うものです。 もし答えられないとなれば 残念ながら 仏教について 人は 何にも分かっていないと受け取らざるを得ません。そもそも 仏教じたいが あいまいな内容であるのかというそのあたりまで 議論は進むと思います。 このような出で立ちですが よろしくお願い致します。
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- 《我れ》はある?ない? どちらですか(仏教)
仏教についてです。 はじめ釈迦は 世間に対する無常観として無我( anaatman )を説いたが この無我説を知り実践する主体として 涅槃を現わす如来我(仏性)を説くことになると聞きました。 →無我=http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%88%91 (1)梵我一如を ヒンドゥーイスムから けっきょく 継承したということですか。あるいは ブラフマン(梵)ともアートマンとしての我とも 仏教は違うというべきなのでしょうか。それでも 宇宙との合一といったことは説くということでしょうか。 (2)涅槃としての如来我は 自己到来・自己還帰(わたしがわたしである)や自己実現(わたしがわたしする)といった言葉で表現すると 間違いですか。 (3)梵我一如を〔仮りにですが〕含めて 仏性の顕現としてのブッダの智慧は わたしが 人間の能力によって 実現するのですか。わたし以外の力と働きが必要不可欠ですか。両方が必要だとしても 両方は互いに 対等な力ですか。 中で(3)は これまでにも問うてきましたが あらためて おしえを乞うものです。 もし答えられないとなれば 残念ながら 仏教について 人は 何にも分かっていないと受け取らざるを得ません。そもそも 仏教じたいが あいまいな内容であるのかというそのあたりまで 議論は進むと思います。 このような出で立ちですが よろしくお願い致します。
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仏教についてです。 はじめ釈迦は 世間に対する無常観として無我( anaatman )を説いたが この無我説を知り実践する主体として 涅槃を現わす如来我(仏性)を説くことになると聞きました。 →無我=http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%88%91 (1)梵我一如を ヒンドゥーイスムから けっきょく 継承したということですか。あるいは ブラフマン(梵)ともアートマンとしての我とも 仏教は違うというべきなのでしょうか。それでも 宇宙との合一といったことは説くということでしょうか。 (2)涅槃としての如来我は 自己到来・自己還帰(わたしがわたしである)や自己実現(わたしがわたしする)といった言葉で表現すると 間違いですか。 (3)梵我一如を〔仮りにですが〕含めて 仏性の顕現としてのブッダの智慧は わたしが 人間の能力によって 実現するのですか。わたし以外の力と働きが必要不可欠ですか。両方が必要だとしても 両方は互いに 対等な力ですか。 中で(3)は これまでにも問うてきましたが あらためて おしえを乞うものです。 もし答えられないとなれば 残念ながら 仏教について 人は 何にも分かっていないと受け取らざるを得ません。そもそも 仏教じたいが あいまいな内容であるのかというそのあたりまで 議論は進むと思います。 このような出で立ちですが よろしくお願い致します。
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- 般若心経は間違った経典
日本テーラワーダ仏教協会のスマナサーラ長老の著書に「般若心経は間違い」があります。特に「空即是色」この言葉の扱いについての指摘が印象に残りますが、般若心経肯定派は、この意見に対してどういう反論がありますか? 色即是空、これは上座部仏教でも言われることで経典にも根拠を求められるそうですが、空即是色、これが事実無根の創作だろうということです。 いろいろな角度からのご意見お待ちしてます。 返事は遅れると思いますが、どうぞ宜しく。
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- siritaitai
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- お釈迦様の解脱について
生物は輪廻転生を繰り返すが、お釈迦様は悟りをひらくことで、その輪廻の輪から解脱したのだというよなことが、ものの本に書かれていますが、一方で、お釈迦様は呪術や神秘的なものごとを一切禁じ、形而上的な質問には答えなかったとも言われます。 お釈迦様自身が輪廻転生を肯定したり、自身がそこから解脱したことについて語った記録はあるのでしょうか?それとも弟子や後世の創作なのでしょうか?
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