yajiro-bay の回答履歴
- 偽善と善の違いって?
前に http://okwave.jp/kotaeru.php3?q=2117763 という質問をしましたが範囲を絞って再び質問させて頂きます。(あちらは補足への回答がまだなのでまだ締め切りません) タイトルの通り、偽善と善の違いが分からなくなっています。 おそらく私は偽善者です。皆さんも上記質問のNo.2への補足を読めば、そう感じるでしょう。 私はかつて自分で本心からの善事だと思ってしたことを「偽善」と言われ、またそう言われた人を知っています。 そこで「なぜ善事をしたのか」と深く考え「私は偽善者だ」という結論に至りました。 しかし、どこまでが偽善といえるのでしょうか。 ボランティアの参加動機が「内申書のため」だったら偽善でしょうか。 「親にほめられるから」では? 「皆の喜ぶ顔がみれるから」では? 「いい事をしている自分が好きだから」では? 私は自ら老人看護職に就いた人と話したことがありますが「家族の方にお礼を言って貰えると嬉しい。報われた感じがする」と言っていました。 これは「お礼を言ってもらえる」ということを期待しているから偽善と言えるのでしょうか? 今、私の中では「理由なき善はない。だから偽善でない善などない」という結論があります。 だからマザーテレサも「みんなが喜ぶ顔を見れる」という代償を求めたということで偽善者になります。 「それはおかしくないか」と考える自分もいるのですが、先の結論に明確な反論ができないでいます。 募金に協力している人を見て面白がるように笑う人も、席を譲るのを「偽善者と思われるのが嫌」と思う人もいるのです。 哲学カテに質問してますが私にはその手の知識は一切ないので、回答に専門用語を用いる際はお手数ですがド素人にも分かり易い補足を付けて頂けないでしょうか。 長文の上に稚拙な文章ですが、言わんとすることを汲み取ってくれれば幸いです。
- 締切済み
- 哲学・倫理・宗教学
- noname#72832
- 回答数26
- 意識について
この質問は心理学の方がいいのか迷ったのですが、、、、 昔、学生時代に麻酔科の先生から、冗談だと思うのですが次のような話を聞かされました。 全身麻酔を使うより、麻酔しないでサクシニルコリンで神経筋を遮断しておいて手術した方が安全に手術できる。また脳でのタンパク合成を阻害しておけばその間の記憶は一切残らないから、本人は手術中の痛みの記憶は一切残らない。 私の思うに、神経筋の遮断だけなら交感神経を通して痛みによる脂汗がでたりすると思うのですが、現代の麻酔の技術ならあらゆる脳の出力を遮断することができると思います。そうしておいてその間の記憶が一切残らないなら、手術が終わった段階では、全身麻酔でいっさい意識がなかったのと同じではないかという気がするのですが、残念ながらその先生は、自分の地位が大事だったのかそういう手術はしませんでした。 実際のところ、こういう場合に全身麻酔で全く意識がないのとなにか違いがあるでしょうか?
- 「言葉は物の名前である」は何故間違いか?
「言葉は物の名前である」は何故間違いなのでしょうか? 現実世界における物は、言語以前の段階で、既に(非言語の)意識によって区別されていると思います。その区別され切り取られた意識対象に対して、名前を付けたのが言葉ではないかと思います。従って、「言葉は物の名前である」は、正しいのではないかと私には思えます。しいて厳密に言えば、「言葉は、現実世界から、非言語の意識によって切り取られたイメージ(もの)に対して付けられた名前である」ということになると思います。 ところが、ソシュールの解説書などを読むと、それは、間違いだと書かれています。言語記号(シーニュ)は、現実世界に基づく区切りではなく、シーニュ同士の相互関係によって恣意的決まると言っているように思えます。 そんなことが本当にあるのでしょうか? 何故、「言葉は物の名前である」は間違いなのでしょうか?
- 「言葉は物の名前である」は何故間違いか?
「言葉は物の名前である」は何故間違いなのでしょうか? 現実世界における物は、言語以前の段階で、既に(非言語の)意識によって区別されていると思います。その区別され切り取られた意識対象に対して、名前を付けたのが言葉ではないかと思います。従って、「言葉は物の名前である」は、正しいのではないかと私には思えます。しいて厳密に言えば、「言葉は、現実世界から、非言語の意識によって切り取られたイメージ(もの)に対して付けられた名前である」ということになると思います。 ところが、ソシュールの解説書などを読むと、それは、間違いだと書かれています。言語記号(シーニュ)は、現実世界に基づく区切りではなく、シーニュ同士の相互関係によって恣意的決まると言っているように思えます。 そんなことが本当にあるのでしょうか? 何故、「言葉は物の名前である」は間違いなのでしょうか?
- 帰納と演繹
帰納法と演繹法を比べてみて、学問としてはどっちが偉いですか? わたしはどうも帰納法のほうが現実からスタートして豊かなところがあって、偉いんじゃないかと思ってるんですが、実際のところどうなんでしょうか。
- ベストアンサー
- 哲学・倫理・宗教学
- bougainvillea
- 回答数5
- カント倫理学と功利主義の倫理学
この二つの倫理学を比較した時、それぞれのメリットとデメリットはどんなものがあると思いますか? 個人的な意見でも構いませんので回答していただけると有り難いです。 参考にしたいのでよろしくお願いします。
- 「言葉は物の名前である」は何故間違いか?
「言葉は物の名前である」は何故間違いなのでしょうか? 現実世界における物は、言語以前の段階で、既に(非言語の)意識によって区別されていると思います。その区別され切り取られた意識対象に対して、名前を付けたのが言葉ではないかと思います。従って、「言葉は物の名前である」は、正しいのではないかと私には思えます。しいて厳密に言えば、「言葉は、現実世界から、非言語の意識によって切り取られたイメージ(もの)に対して付けられた名前である」ということになると思います。 ところが、ソシュールの解説書などを読むと、それは、間違いだと書かれています。言語記号(シーニュ)は、現実世界に基づく区切りではなく、シーニュ同士の相互関係によって恣意的決まると言っているように思えます。 そんなことが本当にあるのでしょうか? 何故、「言葉は物の名前である」は間違いなのでしょうか?
- 「言葉は物の名前である」は何故間違いか?
「言葉は物の名前である」は何故間違いなのでしょうか? 現実世界における物は、言語以前の段階で、既に(非言語の)意識によって区別されていると思います。その区別され切り取られた意識対象に対して、名前を付けたのが言葉ではないかと思います。従って、「言葉は物の名前である」は、正しいのではないかと私には思えます。しいて厳密に言えば、「言葉は、現実世界から、非言語の意識によって切り取られたイメージ(もの)に対して付けられた名前である」ということになると思います。 ところが、ソシュールの解説書などを読むと、それは、間違いだと書かれています。言語記号(シーニュ)は、現実世界に基づく区切りではなく、シーニュ同士の相互関係によって恣意的決まると言っているように思えます。 そんなことが本当にあるのでしょうか? 何故、「言葉は物の名前である」は間違いなのでしょうか?
- シニフィアンとシニフィエの基本的なこと
シニフィアンとシニフィエについて、基本的なことがよくわかりません。教えてください。 例えば、音声として発生された「ネコ」は、シニフィアンで、「猫」という観念は「シニフィエ」だと思っているのですが、そうだとすると、疑問は、「具体的に目の前にいる猫」は、シニフィエには成り得ないのかということです。 もう少し具体的に言うと、以下の会話(1)でAが語っている「猫」という音声は、シニフィアンで、それに対する、シニフィエは、一般観念としての「猫」だと思います。これに対し、(4)でBが語っている「そこに座っているその猫」と言う音声は、全体として、シニフィアンと考えて、「目の前に具体的にいる猫」がシニフィエと考えていいのでしょうか? それとも、やはり、シニフィエは、具体物では有り得ないのでしょうか? (1)A「君のところは、猫を飼っているの?」 (2)B「飼ってるよ。」 (3)A「どんな猫?」 (4)B「そうだねー、黒と白の混じった....、あっ、今、そこに座っているその猫とそっくりだよ。」
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