fukuzo2013 の回答履歴
- 「無」とは
「無」状態と言う物は、端的に現せば、心が何モノにも動じない状態・または其の位置にいる事である。 しかしこの状態は命からも離れてしまうので、長時間続けると肉体を損なう。 つまりそもそもの苦しみを消す「秘法」等では無く、単なる精神統一や瞑想法の極地にあるものである。 ちなみに此れの究極型が「即身仏」になる。(別に即身仏自体を否定しているのではない、形としての「現れ」の事を言っている) 「無」状態は囚われから「自由自在」になるので、快楽(安堵・安定)を得る事には有効だ。 しかし「真理」とはイコールでは無い。 乱暴な言い方をすれば、脳内における化学物質とパルスのやり取りで生じる「活動」の一つでしかないからだ。 あらゆる事柄をあるがままに。 「無」に拘るのも、「有」に惑わされるのも、同じ迷いでしかない。 「空」も「色」も本質は同じである。
- 「輪廻転生」とはどのようなことを言うのでしょう。
私がどうしてもわからないのが「輪廻転生」です。「輪廻転生」とはどのようなことを言うのでしょうか? ブッダの生きた時代はバラモン教が主流であり「輪廻転生」は当たり前の概念だそうですが、ブッダは「輪廻転生」について何か述べたのでしょうか? 述べなかったでしょうか? ある本には、悟りを開いて「輪廻転生」のループから脱するのがブッダの教えであるとも書いてあります。普通、日本で「輪廻転生」と言うと、肉体と魂は別々で、肉体は滅びても、魂はまた別の肉体で生まれ変わるというような事ですよね。 ブッダは人間が生まれ変わるというようなことや、魂と霊魂とか・・・は、しょせん事実関係が証明できないことだから、そのままにしておきなさい!と教えています。 また、自分と言うものに実体はない?と言うことも述べています。自分に実体がなく存在していないなら生まれ変わることもないはずです。 つまり「輪廻転生」とブッダの教えはどう考えても容認し合えない思想かと思います。 それとも、バラモン教の「輪廻転生」とブッダの「輪廻転生」は全然別物なのでしょうか?
- 世の中 極楽になれば 人は極楽にいると言う・・・
このような論理から わたしたちは卒業せねばならないのではないか? 自己チューでなくなるなら 極楽になると言う。 ああーあと思って 嘆くならば ますます嘆かわしくなる。 それではと あわれに思い あわれもうとすると いや これは あわれむに値しない代物ぢゃわいとなる。 取ってつけたような虫のよいきれいな理念の主張から わたしたちは卒業しなければならないはずだ。 だとすれば どうすれば よいでしょう?
- 仏教の教えは唯一つ
念ずるのである。 この世の全ては無であり空であると、 ただひたすら念ずるのである。 嬉しかろうが、楽しかろうが、有り難かろうが、苦しかろうが、悲しかろうが、そのようなことはどうでもよいのである。 念ずるとは如何なる場合であれ、この世の全ては無であり空であると、ただひたすら念ずるのである。 このように念ずることにより、 人はみな生きることの苦から解き放たれ、 救われるのである。 仏教の教えは唯一つ、これではないか。 補足: 「色即是空空即是色」 → この世の全ては無であり空である。 「義無きを以って義とする」 → ただひたすら念ずる。
- 締切済み
- 哲学・倫理・宗教学
- utayomi_2011
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