sakurazz の回答履歴
- われわれはなんで元気がないのか?
元気が出ないですか? 出せないですか? なぜですか? 気力が萎えるいちばんの原因は おそらく不条理に遭ったという経験からではないか? ほかによりよき可能性があったんだがと悔やみ得た体験ならば 一たんあきらめがつく。失敗は成功の基ゆえ。 可能性があり得るのにこれが 閉ざされていることに対しては 憤りと失望とを通り越しても こころに落ち着かない部分をかかえてしまう。 おそらく――考えるに―― 権限を持つ上司に対しては 仲間どうしの協調のためにも 多少の不合理なことに対してならこちらが折れてもよい。ガミガミ電波にも耐えて行ける。 そうすると 無謬性の神話を まだ掲げるのは アマテラス公務員か? この神話の前には いかにこちらが納得の行く話をしても あちらがダメと言えば 可能性は閉ざされる。 でもこの壁も溶融し始めたであろうか? ならば われわれの気力を萎えさせる絶望的な垂直壁は なんだろう? 神聖にして侵すべからざるアマテラシテ天皇か? いま現代において そうか? 政府がすでにスサノヲ市民政府となっている現代社会において まさか? 仮りに国民投票をすれば その制度に賛成一色であろう。世襲という制度に民主制に反する要素があるように思うが これも その一代ごとに投票すればよいことになる。 ひょっとして フクシマにかんする陰謀説というその問題か? ヒロシマ・ナガサキ問題が まだ尾を引いていたのかという問題なのか? 《オリエンタリズム》の問題? つまり欧米か? 《犯人》は。実質的に言ってわれわれは植民地化されているのか? なら まづはその間違いを指摘してやりつづければよい。 あるいは北朝鮮? 中国? ・・・ われわれはなんで元気がないのか? どこで間違えたのか?
- われわれはなんで元気がないのか?
元気が出ないですか? 出せないですか? なぜですか? 気力が萎えるいちばんの原因は おそらく不条理に遭ったという経験からではないか? ほかによりよき可能性があったんだがと悔やみ得た体験ならば 一たんあきらめがつく。失敗は成功の基ゆえ。 可能性があり得るのにこれが 閉ざされていることに対しては 憤りと失望とを通り越しても こころに落ち着かない部分をかかえてしまう。 おそらく――考えるに―― 権限を持つ上司に対しては 仲間どうしの協調のためにも 多少の不合理なことに対してならこちらが折れてもよい。ガミガミ電波にも耐えて行ける。 そうすると 無謬性の神話を まだ掲げるのは アマテラス公務員か? この神話の前には いかにこちらが納得の行く話をしても あちらがダメと言えば 可能性は閉ざされる。 でもこの壁も溶融し始めたであろうか? ならば われわれの気力を萎えさせる絶望的な垂直壁は なんだろう? 神聖にして侵すべからざるアマテラシテ天皇か? いま現代において そうか? 政府がすでにスサノヲ市民政府となっている現代社会において まさか? 仮りに国民投票をすれば その制度に賛成一色であろう。世襲という制度に民主制に反する要素があるように思うが これも その一代ごとに投票すればよいことになる。 ひょっとして フクシマにかんする陰謀説というその問題か? ヒロシマ・ナガサキ問題が まだ尾を引いていたのかという問題なのか? 《オリエンタリズム》の問題? つまり欧米か? 《犯人》は。実質的に言ってわれわれは植民地化されているのか? なら まづはその間違いを指摘してやりつづければよい。 あるいは北朝鮮? 中国? ・・・ われわれはなんで元気がないのか? どこで間違えたのか?
- 《自我・超自我・無意識》の理論は まやかしである。
(1) すでに 《無意識》という領域については 批判が終わってもいるようです。 ▲ (ヰキぺ:無意識) ~~~~~ § 広義の無意識と潜在意識 フロイトやユングの理論における「無意識」は、彼らが理論的に想定した構造の存在は、結果的に実証されないものであることが判明したが、 20世紀前半に生まれた、このような「無意識の概念」は、文化的に大きな影響を与えたことも事実であり、思想や芸術において、現在もなお影響を有している。 ~~~~~~~~~~~~~~~ (2) とにもかくにもこの単に意識していないというのではなくわざわざ《無意識》という領域を設定した場合の概念というのは ひじょうに厄介な分析道具だと考えられます。つまり 要らないはずです。 意識できない・意識していない・意識したくないといったかたちで《意識の外にある》ことがら これは 意識に現われたとき認識すればよい。ただこういう問題だと考えます。すべて記憶の倉庫にしまってあると見ればよいわけです。 なぜなら 意識の先を越して――ということは 意志による判断を省みずに――行動に移ったという場合 それはそれでも事後的に《わたし》の意志行為であると見なせばよいわけです。 これをわざわざ無意識のしわざであると言うものですから ややこしくなる。思ってもいないことをやらかしたとか 人を突き動かすものには意識の底の自分にも分からない力があるのだとか 人間の行為ないし現象をわざわざややこしくしているはずなのです。どれだけ怪しく妖しい力が突き動かしたにしても それらはすべて人間の・そしてわたしの《自然本性もしくはそれのへそ曲がり》から来ています。 すべての思惟や行動は――無意識からであろうがどうであろうが―― わたしが引き受けることがらです。意志行為は中軸ですが 《わたし》がむろん全体なのですから 無意識であったゆえにみづからの意志が関与していなかったとしても それはわたしの行為である。このことは はっきりとしています。満員電車でほかから押されて起こした動きも 故意でなくても 《わたし》の行為として引き受け これにそれとして責任を持ちます。 すなわちパーツを取り出し――それも要らないパーツであるのに―― 思いや行ないについてそのパーツの所為にする。ここに間違いがあると考えられます。 (3) わたしの中に自我・超自我・エス(《それ・あれ》・無意識)をわざわざ取り上げ取り出したときから わたしの分裂が始まったのではないか? 二重人格などありえません。ですが 自我なら自我が全体としての《わたし》から単独分立したときから もうひとりのわたしという観念が生まれその横行が始まったのでは? 超自我さえ単独で あたかもわたしの代わりになるかのような扱いを受けてしまいました。 無意識を研究するのは なぜかカッコよいとさえ見られるという一面も生みだされました。 (4) 《超自我性》も《無意識のものが意識されるようになったエス性》も 全体としての《わたし》の思惟や行動にとっての材料や選択肢となることがらであると言うべきです。ということは 何がエスで何が抑制因かという区分は――選択肢の内容をそのときの判断において把握していればよいわけですから―― 要らないと見られます。 欲動かそれを抑制するかという観点のみではなく そのほかの自分の中の要因やあるいはその場の相手や果ては情況一般といった観点をも含めてとうぜんのごとく総合的に判断するのであり それをおこなうのは 《わたし》です。 (5) いま・ここにあってわたしと自称しているわたしが存在しているというのみではないか? わたしという人格 あるいは 人格としてのわたし。 自我という人格あるいは人格としての自我とは言わないでしょう。しかも原語は 《 das Ich ( the 'I ' ) 》であり自称に用いる《わたし》のことです。《これこれが わたしの意見です》というところを 《・・・わたしの自我の意見です》とは言いません。言えません。 (6) なぜ《わたし》を分けてしまい 引き裂いてしまうのか。その精神分析のどこが 学問でありましょう。勝手にみづから病いの殿堂を建てているようなものではありませんか? 《自我》とは 《わたし》のパーツである。しかもそうだとすれば 要らない。 《エス・無意識》も ただ《逸る気持ち》とでも言えばよいであろうし 《超自我》は《内に省みる心》とでも言えばよいはずなのでは?
- 《自我・超自我・無意識》の理論は まやかしである。
(1) すでに 《無意識》という領域については 批判が終わってもいるようです。 ▲ (ヰキぺ:無意識) ~~~~~ § 広義の無意識と潜在意識 フロイトやユングの理論における「無意識」は、彼らが理論的に想定した構造の存在は、結果的に実証されないものであることが判明したが、 20世紀前半に生まれた、このような「無意識の概念」は、文化的に大きな影響を与えたことも事実であり、思想や芸術において、現在もなお影響を有している。 ~~~~~~~~~~~~~~~ (2) とにもかくにもこの単に意識していないというのではなくわざわざ《無意識》という領域を設定した場合の概念というのは ひじょうに厄介な分析道具だと考えられます。つまり 要らないはずです。 意識できない・意識していない・意識したくないといったかたちで《意識の外にある》ことがら これは 意識に現われたとき認識すればよい。ただこういう問題だと考えます。すべて記憶の倉庫にしまってあると見ればよいわけです。 なぜなら 意識の先を越して――ということは 意志による判断を省みずに――行動に移ったという場合 それはそれでも事後的に《わたし》の意志行為であると見なせばよいわけです。 これをわざわざ無意識のしわざであると言うものですから ややこしくなる。思ってもいないことをやらかしたとか 人を突き動かすものには意識の底の自分にも分からない力があるのだとか 人間の行為ないし現象をわざわざややこしくしているはずなのです。どれだけ怪しく妖しい力が突き動かしたにしても それらはすべて人間の・そしてわたしの《自然本性もしくはそれのへそ曲がり》から来ています。 すべての思惟や行動は――無意識からであろうがどうであろうが―― わたしが引き受けることがらです。意志行為は中軸ですが 《わたし》がむろん全体なのですから 無意識であったゆえにみづからの意志が関与していなかったとしても それはわたしの行為である。このことは はっきりとしています。満員電車でほかから押されて起こした動きも 故意でなくても 《わたし》の行為として引き受け これにそれとして責任を持ちます。 すなわちパーツを取り出し――それも要らないパーツであるのに―― 思いや行ないについてそのパーツの所為にする。ここに間違いがあると考えられます。 (3) わたしの中に自我・超自我・エス(《それ・あれ》・無意識)をわざわざ取り上げ取り出したときから わたしの分裂が始まったのではないか? 二重人格などありえません。ですが 自我なら自我が全体としての《わたし》から単独分立したときから もうひとりのわたしという観念が生まれその横行が始まったのでは? 超自我さえ単独で あたかもわたしの代わりになるかのような扱いを受けてしまいました。 無意識を研究するのは なぜかカッコよいとさえ見られるという一面も生みだされました。 (4) 《超自我性》も《無意識のものが意識されるようになったエス性》も 全体としての《わたし》の思惟や行動にとっての材料や選択肢となることがらであると言うべきです。ということは 何がエスで何が抑制因かという区分は――選択肢の内容をそのときの判断において把握していればよいわけですから―― 要らないと見られます。 欲動かそれを抑制するかという観点のみではなく そのほかの自分の中の要因やあるいはその場の相手や果ては情況一般といった観点をも含めてとうぜんのごとく総合的に判断するのであり それをおこなうのは 《わたし》です。 (5) いま・ここにあってわたしと自称しているわたしが存在しているというのみではないか? わたしという人格 あるいは 人格としてのわたし。 自我という人格あるいは人格としての自我とは言わないでしょう。しかも原語は 《 das Ich ( the 'I ' ) 》であり自称に用いる《わたし》のことです。《これこれが わたしの意見です》というところを 《・・・わたしの自我の意見です》とは言いません。言えません。 (6) なぜ《わたし》を分けてしまい 引き裂いてしまうのか。その精神分析のどこが 学問でありましょう。勝手にみづから病いの殿堂を建てているようなものではありませんか? 《自我》とは 《わたし》のパーツである。しかもそうだとすれば 要らない。 《エス・無意識》も ただ《逸る気持ち》とでも言えばよいであろうし 《超自我》は《内に省みる心》とでも言えばよいはずなのでは?
- 動物愛護原理主義についての文献
こんにちは、私は現在卒業論文制作中の大学生です。 オーストラリアの動物愛護運動についての論文を書いているのですが それにちなんで質問があります。 捕鯨反対運動などで見られる動物愛護運動には、動物愛護を絶対とし、 それに合わない価値観や要素を排除、否定する原理主義的な性質があると 私は考えています。 これを論証している本や論文を知っている方が居れば、教えて頂きたいです。 宜しくお願い致します。
- 締切済み
- 哲学・倫理・宗教学
- shinta1204
- 回答数1
- 自らに背くことのみをあやまちと言う。
自らに背くことのみをあやまちと言う。 そして真実とは多様である。 仰々しく真理なんてモンを欲しがるだけの無い物ねだりをぶっ飛ばして考えを改める事が出来るかどうか実験です。 私は姪っ子の子育てに巻き込まれていまして、今日、小学二年生の宿題の手伝いをしました。 国語の読解力のテストで、問いに対する普遍的な模範解答を思いつきました。 問い1(いかなる問いであっても) 答え、俺は大人だ馬鹿にすんな。 問い2(いかなる問いであっても) 答え、うるせーぞコラ。 問い3(いかなる問いであっても) 答え、いーかげんにしろ。 問い4(いかなる問いであっても) しつこいぞ、俺は大人だってば。 小学2年生への問いに対して、この調子で悪態をついていれば大人の回答として、正直であり百点満点です。 子供にこのような回答を提出させたら0点扱いだけでなくお説教を喰らいます。 世の中は画一的ですから、実際には大人が2年生の問題にこのような悪態をついても、やはり0点でしょう。 しかし自らを偽らない限り、私はそんな0点を取るしかありません。 喜んで0点を頂戴します。 このような0点は善い0点だとお考えですか、悪い0点だとお考えですか。
- 哲学カテは 雑談のカテになっていますか?
なっていませんか? なっていても いいということでしょうか? どうでしょう? 雑談というのは ここで 現状維持というような意味に取ってください。 揚げ足取りや もっとわるく足の引っ張り合いになっている場合も見られるとわたしは考えますが それは論外として 《雑談》状態について問います。
- ベストアンサー
- このQ&Aコミュニティーについて
- 日比野 暉彦
- 回答数17
- 日本人は コギトではなく コギターレを思っている。
(1) 日本人は コギト( Cogito= Je pense.= I think. =我れが考える。)ではなく コギターレ( cogitare= penser= to think= 考える)を思っている。のではないか? (2) 考える行為そのものをあたまの中で思いつづけている。のではないか? 何をどう考えるのか これをおろそかにしてはいないか? (3) もちろん われが考える。すなわち自分が自分で考える。のである。ところが 誰かが考えたものを あたまの中に入れ込む このことが《われが考える》だと思っていないか? (4) まさか!? であろうか? このようにうたがわれる心的現象について くわしい方におしえを乞います。どうぞよろしく。
- 神を知る事こそ世界を知ることだ
やあ。 ぶっちゃけた話、私は無を悟っている。 そこで旧態依然とした仏教を科学の時代に合った検証でさらに先に進めようとする質問だと解釈してくれたまえ。 万物流転、すなわち世は無常であり生命は輪廻する。 無常は簡単だ。大体においてそうだと気づく事もあるだろう。 輪廻はこの言葉だけでは簡単だ。 生態系の循環や相互依存を意味する。 すなわち命は死すれども、その死すらも新たな生を育み絶える事が無い。 そんな世界のみが科学的発見の無い2500年前には世界の全てであった。 転生は、そんな世界の姿に信仰を寄せた古代人の愛だ。 輪廻転生と言う言葉でその全てを否定する前に、転生のみを抜き取って検証すると、どうも無理っぽいのは冷静なら誰もが理解できる。 お釈迦様は自らは転生しないと言った。 そんなのありゃしねーとは言わなかったがそんなのかんけーねーとは言ったのだ。 それこそが答えであり、転生は迷信であるが、その信仰心に感謝があれば神は見捨てまい。 したがって、信仰の確かが判る範囲でお釈迦様すらも、そんなのありゃしねーと言いきらなかった。 ただ無を悟れと謎めいた言葉を残しただけだ。 これらは地上で起こること、これを狭い意味の縁起と言うが、それこそが世界の全てであった古代において人が神に手向けた愛、すなわち信仰の姿であり、世界がより広く宇宙と言う難解な全体像に対して問いかける現代においては、すなわち世界を知ることは、自らが探究するだけでは及びもつかず、神と語らうよりほかは無い。その行いは古代からの経験則によれば、世界の全てを愛すれば世界が判る。 このように神を知ろうとする事が世界を知る事であった。 以上が今回のテーマです。 事と次第によっては猿回しもするが世界観と言うやつと信仰の関係についてご意見募集です。
- 神を知る事こそ世界を知ることだ
やあ。 ぶっちゃけた話、私は無を悟っている。 そこで旧態依然とした仏教を科学の時代に合った検証でさらに先に進めようとする質問だと解釈してくれたまえ。 万物流転、すなわち世は無常であり生命は輪廻する。 無常は簡単だ。大体においてそうだと気づく事もあるだろう。 輪廻はこの言葉だけでは簡単だ。 生態系の循環や相互依存を意味する。 すなわち命は死すれども、その死すらも新たな生を育み絶える事が無い。 そんな世界のみが科学的発見の無い2500年前には世界の全てであった。 転生は、そんな世界の姿に信仰を寄せた古代人の愛だ。 輪廻転生と言う言葉でその全てを否定する前に、転生のみを抜き取って検証すると、どうも無理っぽいのは冷静なら誰もが理解できる。 お釈迦様は自らは転生しないと言った。 そんなのありゃしねーとは言わなかったがそんなのかんけーねーとは言ったのだ。 それこそが答えであり、転生は迷信であるが、その信仰心に感謝があれば神は見捨てまい。 したがって、信仰の確かが判る範囲でお釈迦様すらも、そんなのありゃしねーと言いきらなかった。 ただ無を悟れと謎めいた言葉を残しただけだ。 これらは地上で起こること、これを狭い意味の縁起と言うが、それこそが世界の全てであった古代において人が神に手向けた愛、すなわち信仰の姿であり、世界がより広く宇宙と言う難解な全体像に対して問いかける現代においては、すなわち世界を知ることは、自らが探究するだけでは及びもつかず、神と語らうよりほかは無い。その行いは古代からの経験則によれば、世界の全てを愛すれば世界が判る。 このように神を知ろうとする事が世界を知る事であった。 以上が今回のテーマです。 事と次第によっては猿回しもするが世界観と言うやつと信仰の関係についてご意見募集です。
- なぜ神を勘違いしたままでいるのか?
A なぜ非経験なる神を 経験存在に求めるのか? A-1 なぜ人間である教祖を 神とするのか? B なぜ非思考なる神を 経験思考やその思考力としての精神に求めるのか? B-1 なぜ思考や想像の産物である教義を 神とするのか? B-2 なぜ《宗教を信じる》という表現を使いつづけるのか? B-3 なぜ自分の観念の内に 神を想い描くのか? C なぜ表象しえぬ神を 表象しようとするのか? C-1 なぜ教団が 神はこれこれだと決めるのか? D あるいは逆に 《観念の神》はその観念化をおこなった時点で死んでいる(つまり ただの思考の産物である)というのに わざわざ《神は死んだ》と言い この文句をなぜ人びとは繰り返すのか? D-1 それを顕揚するためにせよ批判するためにせよ 神を表象し得た(あるいは認識し得た)と言わんばかりに なぜ神を論じるのか? 特に批判する側に対して言えば 表象し得たのなら その神は人間がつくったものであるのだから わざわざ排除するまでもなく死んでいる。 E なぜ神は――非経験にして非思考であるというのに―― 人間が表象しつくったニセの神しかないと断定するのか? * ○ (神を哲学する) ~~~~~ §1 考えても 分かるか・分からないかが 分からないこと 世の中には およそ 二つの事柄がある。考えて分かること(Y)と考えても分からないこと(X)と。 Y=考えれば分かること。 (いまは分からなくとも いづれ経験合理性に基づく科学行 為によって分かるようになると考えられること)。 (科学が真実と判定したあと 真実ではなかったと判明する 場合にも その誤謬について 〔有限ながら〕合理的に説明 しうることがら。) X=考えても分からないこと。 (いやむしろ分かるか・分からないかが 分からないこと)。 (人間の知性を超えていて もはや経験合理性によっては そ のことの有無・可否・是非などを 判定しがたいことがら)。 (もしくはつまり むしろこのように想定してしまっておくこ とがら。 ) ひょっとすると 世の中は Yの経験領域のことがらだけであるかも知れない。X は 経験を超えた領域のことであって それが有るとも無いとも 決められないことがらである。 経験領域(Y)を規定するならば 《経験領域(Y)でない領域》は 規定済みとなる。もはや超経験領域(X)は その定義の中に――あるいは その外に――織り込まれているとも言える。だが それとして重ねて触れたほうが 説明のしやすい場合が多い。それゆえ 用語に加えたい。つまり あらためて 超経験の領域= X 超自然・非経験・絶対・無限・永遠・ 〔そしてこのような意味での〕神・ 〔人によっては次のごとく言う〕無・無神・空 人間の精神は X ではない。人間じたいも 経験存在 Y であり その精神も有限であり Y に属す。《精神は 永遠なり》というのは 想定上 《 Y は X である》と言っており――冗談でない限り―― 間違いである。(→§3) さらには 《無意識》はどうか。これも 経験領域 Y に属すのであって 非経験 X ではない。神でもなければ 絶対法則でもないだろう。 §2 《考える》と《信じる》 考えるのは そして考えたことを表現するのは そしてまた表現をとおして意思疎通をおこなうのは さらにそして大きくこの意思疎通の歴史を記録し伝えあっていくのは 人間である。特にこの人間を 経験領域 Y の中より取り出して その位置を捉えよう。 人間存在 = Z とすれば 経験領域 Y に対して人間 Z が取る態度としての関係が いまの議論では 《考える( Y-Z )》である。だとすれば 取りも直さず 非経験の領域 X に対するわれわれ Z の関係は 《考える》ではない。ありえない。考えてもよいが それが意味をなすかどうかは 分からない。 《考えても 分かるか・分からないかが 分からないもの(= X)》に対するわたし Zi の関係は 一般にも 《信じる( X-Zi )》と称される。 これは 《考える( Y-Z )ではない》という意味で 《信じない・もしくは無を信じる( nonX-Zi )》と名づけても 同じことである。そもそも X が 経験世界で言う有であるか無であるか 分からないゆえ X=nonX であり どう表現しようと 《わたし Zi 》の勝手なのである。(信教・良心の自由という公理)。 したがって わたし Zi は 信じる(つまり 信じないの場合も同じ)の対象(したがって すでに非対象)を 《空(欠如) 》 X-Za と言おうが 《阿弥陀仏(無量寿・無量光)》 X-Zb と言おうが 自由であろうし 《神》 X-Zcとも 《ヤハヱー》 X-Zd とも 《アッラーフ》 X-Ze 等々とも 言い得る。 逆に 気をつけるべきは 信仰において 信じる対象は わたし Zi がわたしの精神によって思考し想像して抱く神の像ではないということである。すなわち《神》といったことば・概念・想像は 《考える Y-Zi 》の問題である。 人間 Z が信じるのは 道徳規律でもなければ 倫理の信念でもなく 神という言葉じたいでもない。神という文字でもなければ 聖典なる書物じたいでもなく むろん k-a-m-i という発音でもない。X( X-Z )は Y( Y-Z )ではない。後者( Y-Z )には特に 精神とその産物を含むゆえ この想像物としての神( Y-Z )と 想定上の神( X-Z )とは峻別しなければならない。 §3 超自然 X が 経験世界 Y ないし人間 Z の 歴史( ΣY-Zn )に介在しうるか。 これに対する答えは むしろ簡単である。 絶対者 X を想定したときから すでにわたし Zi は その X による介入を受けて来ている。もしくは 介入などありえないという形(=無神論 nonXーZi )において 関係が想定されている。 介入という表現が 適当でないとすれば わたしとその世界( ΣY-Zi )は 思議すべからざる絶対者 X (= non‐X )に対して 開かれている。閉じられていないということが 重要である。考えても分からないことなのだから 締めたり閉じたりするわけには行かない。 しかも ややこしいことには わたし Zi たる人それぞれによって その介入のあり方( X-Y-Zi )は 決して一様でないことである。同一人のわたしにしても その人生のなかで さまざまに変化するかも知れない。(宗旨替えなどと言われることが起こる)。 議論を端折るかたちになるが 問題は いまの介在のあり方について その基本の形態を 一人ひとりが 明確に判断し 仮りに変化を受けたとしても・変化を経ながらも その《信仰》形態を自分のもとで つねに 確認し得ていることではないだろうか。 信じる( X-Y-Zi )か 信じない( nonX-Y-Zi ) か これが いま確認すべき基本の形態である。しかも この〔無信仰を含めての〕信仰の基本形態は変更しうるけれど その時々の現在において明確に保持していることが 重要ではないだろうか。 いま一歩進めるならば このおのおのの《信じる》の基本形態について 自身が最小限度 言葉で説明しうるということが 望ましい。その点を一度明らかにしておくならば そののちの話し合いにおいて 余計な誤解や不必要な対立を 防ぐことができるからである。互いにみづから交通整理しつつ 社会におけるコミュニケーションを円滑に進めることが望ましい。 信仰の基本形態からあとさらに具体的に展開されるという歴史(人生)の過程 つまり言いかえると たとえば神 Xi が人間の歴史( ΣY-Z )に このように・かのように介入したなどという過程 この問題は そもそも話し合い(《考える》)では 埒が開かないものである。 もっとも これを逆に言えば やはりたとえば そんな介入などには 一切 目もくれないのだという見解の提示(無神論)をも含めて わたし Zi の《神( X )体験》ないし神学ないしいわば《 神 X 史観》については 自由に話し合えばよいと言える。そして そのとき コミュニケーションが成り立つかどうかは はじめの大前提としての信仰の基本形態に合致しているかどうかによって判断されるものと思われる。 もし問題があるとすれば その大前提についてあらためて 想定の仕方や規定の内容を 議論しなおせばよい。 以上の定義だけの理論は 次が その心である。 吾人はすべからく互いの差異を 自由に批評し合い コミュニケーシ ョンを進めながら つねにその差異を認め合わざるべからず。 ~~~~~~~~~~~~
- 愛国心を煽るやり方は古臭い
<大阪維新の会>教育条例に「愛国心」明記 9月提案というニュース記事を読みましたが、 やり方が古臭いと思いました。 せっかく日本人は国、芸能人、有名人、大企業、・・・様々な権威から自由になろうとしているところなのにまたこの手法ですか?という感じがします。 維新と言いながらやり方は古臭いと言わざるを得ないと思います。 皆さんはどう思われるでしょうか。
- 締切済み
- 哲学・倫理・宗教学
- shift-2007
- 回答数31
- なぜ人は、発言や言葉遣いで人を判断するのか?
上から目線で何が悪いのか? 大臣と地方の県知事では、立場的にかなり差があるだろう。 それは当人たちも、周りの人間もわかっているはずだ。 そう、松本元大臣のことである。 今回の事件でみんないう「上から目線で偉そうだ!」 しかし、それの何が悪いのかが僕にはわからない。 大臣と地方の県知事の立場では、そんなことあたりまえだろう。 冷静に聞いてみると、彼は被災者を馬鹿にしているわけでもない。 知事にはっぱをかけているだけだろう。 それに今、発言がどうの、言葉遣いがどうの、などと言って いる場合なのか? 要は被災地の復興をどれだけ迅速に完璧にやれるか、ではないのか。 仕事をやらさずして、辞任に追い込むなど愚の骨頂。 確かに彼は、大臣、いや政治家としては、やや短絡的なのかもしれない。 しかしそういう口の悪い人間のほうが仕事はよくする。と僕は個人的 に思っている。 なぜ人は、発言や言葉遣いで人を判断するのだろうか? それは外見で判断しているのと同じではないのか? みなさんはどーおもいます?
- なぜ人は、発言や言葉遣いで人を判断するのか?
上から目線で何が悪いのか? 大臣と地方の県知事では、立場的にかなり差があるだろう。 それは当人たちも、周りの人間もわかっているはずだ。 そう、松本元大臣のことである。 今回の事件でみんないう「上から目線で偉そうだ!」 しかし、それの何が悪いのかが僕にはわからない。 大臣と地方の県知事の立場では、そんなことあたりまえだろう。 冷静に聞いてみると、彼は被災者を馬鹿にしているわけでもない。 知事にはっぱをかけているだけだろう。 それに今、発言がどうの、言葉遣いがどうの、などと言って いる場合なのか? 要は被災地の復興をどれだけ迅速に完璧にやれるか、ではないのか。 仕事をやらさずして、辞任に追い込むなど愚の骨頂。 確かに彼は、大臣、いや政治家としては、やや短絡的なのかもしれない。 しかしそういう口の悪い人間のほうが仕事はよくする。と僕は個人的 に思っている。 なぜ人は、発言や言葉遣いで人を判断するのだろうか? それは外見で判断しているのと同じではないのか? みなさんはどーおもいます?
- 親の責任はどれくらいか?
昔のヤクザ映画で、母親が素行の悪い我が子を鍛えなおして もらおうと、ある親分にお願いする場面がある。 「この子がこういう風になったのも、半分は私のせいだと 思っているから」・・・などと、いっていた。 じゃ残りの半分は、誰に責任があるのだろうか? その素行の悪いガキ本人に責任がある。といいたいのか? 責任転嫁もはなはだしい、100%親に責任があるのでは ないだろうか。 僕は40歳になろうと、50歳になろうと、その人の人間性と いうのは子供の頃に、親の教育によって形成されていると 思ってます。 よって、子供が未成年なら、なおさらですが、いくつになっても その人のした良い事も悪い事は、親のせいではないかと考えています。 みなさんはどーおもいますか?
- 風評被害と仏教の思想
農産物などの風評被害から、人としての生き方について考え始めています。 自分の健康の心配だけをしている人や自分さえ良ければ良い人は、福島近辺の農産物を避けていると思います。一方、自分よりも他人に生きる人は、農産物を買っていると思います。人は、どちらかのタイプに分かれているんじゃないかなと思います。 うちは東北地方のものは少ないのですが、よく注意してみてみると、東北地方で作られている食品や製品も流通しています。パンを買うにしても、地元で安くたくさん買えるパンは買わないで、少々高くても福島で作られているパンを1つ買おうかな、と思うようになりました。 最初の頃は、東北の食べ物なんて怖くて食べられない、と思っていましたが、仏教の思想から考えてみても、自分さえよければ良いという生き方は、人の道を外れているように思い始めています。 神様や仏様だったらなんと答えるでしょう?いろいろアドバイスいただけたらと思います。
- ベストアンサー
- 哲学・倫理・宗教学
- noname#134690
- 回答数9
- 仏教に関する基本的な質問です。 お願いします。
仏教に関する基本的な質問なのですが、宗教には全くド素人なので小学生に教えるような感じがお願いします。 1. 仏教は大乗、小乗と分かれたり、また密教とか禅宗とかありますよね? これらは一体何がどう違うのでしょうか? 2. 一部を除いて大体のお坊さんは頭を丸めていますよね? 多分、頭髪を切る事で俗世間とは縁を切るという意味が込められているのかなと思うのですが、この習慣(?)はいつ頃から始まったと考えられるのでしょうか? 写真で拝見したダライラマ14世は日本の僧と同じように頭を丸めていました。 でも、元祖のお釈迦様はどうだったのでしょうか? また頭を丸めない宗派があるはずですが、俗世間と縁を切るという考えは無いという事になるのでしょうか? 3.日本の仏教界だけでも色々な宗派に分かれているようですが、本来、お釈迦様が唱えた教え(原始仏教?)に最も近いのはどれでしょうか? 専門用語を使われると全くのチンプンカンプンになって質問した意味が無くなると思いますので、それこそ小学生にざっくりと教えてあげるような感じでお願いできれば有難いです。
- アルケーの神は偉大なり
宇宙の法則、万物の根源であるアルケーの神を除いて神は存在しない アルケーの神は唯一絶対である、 アルケーの神は全知全能である、 アルケーの神は永遠無限である、 アルケーの神は永遠不変である、 アルケーの神は永遠不滅である、 アルケーの神は偉大である これを否定できる者などおるまい。
- 締切済み
- 哲学・倫理・宗教学
- Hitonomiti
- 回答数55
- アルケーの神は偉大なり
宇宙の法則、万物の根源であるアルケーの神を除いて神は存在しない アルケーの神は唯一絶対である、 アルケーの神は全知全能である、 アルケーの神は永遠無限である、 アルケーの神は永遠不変である、 アルケーの神は永遠不滅である、 アルケーの神は偉大である これを否定できる者などおるまい。
- 締切済み
- 哲学・倫理・宗教学
- Hitonomiti
- 回答数55
- 1
- 2