yamayamayossyのプロフィール

@yamayamayossy yamayamayossy
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  • 登録日2016/11/10
  • 性別女性
  • 都道府県神奈川県
  • 新しい職場で人間関係の築き方

    専門職で新しい職場に入った20代です。 希望の専門職に就くためにバイトの下積み含め何度か転職をしており、これで転職を最後にしようと念願の企業に運よく正社員で内定をいただいて入社し約1か月です。 もともと人見知りで初対面の人と雑談が続きにくい性格のため、せめて挨拶だけは、、、と 元気に挨拶を続けていますが、なじめず悩んでいます。 年末も近く忙しい職場なので入社初日、私の紹介は朝礼のみですぐに仕事に入ったため 早くほかの社員さんを覚えようと座席表をいただいたんですが、外回りの社員さんからの外線電話だと声でだれか判断できず迷惑をかけてしまいます;「お疲れ様です」というべきなのを「お世話になってます」とか言ってしまったり;;印象悪いと思います。 (地味にショックだったのは先週入った人は社員さんが丁寧に社員ひとりひとり一緒に机を回って紹介をしてもらっていて、うらやましいと思ってしまいました;) 昔から仕事中作業に熱中してしまうタイプなのでもしかしたら話しかけづらいと思われてるんでしょうか? とにかく今は仕事を頑張ればいいんだと、早く出社してゴミ捨てやカップ洗いや掃除などの雑務をしつつ仕事も覚えようと必死ですが…気づけばぼっちで1か月…。 全体的に社員は仲がいいのでこのままコミュニケーションもとれずなじめないままだと不安です。 今まで勤めていた会社は顔合わせや休憩時間のコミュニケーションは必ず(始めだけ)先輩が新人の世話をしていたので、非常に恥ずかしいんですがこのパターンは初めてでどうすれば正解なのか戸惑っています。(仕事の質問は積極的にしています) 早くなじめるようどうか体験談やアドバイスをお願いします( ;∀;) チキンなので中傷はご遠慮ください…

    • noname#230088
    • 回答数6
  • 悪口ばかりのランチに参加したくありません

    私は20代後半の主婦です。前は専業主婦だったのですが、夫が転職したので、私も派遣社員として働き始めました。大学を卒業してすぐに結婚してしまったので、社会人経験はほとんどありません。(学生時代のバイトくらいです) 職場は女性が多いところで、毎日部署全員でランチに行く習慣があります。 ですが、知らない人の悪口ばっかりで正直話に入って行けませんし、お金も勿体ないのでランチの時間が苦痛です。 珍しく私に話が振られたと思えばマタハラだったり。。。 できればランチに参加したくないんですが、部署の女性全員が一緒に行っているので、新人の私だけ行かないのも失礼な気がします。 他人の悪口でも、我慢してうんうんと聞いておくのがいいのでしょうか?それとも一緒にランチに行かない方がいいんでしょうか? いじめで辞めた人もいると聞いているので不安です。。。

  • 大澤真幸の《キリストを媒介とする神の赦し》について

     ▼ (大澤真幸:十字架上に死すキリスト・イエスを媒介者とする神の・人間に対する赦しとは?) ~~~~~~~~~~~~  1. だから キリスト教を生産的に応用しようと思えば・・・  まづ 出発点とすべきことは 神は 人間に対して 絶対的に超越している ということである。  2. 神が人間を 一方的に規定し 人間に働きかけることができるのみで 人間は 神へと働きかけたり 神の行動や意思を――部分的にすら――規定することはできない。  3. 《第三者の審級》という概念を用いれば キリスト教を始めとする啓示宗教の神は その超越性を 最も純粋に きわめて論理的に首尾一貫した形式で保持している第三者の審級であると解釈することができる。   ☆(あ) 1~3までは 神が人にとって絶対的に隔たると言っている。   ☆(い) 《第三者の審級》というのは うさんくさいとわたしは思って      いる。前項の《絶対の隔たり》があいまいになる。言いかえると      絶対なる神が 経験世界に降りて来て 相対的な意味内容を持ちか      ねない。――次項は この隔たりを埋めるという問題が来る。  4. このとき キリストとは何であるか? キリストは 神と人間の間の媒介者であろうか? そのように考えた場合には キリストは 神と人間をつなぐと同時に それらを隔てる障壁の印でもある。   ☆(う) 《障壁》≒《隔たり》は すでに理解済みであるのだが。次項      についても そう言わねばならない。  5. キリストという媒介が存在しているということは 神と人間を互いに分離した項として設定することを意味するからだ。  6. 神が人間を 端的に赦した場合には 神を人間から隔てる絶対的な超越性は手付かずのままに残されることになっただろう。   ☆(え) 《赦し》とは 人の逆らい――約束の破棄――に対するそれの      ことである。   ☆(お) 《端的に赦した場合》には 神と人との隔たりが 絶対という      状態のままに遺ったであろうと言っている。端的にそのとおりであ      る。――次項からは その赦し方が 手の込んだかたちになったし     そのようになる必然性があったのだと説こうとしている。  7. しかし キリストは このような意味での媒介者ではない。キリストは 神そのものだからである。   ☆(か) つづく説明を聞こう。  8. 十字架の上で 神そのものが死ぬのである。もう少し繊細な言い方に換えれば 十字架の上で死ぬことを通じて 神が人間であることが示されるのだ。   ☆(き) このような説き方(解き方)だと 《死ぬ》のは 神なのか?      人間なのか? が必ずしもはっきりしない。  ・・・  9. どういうことか? キリストが死んだということは 超越的な神(キリスト)が 内在的な人間だということであろう。   ☆(く) 分かりづらい。もともと 神の子でありみづからも神であるキ      リストが 肉(身と心との自然本性たる人)となったと想定してい      るのだから この《内在的な人間》という規定は 必ずしも明瞭な      説明ではないように思える。  10. その結果は 何か? 人間は 信仰において 神と関係する。人間は 超越的な彼岸にいる神と関係しようとするのだが その神は死んでしまい もはやそこにはいないのだから 人間の〔神に〕関係しようとする行為は 人間へと つまり信者たちへと還流してくるほかない。   ☆(け) 分かりづらい。     a. 神が死んだのか? 死んだのは 神か?     b. 信仰とは 神とわれとのカカハリを言う。これは 中立の定義。     c. 人間が《神と関係しようとする》のは 自由だが そもそも絶対      の隔たりがあるゆえ だからどうなるというものではない。     d. 仮りに神が死んだのだとしても・《もはやそこにいない》として      も 絶対のかなたの神との関係が どうして《人間へと還流して来      る》のだろう?  11. このとき つまり神が人間に置き換えられたとき 神の場所に 原理的には 人間の――あるいは信者の――普遍的な共同性(教会)が出現することになるだろう。   ☆(こ) 果たしてそうか? それが《原理的》か? 《死んだ》という      行動の軌跡が 天から神が降りて来たことを証し そこに神の痕跡      としてのごとき――次項にあるように――《聖霊》の場を実現する      ことになる。のだろうか?  12. この共同性を成り立たせる紐帯こそが キリスト教の言うところの《聖霊》(あるいはキリストの身体)であろう。   ☆(さ) 果たしてどうか? ただの想像ではないのか?   ☆(し) 想像ではないとしたらそれは むしろ初めに《絶対の隔たりな      る神》を想定したその神とわれとの――《非思考》における――カ      カハリが 依然として前提と成っていると見るのがよい。のではな      いか?   ☆(す) 《紐帯 ないし 共同性(また 共生)》は 非思考の庭とし      てある。と想定される。  13. 神の赦しが キリストの磔刑死という 迂遠な回路を必要としたのは 赦しが 人間の側でのこうした変移――普遍的な共同性への移行――を伴なわなくてはならないからではないか。   ☆(せ) いったいどう成っているのか? キリストが死んだのだから      地上には じんるい共同の大いなる連帯が 現実となって生まれた      ということか?  (大澤真幸:『逆接の民主主義――格闘する思想』 2008 pp.88-91)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  • 直観と直感。

    直観と直感。 皆さんはどう使い分けておられますか?