fukawawk の回答履歴
- ドングリころころの歌
民進ころころ民進党 小池にハマってさあ大変 緑のたぬきがこんにちは 希望で一緒に遊びましょ この替え歌誰が作ったのですか。素晴らしいですね。 ちなみに、赤いきつねは共産党ですよね。 戦争もそうですが、勝たなければ何も言えない、 2番ではだめ1番で無ければ何も出来ない。野党の 第1党にならなければ税金泥棒です。 皆さんのご意見を聞かせてください。
- 《聖なるあまえ》から《きよらかなおそれ》への変態
1. 《聖なるあまえ》は ものごころがつく前におけるひとの心の状態を言います。 2. 赤子が母親にあまえる――つまり 全面的に考えも何の計らいもなく身をゆだねるかのように心をゆだねている――とき これをひとつの典型として言う。 3. ところが 誰しも ものごころが着いて来ます。 4. 《考えもハカラヒもなく》というのは おこないがたく成ります。ウソをつくことをも知るという社会的動物たることの洗礼をも受けるようになります。 5. このとき聖なるあまえは どうなるか? 6. 幼虫がさなぎになる 7. 聖なるあまえは きよらかなおそれへと変態する。 8. きよらかなおそれは 幼虫ないし赤子における聖なるあまえ状態とほぼ同じだと言いたいのですが むろん《ものごころがついた》という意味での変態を経て 違いが出て来ます。 9. けれどもそれでも 後の段階で――ヒトの生まれつきなる自然本性に変わりはないと見るかぎりで―― 《聖なる甘え》と同じ状態であると言うためにこそ しかも言葉を変えて《きよらかなおそれを抱く状態》と呼びます。 10. すなわち 聖なるあまえは 母親への本能的な寄りすがりであるとき その同じ自然本性の成すハタラキにおいてなのであるが こんどは 母親なる存在を超えてナゾの何ものかへのおそれに その《身と心とのゆだね(あまえ)》を置き換える。 11. 言いかえると 聖なる甘えのときは きよらかなおそれすら――おそれすらを――まだ持てない状態であった。 12. このきよらかなおそれは 確かにナゾの何ものかに対するものなのであるが その同じ内容が 主観の内面における思惟や意思決定のときにも 〔おそれとして〕現われる。 13. これは さなぎからすでに成虫へとさらなる変態をとげつつあるときに起こるものであるが まだ さなぎ段階のこととして捉えてみよう。 14. ウソをつくとき・イツハリをはたらくとき 心は胸が変に高鳴り身も顔を赤らめ言葉もしどろもどろになる。《やましさ反応》が出る。やましさを 理性で受けとめるときには 《恥ぢ・恥づかしさ》である。 15. つまり このヤマシサ反応が きよらかなおそれのことである。良心のハタラキだとも言える。 16. つまり要するに おのれがみづからの心を省みずヘソを曲げるときに起きる《おそれ・やましさ・恥づかしさ》である。 17. 主観はつねに この・へそ曲がり(つまりウソ・イツハリ)を仕出かし 軌道修正しわれに還り また脱線したり道草を食ったりして 《わたしがわたしである》道をあゆむ。 18. 《恥づかしさ》を 何ものかナゾなる存在に対するおそれと感じ これを聖なるあまえを継ぐものと見て きよらかなおそれと捉えるなら それは この小さなおのれの主観が 人びとにも共通の心であると受け留めたことを意味する。 19. つまり きよらかなおそれは 人びとにとって普遍的な内容を成す共同主観であると――甘えないしはユダネであるからには 無根拠において――受け容れたことを意味する。 20. 《共同主観》は 共同と呼ぶからには普遍性があると見ているし 或る種の仕方で言えばわが心なる非思考の庭においてそのように受け容れているものです。(無条件の無根拠にて受け容れているという意味です)。 21. こうして さなぎは羽化し 蝶へと変態する。 22. 成虫した場合には 社会の中で おのれの――はぐくんできた――《きよらかなおそれ》が つねに〔共同主観であると見ているからには・その限りで〕有効であるが しかも単純に社会力学じょう既成勢力たるチカラの前に無力となる。 23. この情況における《わたし》は どう生きるか? 《きよらかなおそれ》のゆくえは? 24. 聖なるあまえ・もしくは きよらかなおそれ・あるいは《恥ぢ》を失わないならば けっきょく世の中においてわが目の前を通り過ぎてゆく観念のブルドーザーの《無効にしてただ力学じょう有力であるチカラ》に対して これを精神の胃袋で消化しつつ 引き受けるということ。泥をかぶるということ。 25. ここに 蝶たる成虫への変態は 成し遂げられる。ものと思われる。 26. このシガラミの中にあって 無効の有力でしかないそのやはりシガラミたるゴミを――すなわちこのゴミは しばしば社会力学じょうの栄誉を着せてもらってその地位に就き身を飾り立てている・つまり しばしばおごり高ぶるゴミを―― あたかもみづからはアース役となって 呑み込みつつ処理していくということ。 27. これが 名も無い一介の市民の完全に成虫した(つまり さとりを得た)蝶としての社会的使命である。 28. 敢えて言えば そのときの《武器》は 《きよらかなおそれ》である。根拠は 無い。 29. 初期条件はただ生まれついたというだけの無条件の情況にあって 無根拠なる根拠において ごみ処理(浄化再生)工場と成る。 30. きれいな酸素をも供給するらしい。 31. 義(オシヘ)無きを以って義としているらしい。(もっとも このことは 《無住処涅槃》なる概念として・あるいは《本覚思想》として すでに打ち出されているようであるらしい)。 32. ひとびとは しづやかにおのがさとりを得よ。 ☆ 以上を問います。自由なお考えをどうぞ。フルボッコの批判を歓迎します。
- 台風のエネルギー活用
台風のエネルギー活用 いつも回答ありがとうございます。 台風の季節です。大量の雨と強い風、いずれも、人間には、必要なものですが、問題は、その程度です。年間からすると、短い期間であることと程度が激しすぎて人間には、コントロールから、外れていることです。 誰でも、この強いエネルギーを使い活用することができれば、どんなに良いかしらと考えます。しかし、また、ここで、コストと効率が、問題になり、コストも効率も悪いとなります。 しかし、台風の風のエネルギーを一部でも、吸収できると台風の進路を変えたり、エネルギーを生かせるようになるでしょう。 今は、台風で、被害に出会っても、誰も文句は、言わないですが、もし、台風の進路を少しでも、変更できるとしたら、台風の進路を変更されたがために、被害を受けた。進路の変更が無ければ、被害は、少なかったはずだと文句がでるでしょう。 進路が変わって、被害が無くなった人は、何も言いません。 進路を変えて多数の人の被害を少なくなるように腐心した人だけが、責められます。 ●Q01. 台風のエネルギーのみを利用しようとして新たに機器を製作しようとするとコスト的に合わないとなりますが、既存の機器をうまく再利用しておまけのように使用すれば、エネルギーを吸収、活用することができるのができるのでは、無いでしょうか? ●Q02. 個人的に、みんなが、利用すれば、コストは、無視して利益だけを取ることとかできるのでは、無いでしょうか? ●Q03. 例えば、古くなった家庭用や業務用の扇風機を雨がかからないところに置いて、風だけを受けるようにして微量ながら、風エネルギーを吸収する、エネルギーを給湯に利用するなどです。あまり、風の強いところは、利用できないけれど、風が、少ない場所では、利用できるのでは、無いでしょうか? 一つ一つは、微量なエネルギーですが、多くの人が、このエネルギーを吸収することができれば、合計して大量のエネルギーを吸収することになるのでは、無いでしょうか? ビル風など、定例的に強い風か期待できる箇所に小さな風力発電機をおいて、エネルギーを吸収させるなどです。 ●Q04. 湖岸や海岸で、年中風の利用が期待できるところがあるのでここに風力発電機を設置すれば、風エネルギーを利用できるのでは無いでしょうか? ●Q05. 南アフリカの喜望峰などで年中強い風か発生している所が、あります。このような風に、耐えうる風力発電機を設置して風エネルギーを吸収したら、効率的だと考えるのですが、いかがでしょうか? ●Q06. 最初は、失敗の連続ですが、色々な経験の収集から実用的なものが、生まれるのでは、無いでしょうか? たとえ、ひとつだけでも、お知りのことが有りましたら、ご教授方よろしくお願いします。 敬具
- 《聖なるあまえ》から《きよらかなおそれ》への変態
1. 《聖なるあまえ》は ものごころがつく前におけるひとの心の状態を言います。 2. 赤子が母親にあまえる――つまり 全面的に考えも何の計らいもなく身をゆだねるかのように心をゆだねている――とき これをひとつの典型として言う。 3. ところが 誰しも ものごころが着いて来ます。 4. 《考えもハカラヒもなく》というのは おこないがたく成ります。ウソをつくことをも知るという社会的動物たることの洗礼をも受けるようになります。 5. このとき聖なるあまえは どうなるか? 6. 幼虫がさなぎになる 7. 聖なるあまえは きよらかなおそれへと変態する。 8. きよらかなおそれは 幼虫ないし赤子における聖なるあまえ状態とほぼ同じだと言いたいのですが むろん《ものごころがついた》という意味での変態を経て 違いが出て来ます。 9. けれどもそれでも 後の段階で――ヒトの生まれつきなる自然本性に変わりはないと見るかぎりで―― 《聖なる甘え》と同じ状態であると言うためにこそ しかも言葉を変えて《きよらかなおそれを抱く状態》と呼びます。 10. すなわち 聖なるあまえは 母親への本能的な寄りすがりであるとき その同じ自然本性の成すハタラキにおいてなのであるが こんどは 母親なる存在を超えてナゾの何ものかへのおそれに その《身と心とのゆだね(あまえ)》を置き換える。 11. 言いかえると 聖なる甘えのときは きよらかなおそれすら――おそれすらを――まだ持てない状態であった。 12. このきよらかなおそれは 確かにナゾの何ものかに対するものなのであるが その同じ内容が 主観の内面における思惟や意思決定のときにも 〔おそれとして〕現われる。 13. これは さなぎからすでに成虫へとさらなる変態をとげつつあるときに起こるものであるが まだ さなぎ段階のこととして捉えてみよう。 14. ウソをつくとき・イツハリをはたらくとき 心は胸が変に高鳴り身も顔を赤らめ言葉もしどろもどろになる。《やましさ反応》が出る。やましさを 理性で受けとめるときには 《恥ぢ・恥づかしさ》である。 15. つまり このヤマシサ反応が きよらかなおそれのことである。良心のハタラキだとも言える。 16. つまり要するに おのれがみづからの心を省みずヘソを曲げるときに起きる《おそれ・やましさ・恥づかしさ》である。 17. 主観はつねに この・へそ曲がり(つまりウソ・イツハリ)を仕出かし 軌道修正しわれに還り また脱線したり道草を食ったりして 《わたしがわたしである》道をあゆむ。 18. 《恥づかしさ》を 何ものかナゾなる存在に対するおそれと感じ これを聖なるあまえを継ぐものと見て きよらかなおそれと捉えるなら それは この小さなおのれの主観が 人びとにも共通の心であると受け留めたことを意味する。 19. つまり きよらかなおそれは 人びとにとって普遍的な内容を成す共同主観であると――甘えないしはユダネであるからには 無根拠において――受け容れたことを意味する。 20. 《共同主観》は 共同と呼ぶからには普遍性があると見ているし 或る種の仕方で言えばわが心なる非思考の庭においてそのように受け容れているものです。(無条件の無根拠にて受け容れているという意味です)。 21. こうして さなぎは羽化し 蝶へと変態する。 22. 成虫した場合には 社会の中で おのれの――はぐくんできた――《きよらかなおそれ》が つねに〔共同主観であると見ているからには・その限りで〕有効であるが しかも単純に社会力学じょう既成勢力たるチカラの前に無力となる。 23. この情況における《わたし》は どう生きるか? 《きよらかなおそれ》のゆくえは? 24. 聖なるあまえ・もしくは きよらかなおそれ・あるいは《恥ぢ》を失わないならば けっきょく世の中においてわが目の前を通り過ぎてゆく観念のブルドーザーの《無効にしてただ力学じょう有力であるチカラ》に対して これを精神の胃袋で消化しつつ 引き受けるということ。泥をかぶるということ。 25. ここに 蝶たる成虫への変態は 成し遂げられる。ものと思われる。 26. このシガラミの中にあって 無効の有力でしかないそのやはりシガラミたるゴミを――すなわちこのゴミは しばしば社会力学じょうの栄誉を着せてもらってその地位に就き身を飾り立てている・つまり しばしばおごり高ぶるゴミを―― あたかもみづからはアース役となって 呑み込みつつ処理していくということ。 27. これが 名も無い一介の市民の完全に成虫した(つまり さとりを得た)蝶としての社会的使命である。 28. 敢えて言えば そのときの《武器》は 《きよらかなおそれ》である。根拠は 無い。 29. 初期条件はただ生まれついたというだけの無条件の情況にあって 無根拠なる根拠において ごみ処理(浄化再生)工場と成る。 30. きれいな酸素をも供給するらしい。 31. 義(オシヘ)無きを以って義としているらしい。(もっとも このことは 《無住処涅槃》なる概念として・あるいは《本覚思想》として すでに打ち出されているようであるらしい)。 32. ひとびとは しづやかにおのがさとりを得よ。 ☆ 以上を問います。自由なお考えをどうぞ。フルボッコの批判を歓迎します。
- 《聖なるあまえ》から《きよらかなおそれ》への変態
1. 《聖なるあまえ》は ものごころがつく前におけるひとの心の状態を言います。 2. 赤子が母親にあまえる――つまり 全面的に考えも何の計らいもなく身をゆだねるかのように心をゆだねている――とき これをひとつの典型として言う。 3. ところが 誰しも ものごころが着いて来ます。 4. 《考えもハカラヒもなく》というのは おこないがたく成ります。ウソをつくことをも知るという社会的動物たることの洗礼をも受けるようになります。 5. このとき聖なるあまえは どうなるか? 6. 幼虫がさなぎになる 7. 聖なるあまえは きよらかなおそれへと変態する。 8. きよらかなおそれは 幼虫ないし赤子における聖なるあまえ状態とほぼ同じだと言いたいのですが むろん《ものごころがついた》という意味での変態を経て 違いが出て来ます。 9. けれどもそれでも 後の段階で――ヒトの生まれつきなる自然本性に変わりはないと見るかぎりで―― 《聖なる甘え》と同じ状態であると言うためにこそ しかも言葉を変えて《きよらかなおそれを抱く状態》と呼びます。 10. すなわち 聖なるあまえは 母親への本能的な寄りすがりであるとき その同じ自然本性の成すハタラキにおいてなのであるが こんどは 母親なる存在を超えてナゾの何ものかへのおそれに その《身と心とのゆだね(あまえ)》を置き換える。 11. 言いかえると 聖なる甘えのときは きよらかなおそれすら――おそれすらを――まだ持てない状態であった。 12. このきよらかなおそれは 確かにナゾの何ものかに対するものなのであるが その同じ内容が 主観の内面における思惟や意思決定のときにも 〔おそれとして〕現われる。 13. これは さなぎからすでに成虫へとさらなる変態をとげつつあるときに起こるものであるが まだ さなぎ段階のこととして捉えてみよう。 14. ウソをつくとき・イツハリをはたらくとき 心は胸が変に高鳴り身も顔を赤らめ言葉もしどろもどろになる。《やましさ反応》が出る。やましさを 理性で受けとめるときには 《恥ぢ・恥づかしさ》である。 15. つまり このヤマシサ反応が きよらかなおそれのことである。良心のハタラキだとも言える。 16. つまり要するに おのれがみづからの心を省みずヘソを曲げるときに起きる《おそれ・やましさ・恥づかしさ》である。 17. 主観はつねに この・へそ曲がり(つまりウソ・イツハリ)を仕出かし 軌道修正しわれに還り また脱線したり道草を食ったりして 《わたしがわたしである》道をあゆむ。 18. 《恥づかしさ》を 何ものかナゾなる存在に対するおそれと感じ これを聖なるあまえを継ぐものと見て きよらかなおそれと捉えるなら それは この小さなおのれの主観が 人びとにも共通の心であると受け留めたことを意味する。 19. つまり きよらかなおそれは 人びとにとって普遍的な内容を成す共同主観であると――甘えないしはユダネであるからには 無根拠において――受け容れたことを意味する。 20. 《共同主観》は 共同と呼ぶからには普遍性があると見ているし 或る種の仕方で言えばわが心なる非思考の庭においてそのように受け容れているものです。(無条件の無根拠にて受け容れているという意味です)。 21. こうして さなぎは羽化し 蝶へと変態する。 22. 成虫した場合には 社会の中で おのれの――はぐくんできた――《きよらかなおそれ》が つねに〔共同主観であると見ているからには・その限りで〕有効であるが しかも単純に社会力学じょう既成勢力たるチカラの前に無力となる。 23. この情況における《わたし》は どう生きるか? 《きよらかなおそれ》のゆくえは? 24. 聖なるあまえ・もしくは きよらかなおそれ・あるいは《恥ぢ》を失わないならば けっきょく世の中においてわが目の前を通り過ぎてゆく観念のブルドーザーの《無効にしてただ力学じょう有力であるチカラ》に対して これを精神の胃袋で消化しつつ 引き受けるということ。泥をかぶるということ。 25. ここに 蝶たる成虫への変態は 成し遂げられる。ものと思われる。 26. このシガラミの中にあって 無効の有力でしかないそのやはりシガラミたるゴミを――すなわちこのゴミは しばしば社会力学じょうの栄誉を着せてもらってその地位に就き身を飾り立てている・つまり しばしばおごり高ぶるゴミを―― あたかもみづからはアース役となって 呑み込みつつ処理していくということ。 27. これが 名も無い一介の市民の完全に成虫した(つまり さとりを得た)蝶としての社会的使命である。 28. 敢えて言えば そのときの《武器》は 《きよらかなおそれ》である。根拠は 無い。 29. 初期条件はただ生まれついたというだけの無条件の情況にあって 無根拠なる根拠において ごみ処理(浄化再生)工場と成る。 30. きれいな酸素をも供給するらしい。 31. 義(オシヘ)無きを以って義としているらしい。(もっとも このことは 《無住処涅槃》なる概念として・あるいは《本覚思想》として すでに打ち出されているようであるらしい)。 32. ひとびとは しづやかにおのがさとりを得よ。 ☆ 以上を問います。自由なお考えをどうぞ。フルボッコの批判を歓迎します。
- 《聖なるあまえ》から《きよらかなおそれ》への変態
1. 《聖なるあまえ》は ものごころがつく前におけるひとの心の状態を言います。 2. 赤子が母親にあまえる――つまり 全面的に考えも何の計らいもなく身をゆだねるかのように心をゆだねている――とき これをひとつの典型として言う。 3. ところが 誰しも ものごころが着いて来ます。 4. 《考えもハカラヒもなく》というのは おこないがたく成ります。ウソをつくことをも知るという社会的動物たることの洗礼をも受けるようになります。 5. このとき聖なるあまえは どうなるか? 6. 幼虫がさなぎになる 7. 聖なるあまえは きよらかなおそれへと変態する。 8. きよらかなおそれは 幼虫ないし赤子における聖なるあまえ状態とほぼ同じだと言いたいのですが むろん《ものごころがついた》という意味での変態を経て 違いが出て来ます。 9. けれどもそれでも 後の段階で――ヒトの生まれつきなる自然本性に変わりはないと見るかぎりで―― 《聖なる甘え》と同じ状態であると言うためにこそ しかも言葉を変えて《きよらかなおそれを抱く状態》と呼びます。 10. すなわち 聖なるあまえは 母親への本能的な寄りすがりであるとき その同じ自然本性の成すハタラキにおいてなのであるが こんどは 母親なる存在を超えてナゾの何ものかへのおそれに その《身と心とのゆだね(あまえ)》を置き換える。 11. 言いかえると 聖なる甘えのときは きよらかなおそれすら――おそれすらを――まだ持てない状態であった。 12. このきよらかなおそれは 確かにナゾの何ものかに対するものなのであるが その同じ内容が 主観の内面における思惟や意思決定のときにも 〔おそれとして〕現われる。 13. これは さなぎからすでに成虫へとさらなる変態をとげつつあるときに起こるものであるが まだ さなぎ段階のこととして捉えてみよう。 14. ウソをつくとき・イツハリをはたらくとき 心は胸が変に高鳴り身も顔を赤らめ言葉もしどろもどろになる。《やましさ反応》が出る。やましさを 理性で受けとめるときには 《恥ぢ・恥づかしさ》である。 15. つまり このヤマシサ反応が きよらかなおそれのことである。良心のハタラキだとも言える。 16. つまり要するに おのれがみづからの心を省みずヘソを曲げるときに起きる《おそれ・やましさ・恥づかしさ》である。 17. 主観はつねに この・へそ曲がり(つまりウソ・イツハリ)を仕出かし 軌道修正しわれに還り また脱線したり道草を食ったりして 《わたしがわたしである》道をあゆむ。 18. 《恥づかしさ》を 何ものかナゾなる存在に対するおそれと感じ これを聖なるあまえを継ぐものと見て きよらかなおそれと捉えるなら それは この小さなおのれの主観が 人びとにも共通の心であると受け留めたことを意味する。 19. つまり きよらかなおそれは 人びとにとって普遍的な内容を成す共同主観であると――甘えないしはユダネであるからには 無根拠において――受け容れたことを意味する。 20. 《共同主観》は 共同と呼ぶからには普遍性があると見ているし 或る種の仕方で言えばわが心なる非思考の庭においてそのように受け容れているものです。(無条件の無根拠にて受け容れているという意味です)。 21. こうして さなぎは羽化し 蝶へと変態する。 22. 成虫した場合には 社会の中で おのれの――はぐくんできた――《きよらかなおそれ》が つねに〔共同主観であると見ているからには・その限りで〕有効であるが しかも単純に社会力学じょう既成勢力たるチカラの前に無力となる。 23. この情況における《わたし》は どう生きるか? 《きよらかなおそれ》のゆくえは? 24. 聖なるあまえ・もしくは きよらかなおそれ・あるいは《恥ぢ》を失わないならば けっきょく世の中においてわが目の前を通り過ぎてゆく観念のブルドーザーの《無効にしてただ力学じょう有力であるチカラ》に対して これを精神の胃袋で消化しつつ 引き受けるということ。泥をかぶるということ。 25. ここに 蝶たる成虫への変態は 成し遂げられる。ものと思われる。 26. このシガラミの中にあって 無効の有力でしかないそのやはりシガラミたるゴミを――すなわちこのゴミは しばしば社会力学じょうの栄誉を着せてもらってその地位に就き身を飾り立てている・つまり しばしばおごり高ぶるゴミを―― あたかもみづからはアース役となって 呑み込みつつ処理していくということ。 27. これが 名も無い一介の市民の完全に成虫した(つまり さとりを得た)蝶としての社会的使命である。 28. 敢えて言えば そのときの《武器》は 《きよらかなおそれ》である。根拠は 無い。 29. 初期条件はただ生まれついたというだけの無条件の情況にあって 無根拠なる根拠において ごみ処理(浄化再生)工場と成る。 30. きれいな酸素をも供給するらしい。 31. 義(オシヘ)無きを以って義としているらしい。(もっとも このことは 《無住処涅槃》なる概念として・あるいは《本覚思想》として すでに打ち出されているようであるらしい)。 32. ひとびとは しづやかにおのがさとりを得よ。 ☆ 以上を問います。自由なお考えをどうぞ。フルボッコの批判を歓迎します。
- 《聖なるあまえ》から《きよらかなおそれ》への変態
1. 《聖なるあまえ》は ものごころがつく前におけるひとの心の状態を言います。 2. 赤子が母親にあまえる――つまり 全面的に考えも何の計らいもなく身をゆだねるかのように心をゆだねている――とき これをひとつの典型として言う。 3. ところが 誰しも ものごころが着いて来ます。 4. 《考えもハカラヒもなく》というのは おこないがたく成ります。ウソをつくことをも知るという社会的動物たることの洗礼をも受けるようになります。 5. このとき聖なるあまえは どうなるか? 6. 幼虫がさなぎになる 7. 聖なるあまえは きよらかなおそれへと変態する。 8. きよらかなおそれは 幼虫ないし赤子における聖なるあまえ状態とほぼ同じだと言いたいのですが むろん《ものごころがついた》という意味での変態を経て 違いが出て来ます。 9. けれどもそれでも 後の段階で――ヒトの生まれつきなる自然本性に変わりはないと見るかぎりで―― 《聖なる甘え》と同じ状態であると言うためにこそ しかも言葉を変えて《きよらかなおそれを抱く状態》と呼びます。 10. すなわち 聖なるあまえは 母親への本能的な寄りすがりであるとき その同じ自然本性の成すハタラキにおいてなのであるが こんどは 母親なる存在を超えてナゾの何ものかへのおそれに その《身と心とのゆだね(あまえ)》を置き換える。 11. 言いかえると 聖なる甘えのときは きよらかなおそれすら――おそれすらを――まだ持てない状態であった。 12. このきよらかなおそれは 確かにナゾの何ものかに対するものなのであるが その同じ内容が 主観の内面における思惟や意思決定のときにも 〔おそれとして〕現われる。 13. これは さなぎからすでに成虫へとさらなる変態をとげつつあるときに起こるものであるが まだ さなぎ段階のこととして捉えてみよう。 14. ウソをつくとき・イツハリをはたらくとき 心は胸が変に高鳴り身も顔を赤らめ言葉もしどろもどろになる。《やましさ反応》が出る。やましさを 理性で受けとめるときには 《恥ぢ・恥づかしさ》である。 15. つまり このヤマシサ反応が きよらかなおそれのことである。良心のハタラキだとも言える。 16. つまり要するに おのれがみづからの心を省みずヘソを曲げるときに起きる《おそれ・やましさ・恥づかしさ》である。 17. 主観はつねに この・へそ曲がり(つまりウソ・イツハリ)を仕出かし 軌道修正しわれに還り また脱線したり道草を食ったりして 《わたしがわたしである》道をあゆむ。 18. 《恥づかしさ》を 何ものかナゾなる存在に対するおそれと感じ これを聖なるあまえを継ぐものと見て きよらかなおそれと捉えるなら それは この小さなおのれの主観が 人びとにも共通の心であると受け留めたことを意味する。 19. つまり きよらかなおそれは 人びとにとって普遍的な内容を成す共同主観であると――甘えないしはユダネであるからには 無根拠において――受け容れたことを意味する。 20. 《共同主観》は 共同と呼ぶからには普遍性があると見ているし 或る種の仕方で言えばわが心なる非思考の庭においてそのように受け容れているものです。(無条件の無根拠にて受け容れているという意味です)。 21. こうして さなぎは羽化し 蝶へと変態する。 22. 成虫した場合には 社会の中で おのれの――はぐくんできた――《きよらかなおそれ》が つねに〔共同主観であると見ているからには・その限りで〕有効であるが しかも単純に社会力学じょう既成勢力たるチカラの前に無力となる。 23. この情況における《わたし》は どう生きるか? 《きよらかなおそれ》のゆくえは? 24. 聖なるあまえ・もしくは きよらかなおそれ・あるいは《恥ぢ》を失わないならば けっきょく世の中においてわが目の前を通り過ぎてゆく観念のブルドーザーの《無効にしてただ力学じょう有力であるチカラ》に対して これを精神の胃袋で消化しつつ 引き受けるということ。泥をかぶるということ。 25. ここに 蝶たる成虫への変態は 成し遂げられる。ものと思われる。 26. このシガラミの中にあって 無効の有力でしかないそのやはりシガラミたるゴミを――すなわちこのゴミは しばしば社会力学じょうの栄誉を着せてもらってその地位に就き身を飾り立てている・つまり しばしばおごり高ぶるゴミを―― あたかもみづからはアース役となって 呑み込みつつ処理していくということ。 27. これが 名も無い一介の市民の完全に成虫した(つまり さとりを得た)蝶としての社会的使命である。 28. 敢えて言えば そのときの《武器》は 《きよらかなおそれ》である。根拠は 無い。 29. 初期条件はただ生まれついたというだけの無条件の情況にあって 無根拠なる根拠において ごみ処理(浄化再生)工場と成る。 30. きれいな酸素をも供給するらしい。 31. 義(オシヘ)無きを以って義としているらしい。(もっとも このことは 《無住処涅槃》なる概念として・あるいは《本覚思想》として すでに打ち出されているようであるらしい)。 32. ひとびとは しづやかにおのがさとりを得よ。 ☆ 以上を問います。自由なお考えをどうぞ。フルボッコの批判を歓迎します。