nisekant の回答履歴

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  • 根本原理は言語で表現可能?

    素人なんですが、辞書によると哲学は、世界・人生の根本原理を追求する学問だということです。 もし、世界や人生の根本原理やその手掛りを発見した人がいたとして、それを記号体系である言語で正確に表現することは可能なのでしょうか? その根本原理が、未だ概念化されていない事象を含んでいたような場合、他人に正確に言語のみで伝達することは大変難しいことのように思えます。(勿論その人‘独自の’表現で言語化することは可能かもしれませんが…) 哲学が学問であるのなら、最先端のそれはどんどん高度化していると察せられますが、哲学的に高度化するということは、人間が概念や思想として理解できる範疇ギリギリの事象を取り扱っているという側面があるのではないでしょうか? そうであれば、そういう新しい概念や思想が世間で広く一般化することはあり得ないと思いますし、一般化が進まないとすれば、その理解は特定の少人数に限られ、その特定の少人数間にしても果たして本当に相互理解が成立しているのか検証不能ということにはならないのでしょうか? そういう理由で、学問としての哲学には限界があって、多くの人にとって、ある程度以上の根本原理の追求は、いかがわしくても宗教的実践等に頼らざるを得ない状況であると考えるのは間違いでしょうか?

  • 根本原理は言語で表現可能?

    素人なんですが、辞書によると哲学は、世界・人生の根本原理を追求する学問だということです。 もし、世界や人生の根本原理やその手掛りを発見した人がいたとして、それを記号体系である言語で正確に表現することは可能なのでしょうか? その根本原理が、未だ概念化されていない事象を含んでいたような場合、他人に正確に言語のみで伝達することは大変難しいことのように思えます。(勿論その人‘独自の’表現で言語化することは可能かもしれませんが…) 哲学が学問であるのなら、最先端のそれはどんどん高度化していると察せられますが、哲学的に高度化するということは、人間が概念や思想として理解できる範疇ギリギリの事象を取り扱っているという側面があるのではないでしょうか? そうであれば、そういう新しい概念や思想が世間で広く一般化することはあり得ないと思いますし、一般化が進まないとすれば、その理解は特定の少人数に限られ、その特定の少人数間にしても果たして本当に相互理解が成立しているのか検証不能ということにはならないのでしょうか? そういう理由で、学問としての哲学には限界があって、多くの人にとって、ある程度以上の根本原理の追求は、いかがわしくても宗教的実践等に頼らざるを得ない状況であると考えるのは間違いでしょうか?

  • 根本原理は言語で表現可能?

    素人なんですが、辞書によると哲学は、世界・人生の根本原理を追求する学問だということです。 もし、世界や人生の根本原理やその手掛りを発見した人がいたとして、それを記号体系である言語で正確に表現することは可能なのでしょうか? その根本原理が、未だ概念化されていない事象を含んでいたような場合、他人に正確に言語のみで伝達することは大変難しいことのように思えます。(勿論その人‘独自の’表現で言語化することは可能かもしれませんが…) 哲学が学問であるのなら、最先端のそれはどんどん高度化していると察せられますが、哲学的に高度化するということは、人間が概念や思想として理解できる範疇ギリギリの事象を取り扱っているという側面があるのではないでしょうか? そうであれば、そういう新しい概念や思想が世間で広く一般化することはあり得ないと思いますし、一般化が進まないとすれば、その理解は特定の少人数に限られ、その特定の少人数間にしても果たして本当に相互理解が成立しているのか検証不能ということにはならないのでしょうか? そういう理由で、学問としての哲学には限界があって、多くの人にとって、ある程度以上の根本原理の追求は、いかがわしくても宗教的実践等に頼らざるを得ない状況であると考えるのは間違いでしょうか?

  • 根本原理は言語で表現可能?

    素人なんですが、辞書によると哲学は、世界・人生の根本原理を追求する学問だということです。 もし、世界や人生の根本原理やその手掛りを発見した人がいたとして、それを記号体系である言語で正確に表現することは可能なのでしょうか? その根本原理が、未だ概念化されていない事象を含んでいたような場合、他人に正確に言語のみで伝達することは大変難しいことのように思えます。(勿論その人‘独自の’表現で言語化することは可能かもしれませんが…) 哲学が学問であるのなら、最先端のそれはどんどん高度化していると察せられますが、哲学的に高度化するということは、人間が概念や思想として理解できる範疇ギリギリの事象を取り扱っているという側面があるのではないでしょうか? そうであれば、そういう新しい概念や思想が世間で広く一般化することはあり得ないと思いますし、一般化が進まないとすれば、その理解は特定の少人数に限られ、その特定の少人数間にしても果たして本当に相互理解が成立しているのか検証不能ということにはならないのでしょうか? そういう理由で、学問としての哲学には限界があって、多くの人にとって、ある程度以上の根本原理の追求は、いかがわしくても宗教的実践等に頼らざるを得ない状況であると考えるのは間違いでしょうか?

  • 理由、原因をなぜ知りたがる?

    私たちはなぜ理由や原因を知りたがるのでしょうか。 科学者・・・この現象が起こるメカニズムが知りたい。 納税者・・・納得いく説明を求める。 サラリーマン・・・ミスをした原因、売り上げが上がらない原因を分析する。 被害者・・・なぜ私がこんな目に もちろん日常的に行われていることなので、心情的にはよく分かることです。理由がわかると納得して気持ちが楽になるのはよく分かるのですが、ではなぜ理由がわかると納得してしまうのでしょうか。私たちの探究心の九割九分は理由、原因を調べることに当てられているのではないでしょうか。どうしてそこまでと思う次第です。 我思うゆえに我ありの”我”はなぜこれほどまでに理由にこだわると思いますか。

  • 理由、原因をなぜ知りたがる?

    私たちはなぜ理由や原因を知りたがるのでしょうか。 科学者・・・この現象が起こるメカニズムが知りたい。 納税者・・・納得いく説明を求める。 サラリーマン・・・ミスをした原因、売り上げが上がらない原因を分析する。 被害者・・・なぜ私がこんな目に もちろん日常的に行われていることなので、心情的にはよく分かることです。理由がわかると納得して気持ちが楽になるのはよく分かるのですが、ではなぜ理由がわかると納得してしまうのでしょうか。私たちの探究心の九割九分は理由、原因を調べることに当てられているのではないでしょうか。どうしてそこまでと思う次第です。 我思うゆえに我ありの”我”はなぜこれほどまでに理由にこだわると思いますか。

  • 悪い思考を止めるには…因果応報に囚われる

    些細なことで例えますと、職場で挨拶をしても返してくれない人に対して、すれ違った後に…「地獄に落ちればいいのに」「どうせ、こんな人間はろくな人生歩まない」「帰り道で事故にでも遭えばいいのに」など、とても酷いことを考えてしまいます。 もちろん顔や、言葉には出しません…いえ、顔には出ているかもしれませんが。 最近、自己啓発関連のもので、悪い思考は自分に返ってくる…という内容のものを知ってしまい、とても苦しくなります。 かといって、良いほうへ良いほうへ考えようとしても苦しいです。 「悪い思考=人を許せないこと」はそんなに悪いことですか?

  • 悪い思考を止めるには…因果応報に囚われる

    些細なことで例えますと、職場で挨拶をしても返してくれない人に対して、すれ違った後に…「地獄に落ちればいいのに」「どうせ、こんな人間はろくな人生歩まない」「帰り道で事故にでも遭えばいいのに」など、とても酷いことを考えてしまいます。 もちろん顔や、言葉には出しません…いえ、顔には出ているかもしれませんが。 最近、自己啓発関連のもので、悪い思考は自分に返ってくる…という内容のものを知ってしまい、とても苦しくなります。 かといって、良いほうへ良いほうへ考えようとしても苦しいです。 「悪い思考=人を許せないこと」はそんなに悪いことですか?

  • なぜ役に立たない学問を学ぶのか?

    ある哲学科の学生が就職の面接で人事の人に言われたことです。 「君は哲学を学んでいるようだけどなぜ哲学なんかを学ぶの? そんな世の中の役に立たない学問を勉強するより、経済学や商学を勉 強するほうがよっぽど有益じゃないの?」 「哲学を勉強した人はライブドアの堀江みたいな人間になりそうな印象が強いから不安なんだよね。」 「社会にでたら哲学的な考えはまったく必要ないわけで、カントやデカルトにくわしい人より、簿記ができる人間がほしいわけなんだよ」 などなど延々と哲学批判されたらしいです。 圧迫面接できつめに言ったのかもしれませんが哲学を学んでいる人間を全否定しているわけですよね。どう言い返すのが賢いのでしょうか?  

    • noname#45990
    • 回答数13
  • 善と悪について

    例えば、アンパンマンを善、ばいきんまんを悪とした場合、この仮定は 本当に成り立つと思いますか?ばいきんまんは、自分の利益のために人に悪いことをしますが、アンパンマンは人を守って、ばいきんまんを退治してくれます。しかし、これには落とし穴があると思うのです。アンパンマンは、アンパンチすなわちパンチをすることでばいきんまんを吹き飛ばして退治してしまうのです。つまり、ばいきんまんはアンパンマンに暴力を振るわれるのです。この場合の暴力は善として見ていいのですか?また、少し前にイラク戦争がありましたが、この場合、戦争をしかけたブッシュが善、戦争されたフセインが悪としていいでしょうか? 大量破壊兵器は見つかりませんでしたが。アンパンマンでもブッシュさんでもいいので、悪と善の関係について教えていただければ幸いです。

  • 現代人の心の問題について

    現代社会はストレスが多く、心の問題が生じやすいといわれています。第二次世界大戦後、高度なテクノロジーの発達や、急激な都市化などに伴い、豊かにはなったけど心の面では問題を抱えるようになったと思います。そうした変化での、「心の成り立ち」について与えている影響についてまとめる課題なのですが、、、、 ほとんど感想文的になってしまいました。わかりやすい具体例などありましたら教えてください。 テーマは第二次世界大戦後の社会変化、心の成り立ちに与える影響、心の問題についてです。

  • 現実から逃げてしまう

    多くのことで自分は現実から目を反らしてしまいます。 大学で少し医療系の勉強をするのですが、 人間や生物の身体の構造とか赤ちゃんのつくり方やでき方を、 現実のものとして受け入れられません。 知識としてしか受け入れられません。 グロテスクで、怖いんです。 知らなければよかった、見なければよかったと思います。 恋愛も、まだしたことがありませんが、 「赤い糸」や「運命」を信じてしまいますし、 小説の中のような恋愛が本当にあるように思います。 現実を見ることが怖いんです。 そんな風に思うことはいけないことだとは分かっています。 今日も学校の友達に、人体が怖いという話をしたら 「そんなんじゃ社会に出られないよ」と冷たく言われました。 治す方法があったら教えてください。

    • ibiswan
    • 回答数3
  • 人の欲について

    仏教で「欲」は諸悪の根源にされてるけど、私はあまりそう思いません。 禁欲の先にはストレスがあり、爆発したり潰れてしまったら意味が無いからです。 それで、二つの社会的欲求に対する質問と言うか、アンケートに近いんですが、 他人の行動やあり方に感銘し真似る「模倣」欲と、 他人の影響、支配に抵抗して独立する「自律」欲とでは皆さんどちら派ですか? また、どんな時に「模倣」になりどんなとき「自律」しますか? 私はどちらも経験がありますが、それは歳を重ねるごとに考えが変わってきました。 まずは「模倣」そして二十歳を過ぎ、「自律」となりました。 しかし、人に反発しすぎて周りから誰もいなくなりました。 なので今はバランスを大事にしています。 みなさんはどうですか?

    • noname#35933
    • 回答数4
  • 人の欲について

    仏教で「欲」は諸悪の根源にされてるけど、私はあまりそう思いません。 禁欲の先にはストレスがあり、爆発したり潰れてしまったら意味が無いからです。 それで、二つの社会的欲求に対する質問と言うか、アンケートに近いんですが、 他人の行動やあり方に感銘し真似る「模倣」欲と、 他人の影響、支配に抵抗して独立する「自律」欲とでは皆さんどちら派ですか? また、どんな時に「模倣」になりどんなとき「自律」しますか? 私はどちらも経験がありますが、それは歳を重ねるごとに考えが変わってきました。 まずは「模倣」そして二十歳を過ぎ、「自律」となりました。 しかし、人に反発しすぎて周りから誰もいなくなりました。 なので今はバランスを大事にしています。 みなさんはどうですか?

    • noname#35933
    • 回答数4
  • いい人が苦しむ理由~宗教を信じている方にお聞きします~

    最近、うつ病等の精神的な病気に苦しむ人が多くなってきていますが、 それらの病気にかかる人の共通点は「いい人」だ、と医学の専門家は言っています。 そこでお聞きしたいのですが、 どうして「いい人」が苦しむような世の中を神(世界の創造主)は造ったのでしょうか? あなたの信じている宗教ではこのことをどのように教えていますか? お願いしますm(*- -*)m

  • 考えるとは一体?

    考えるとは一体何なのかと思い質問しました。 脳の中で起きている化学反応ですか? 一種の自分に対するマインドコントロールですか? 言葉の羅列を並べて自己満足しているだけですか? などと自問自答して考えましたが、結局わかりません。まあ、わかるはずもないし、意味もないですが・・・ 本来は生き残るため脳が発達したのかなと思います。 脳に関する本や専門家がはやっている今、不思議に思い考えてみました。考えるのは、人間だからかなともおもいますが、他の生き物も考えていないわけではないので・・・ こんなこと考えるだけ無駄ですが、誰か意見があったら教えてください。

  • 「つらい境遇により人に優しくなれる」ことと「親子間の負の遺産」について

    一般に言われることに、「つらい境遇で育った人は人の傷みを知る優しい人になれる」といいます。一方心理学的に、親の愛情不足あるいは不全で育った子は、自分が親になっても同じことを子に繰り返すといいます。つまり、優しさは獲得できなかったと考えられます。あるいは、内面的には優しさが獲得されたが、他者や子にに対して体現できないというアンバランスな状態になっています。 この矛盾はどう考えたらいいのでしょうか。どちらかがインチキなのではないでしょうか?

  • 「つらい境遇により人に優しくなれる」ことと「親子間の負の遺産」について

    一般に言われることに、「つらい境遇で育った人は人の傷みを知る優しい人になれる」といいます。一方心理学的に、親の愛情不足あるいは不全で育った子は、自分が親になっても同じことを子に繰り返すといいます。つまり、優しさは獲得できなかったと考えられます。あるいは、内面的には優しさが獲得されたが、他者や子にに対して体現できないというアンバランスな状態になっています。 この矛盾はどう考えたらいいのでしょうか。どちらかがインチキなのではないでしょうか?

  • 意識と行為

     定義の問題ではなく、 (1)人の行為には必ず、行為というものにはいずれかのレベルの意識や心が伴うものなのであろうか? (2)人以外の、例えば哺乳類などの生物にはどんなレベルの意識や心も伴わないものであろうか。意識や心ということの定義を抜きにして、日常の普通のことばとして。法解釈では、人とか、行為とか、故意とか、きちんと定義されているが、それは法律の一貫性と、体系のためであるに過ぎない。つまり便宜的定義でしか過ぎない。 (3)仮に人においてどんな性格、どんなレベルの意識や心の伴わない行為がありえたとして(無論、宗教的無の境地ということではなく)、(3)-aそういう事実行為はその行為者の意識は心にどんな影響があるだろうか?或は残すだろうか? (3)-bそういう事実行為に対して、向上と堕落という面からの評価がやはりありうるものか? 責任という側面を除外して。 (3)-向上と堕落というのは、意識と心に対していうのであろうか?  何か含みが内心にあるような助けて、質問ですが、解脱(新宗教ではありません)の行為の性格を読書中なのですが(インドの聖典で)そういう読書プロセスで、一体人の行為って何なのだろう、考え込んでしまっております。

  • 父親の子供「認知」欲求

    父親が、妻に産ませた子供が本当に自分の子供であるかが、どうしてそんなに問題になるのでしょうか?そういう一般論をよく聞きました。なぜ他人の子供(もしかするとそのせいで美人な娘が生まれたかもしれない)を自分の家庭で育てることに、そんなに拒絶間があるのでしょうか?民法上もその心理に乗っているのかそれとも、儒教的制度が後の常識や心理にまで影響しているのか? このことについて、教えてください。