NemurinekoNya の回答履歴
- 哲学の本を探しています 功利主義について
功利主義について書かれている哲学の学術書を探しています。 大学の課題で本を3冊読んでレポートを書かなくてはいけないのですが 学校の図書室や、周りの本屋や図書館をまわっても2冊までしかみつからず とても困っています。 ネットなどの通販で買おうと思うのですが、ネットだと中身がわからないので タイトルを見て買ってから中身が思っていたのと違うと嫌なので おススメのものがあれば、是非書名を教えていただきたいです。 功利主義の本ならたくさん検索でみかけるのですが、 哲学の専門書で、著者が大学の先生のようアカデミックなものでないといけない という指定付きなので探すのに苦労しています。 宜しければ、どうか力をかしていただきたいです・・・。
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- sanderrr12
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- 流れとして、哲学は懐疑論の方向へ向かっていますか?
こんにちは。 今日では至る所に「相対化」という文字があふれて、数学や哲学でもで「不完全性」であるとか「翻訳の不確定性」「理論の不確定性」などが言われています。 大きな流れとして哲学は、懐疑論の方向へ向かっているのでしょうか?
- スピノザのエチカ末尾の言葉の意味。
「すべて高貴なものは稀であるとともに困難である」スピノザの著作エチカ末尾のこの言葉はどういう意味でしょうか? スピノザについてはwikipedia程度、倫理学全体については大学受験程度の理解なので、その前提で回答貰えると嬉しいです。
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- maple_OKWave
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- 《虚数》という想像力の世界に現実はあるか(つづき)
1. まづ タトエと推測とによって話を運ぼうとするお話です。というのが 前提です。 趣旨説明を述べます。 2. まづ ことは ひとの意志行為です。これに注目します。 3. たとえば実数であれば 意志のあり方は――その表明にまで到ればなおさらですが―― イエスかノーかあるいはその中間でまだ決められないか この二つないし三つに分かれると思われます。まづほかにはないでしょう。 4. ところが 虚数の概念を仮りに導入したら どうなるか? 5. たとえば イエスもノーもまだまだ決める段階にはない。いえ その情況はすでに相手から答えを求められ決断を迫られている段階ではあるのですが どういうわけか(つまり これが 虚数の世界であるかも知れないのですが) 実数としての意志決定をしぶっている。 6. つまりは言いかえると これは 大きく見れば いまの段階としては〔その人にとっては〕不確かな実数の世界( a )とそして同じくいま考えあぐねているその想像の雲に乗った小世界( b i )とで構成される複素数( a + b i )としての実態である。ということになりましょうか? いえ どうなのでしょうか? 7. いまもし ひとがたとえば人間不信に落ち入っていて世の中に反感しか持ち得ず もはや実数としての意志決定を成し得なくなっているとしたら どうなるでしょう? 8. いまの仮説のかぎりで その人は 虚数の世界にのみあることになります。すべては 想像をめぐらしつづけているだけとなる。と言えばまだ恰好がついているかも知れませんが 実際は その想像というのは うたがいに満ちさらにはその猜疑心があるいは敵対心にまで広がっているかも分かりません。 8-1. ということは 現代韓国人の――特には日本人に対する――心的現象を分析しようとしているわけです。 9. もし人の生きることが 自己表現であり 自己表現は それとしておのれの文体を成すとしたら おそらくそれは《わたしがわたしであるそのわたしが わたしする》動態であると見ます。 10. 言いかえると わが自己表現の文体は 《わたしがわたしである》その自己同一性のさらに自乗として限りなくつづく過程である。 11. 《わたし》が 数として一であるならば 一の限りなき自乗として一である。と同時に ときには多少とも道草を食いつつまたそこから脱線をもしつつ 元の一に立ち戻って生きる( 1^n = 1 )。 12. ところが 現実は 複素数である。かも知れない。 13. 虚数の動きが 外から心に忍び込んで来るゆえなのか自分から何を思ったかおのれ自身をめぐるあらぬ物語を紡ぎ始めるゆえなのかどうなのか 起きて来る。 14. おまけに《一》から脱線したときには 元の動態とその軌道が分からなくなる。もはやそこでは あたかもあの悪名高きムラカミハルキ・ワールドつまりモヤモヤ・ワールドのごとく 虚数なる想像一色の世界となる。 15. 自己表現の動態としてありつつも 実数としての意志決定が・したがって意志表明もが できない。できなくなる。 15-1. ただ敵対すると思い込んでいる相手つまり仮想敵に対してあらん限りの罵りをのみ叫び続ける。 16. 代わりに ひょっとするとその虚数なる想像力をたくましくしてあたかも巨大な繭をつむぎその時空間の中にあそぶというかのような虚構世界を生きるということかも知れない。《ウリナラ・ファンタジー》。 17. もしこの現実としての複素数なるわが文体が その中で実数( a )が消えてゼロになり 虚数( bi )のみによって成るかたちを取ったとしたら どうなるか? 18. 《わたし》の自乗の動態は あたかも マイナス一( -1 )となる。 18-1.ひとつの解説をすでに得ています。 ◇ ~~~~~~~~~~~~ 一度の《へそ曲がり》は潜在化の過程、さらに《へそを曲げる》と顕在化する。 1×i = i : (へそ曲がりの)潜在化の過程 i×i = -1 : (へそ曲がりの)顕在化の過程 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 19. これでは 社会における交通(マジハリ)が成らない。成し得ない。 20. というふうに推し測った仮説です。 いづれの論点についてでもよいですから ご教授ください。 21. おまけもしくは余分: 悪名高きモヤモヤ・ワールドは 精神分析ワールドでもありますが 日本人のあいだでは やはりむしろブディズム――その悪しき部分――に放射能源はあるのではないか? 22. つまり《さとり》についての満ち溢れるゴミ解釈が社会の処理能力を超えて無限に造り出されていはしまいか? 虚数としてかんたんに誰でも言えるからのように。 23. これは 人間にとって不幸である。千年一日のごとき生活幻想がつづく。そういう部分がどこかで根を張っている。言いかえると ゴータマ・ブッダの《大芝居:大化城》なる桃源郷に避けどころを見出そうとする心の動きである。 24. つまり――減らず口をたたき続けますが―― わが日本人にあっては 外に仮想敵をつくり敵対心を発散させることによって 日頃のうっぷんの捌(は)け口とするシワザは おこなわないようではある。 25. ひとはすべからく現実に向き合わざるべからず。過去は捨てよう。 26. なおこの設問は 《存在とは何か?》なる問いに答えようとする問い求めです。《現実存在 つまり 要らぬ過去(脱線)を捨て余計な想像世界(本質論)を脱ぎ捨てて現実に向き合う存在⇒つまり 実存》 これが 《わたし》であり《存在》だという仮説です。
- 青々しい議論:政治も経営も愛である。か?
おなじみに成ったかとも思いますが 創世記におけるひとの創造なる記事を解釈して 《ひとは神の似像(にすがた)である》という命題を得る。そして それの中身を推し測ったというひとつの理論を提出します。 ▲ (創世記1:27) 神はご自分にかたどって人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。 ○ (ひとは 神の似像である。) ~~~~~~~~ ――ひとと社会の成り立ちについての図式―― 光のたとえ・・・・・・・・・光(光源・・・・・・発耀・・・・・明るさ・暖かさ) 三位一体なる神・・・・・神(父なる神・・・子なる神・・・聖霊なる神) ____________________________ スサノヲ市民( S )・・・アマテラス公民( A ) ____________________________ 身体〔の運動〕・・・・・精神・概念(記憶・・・・・知解・・・・・意志) ・・・・・・・・・・・・・・・・・↓・・・・・・・ (↓・・・・・・・↓・・・・・・・↓) [S者/S圏] 個体・・・・・・・・・・・・家 族 ( 秩序・・・・・労働・・・・・・愛) 社会主体・・・・・・・・自治態勢(自治組織・・〔生産〕・・共同自治) 経済主体・・・・・・・・生産態勢(組織・・・・・・生産・・・・・・・経営 ) 政治主体・・・・・・・・・↓ ・・・・・・・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓ [A者/A圏] ・・・・・・・↓・・・・・・ ・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓ 社会科学主体・・・・・社会形態(社会組織・・経済活動・・・政治 ) 〃・・・・・・・・・・・・・(国 家 : 司法・・・・・立法・・・・・・・行政 ) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 政治は 共同自治であり経営であり愛であるという仮説です。 光の持つ明るさ・あたたかさに譬えられる聖霊なる神に似ている。それが 自治であり経営であり共同自治であるという単純な青い理論です。どうでしょう?
- 哲学は新しい時代の扉を開ける鍵になり得るか?
私は成り得るのではないかと思って考えました が未だ開けるどころかビクともしません みなさんはどう思いますか? 世界を科学と政治に任せておいて 明るい未来が開けると思いますか? 資本主義の改革や戦争の撲滅 宗教の対立まで 哲学に課せられた責任は重いと思うのですが 実際にそれは可能でしょうか? ご意見を端的にお聞かせください。よろしくお願いします。
- 足を必死で引っ張ろうとするかわいそうな人たち
なんだか… テレビのスクープ映像(笑)なんか見てていつも思うのですが、すごいびっくりします。 この人たち何が望みなんだろうと思います。 人生に関係のない人に、よくそんなに必死になれるな怖ーい、と。 対処のしかたを教えてください。
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- sakuragarihira
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- 『プチ幻術師』=『特異型ワイドレンジ認識体』か?
『プチ幻術師』=『特異型ワイドレンジ認識体』か? 私は脳の奇形児です。ですが、健常者のフリで何とか生きてこられました。ここに全てを書いても「単なる妄想だろ?」と思われるだけなので、実際に起こせる「尋常でない現象」を少しだけ紹介しましょう。 皮膚表面に「ボース・アインシュタイン凝縮」と酷似した、細胞群が現れる。黒光りしており炭素をイメージさせ実際に、光学・触覚にて確認可能な事実。/あとは、超弦理論の本を立ち読みしていると、その「ひもの形状」に酷似した、黒いひもが私の皮膚表面には、無数に存在しており、独自に取り出してみることも可能だったが、毛のようなその光を基本的に吸収する「ブラックマター」は、引き抜きて2秒しないうちに、光の中に溶けて消え失せるのです。 /また、普通紙に「同じ長さの2本の弧」を描き、その片方を私は、ボールペン・インクが染み込んでいる状態から、眼力のみで黒いひもが、白い紙から浮き出てくるようにできます。その片端から、徐々に立体化したインクをツメで、ギュッと奥に押し込んで、ひもが短くなる方向に、どんどん押し込むと、なんと、比較の為の別の線より、随分と短くなっているのです。これを、最後まで苦労してやり続けると、最後は、端の1点に押し込む事で、全て終わります。その実験紙も保存してあるので、ご要望とあらばお見せしますが・・・。 /一体、自分に何が起こっているのか?と考えてみると、いくつかの仮説が考えられますが、最近の最新の「無時間アナログ計算機」と名付けた「私の勘ピューター」が導き出した最新の結果は、表題にあるように【お前は、通常の認識体ではなく、『特異型ワイドレンジ認識体(仮称)』とでも呼ぶべきモノであり、量子の確率分布を意識的にも無意識的にもイジッてしまう、奇妙な「認識体か?どうか?」さえ、微妙に怪しい「モノノケ」のようなモノである】と、 計算結果が出たので、それを疑い検証してみると、確かに「量子交換」が行われている皮膚などの表面に尋常でないパターンが出現しても、それらが【「幻覚であると同時に存在している可能性」の存在確率分布を「ワイドレンジの五感」で認識しているなら】ば、すべてのつじつまが合う、と、物理学のド素人である私にも、何となく解る気がするのだ。/だれか、お助けください(哲学的で構わない・なにせプロトサイエンスに属する事象ゆえ科学で扱うには時期尚早)。皮膚細胞のサンプルなら、少しなら研究材料にしてもよいですから・・・
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- ふじ-さん おたま-さん
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- 「生命の本質」を否定している「善」は、
>「「生命の本質」を否定している「善」は、一般的にはなりません。」 受け売りです。 どういうことでしょう?
- なぜ、ガンや疫病の実在特効的治療法が未だタブー?
なぜに、「全てのガン、や疫病(菌類感染症など)」への、約15年前に既に動物実験で、ほぼ100%有効(当然、末期患者では有効でないケースもあるだろうが)な『実在特効的治療法』が、未だタブーとされ公益を害して見えるのか? ・誰でも知っているような有名すぎる治療法なので、私は命名されたか?どうか?さえ知らないが、その、あまりに「見事なメカニズム」は、動物実験の取材テレビ番組で解説されたら、医療に疎い私でさえ『なるほど~~、これなら、ガン細胞が何処に潜り込んでも、殺せるじゃん! ズンゲー!』と感心し、5年後には普及するかと思いきや、もう15年以上経つのに、新聞広告の片隅で「チラリと人間用の治療として、宣伝している医療機関が1つあるのみ」で、全人類的には、どうやら広まっていないようだ。 自分なりに、理由を考えた。それは: ++++++++++ ・2014現在、ガン関連ビジネスは【医療機器メーカーからガン保険会社】まで、莫大なカネがからんだ大産業化に移行したため、【医療機器メーカー~ガン保険会社等までの各種業界】から『謝礼(カネか?)』を押し付けられ受け取ること(ソデの下)が可能な、 ・権威ある病院長や、それに従わざるを得ない医師達が、わざわざ患者の命を救ってまで、オイシイ事(カネや、将来の地位、かも)を、簡単に手放す訳がない! それに患者は早死にされてもカネにならんので、ほどよいタイミングで逝ってもらう【ように、うまくやる】のが最もカネになる!(利益追求=資本主義の宿命)、と断言できる程に『自己チュー化』が医師の理念を歪め心底まで浸透しているからであり、 ・さらに【あの治療法】に言及するのは、いまや国際マネービジネスの大黒柱に関わる、政治家がらみの国際問題まで発展するアブナイハナシであり、誰も、罪を追求されたくないのでタブー化しているのである》 +++++++++ と、いうのが私の仮説ですが、これを読んだ読者様は「ほとんど知らない事実」であったり、する場合があるのだろうか? まさか・・・ね。 Repeat:【なぜ、「ガンや疫病」の『実在特効的治療法』が未だタブー?】 ※当該質問は『タブー化』を質問の主題にしているため、哲学カテゴリーにしております。
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- ふじ-さん おたま-さん
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- 非英米系哲学研究者の胸中について。TT
こんにちは。 この質問でお尋ねしたいことは、 (1)非英米系哲学研究の学者の方々が研究としてなさっていることとはどんなものであるのか?真の学問?それともただのお勉強? (2)自然科学化された哲学に対して何を思いつつ自らの研究をなさっているのか? (3)哲学科の学者は、数学や論理学をどのように受け止めているのか。 (4)学問としての哲学にはどのような道が残されているのか? といったことです。 20世紀を経て今の哲学には自然化の波が押し寄せ、認識論が自然科学の学問に下るのではないかという悲壮的なムードが漂っています。 英米系の人たちは、最先端の論理学や数学を駆使して、伝統的な哲学に対して次々と否定的な評価を下しています。 さて、このような情勢の中で伝統的哲学を専門とする学者の方々は、どのような思いでご自分の研究をなさっているのでしょうか? また伝統的哲学に含められない哲学であっても、論理学の色が薄い哲学者(浅薄な知識ですので的確ではありません。フッサールやガダマー、デリダやレヴィナスなどでしょうか)を研究されている学者の方々は何を思って研究をなさっているのでしょうか? 近代やそれ以前の哲学者を専門とされておられるような大学の先生方のなかには、「大学教授のやっていることはお勉強に過ぎない」と卑下される方もいらっしゃいますが、なかには哲学者としての矜持をもって取り組んでおられる方もいらっしゃいます。 しかしながら、数学者や論理学者らがもっている道具を持たずして、今後の哲学を切り開いていくことは難しいのではないでしょうか…?そういった道具を身に着けずにができることと言えば、もはや昔の哲学者のお勉強に過ぎないのではないでしょうか…? いかがでしょうか?TT 例えばフッサールの生活世界に論点を当てて論文を書いておられる研究者、アクィナスにおけるなんとかとかいうラテン語の単語について論文を書いておられる研究者、こういった方々は、英米系の論理ワールドを見て何をお思いになるのでしょうか? それでもなお哲学者だという矜持を持てるとしたら、それはなにに依っているのでしょうか? お願いします。
- 《わたしは愛である》で 道を歩んで行けるか?
▲ (ヨハネによる福音書 14:6 ) ~~~~~~ イエスは言われた。 「わたしは道であり、真理であり、命である。 ▲ (KJV John 14:6) ~~~~~~~~~~ Jesus saith unto him, I am the way, the truth, and the life: ▲ 14:6 ~~~~~~~~~~~~~~~ λέγει αὐτῷ ὁ Ἰησοῦς Ἐγώ εἰμι ἡ ὁδὸς καὶ ἡ ἀλήθεια καὶ ἡ ζωή ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これは・つまり《わたしは道であり、真理であり、命である》は 神がその昔モーセに自分の名を明かしたときの《わたしはある(エフヱ―)》を引き継いでいるものと考えられます。 ▲ (出エジプト記 3:14) 神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ(エフヱー アッシェル エフヱ―)」と言われ ☆ 《存在》が 《真理・生命・道》と表わされた。つまりところが このように一人称のワタシで語ったとしても じつは 神が《〈わたしはある〉 それがわたしだ》と名乗ったときと同じように このワタシは 非人称なのである。なぜなら ワタシと言っていても 人間ではないのだから。 ここで 《真理と命》とは ひとまづ措いておきます。《道》を取り上げます。 つまり 非人称の誰かが・つまりそのナゾの何ものかが 自分は道だと言ったというのなら では人間は 何と名乗ればよいか? というのが この質問の主題であり問いです。 たたき台があると 話がすすみます。そこで ○ わたしは愛である。〔と人間が語った〕。 という事態を取り上げます。これは 非人称ではありません。自己紹介のような文であり命題です。 すなわち――話をすすめるための論理を飛ばしている嫌いがありそのことを自覚していますが―― もしひとが《わたしは愛である》と言って おのが人生なる道をあゆむ ということがあり得るか? それでよいか? を問います。 ここは 聖書の系譜として問うていますが それに囚われずにお考えを述べてくだされば さいわいです。 すなわち論点ないし焦点は 《非人称》による表現を人がおのれの血とし肉とした場合 どうなるか? どう自己表現するか? にあります。非人称の表現なる《 Es denkt. (それが考える)》を超えたいという魂胆です。 愛とは スサノヲ市民のおのが自治ないし自己経営のことです。
- 《嫌いだけど》・・・
●よく、好きなことは続ける事が出来ると言いますが、逆に嫌いなことを好きになって続ける方法はあると思いますか?ちなみに、あなたが好きなケーキを教えてください。(モンブラン食べたい・・・)
- 《嫌いだけど》・・・
●よく、好きなことは続ける事が出来ると言いますが、逆に嫌いなことを好きになって続ける方法はあると思いますか?ちなみに、あなたが好きなケーキを教えてください。(モンブラン食べたい・・・)
- 1+1=2では無いとすると神様は実在する?
ルーシーという映画を観ました。 その中に 1+1=2では無い、それは人間が作った概念、宇宙には時間という尺度しか無い との内容が出てきました。 私は関心して観ていたのですが、 この理論をつきつめると 人間の尺度は宇宙に通じ無い事になります 。 しかしながら、時間が在る、という概念は 人間が作った尺度です。 時間もそうですし 存在するという考えかたもそうです。 自分なりに尺度の基準を考えると 自分の意思のみが宇宙であって 基準の様に思えます。 自分の身体も含めてだが 自分の意思以外は本当に存在するのだろうか? で、考えが行き詰まると 神様(に該当する人間の尺度では計れない巨体な力)が全部作ったのか? となりました。 幼稚な哲学ですが変過ぎますか?
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- tomiihappy
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- 哲学は新しい時代の扉を開ける鍵になり得るか?
私は成り得るのではないかと思って考えました が未だ開けるどころかビクともしません みなさんはどう思いますか? 世界を科学と政治に任せておいて 明るい未来が開けると思いますか? 資本主義の改革や戦争の撲滅 宗教の対立まで 哲学に課せられた責任は重いと思うのですが 実際にそれは可能でしょうか? ご意見を端的にお聞かせください。よろしくお願いします。
- 1+1=2では無いとすると神様は実在する?
ルーシーという映画を観ました。 その中に 1+1=2では無い、それは人間が作った概念、宇宙には時間という尺度しか無い との内容が出てきました。 私は関心して観ていたのですが、 この理論をつきつめると 人間の尺度は宇宙に通じ無い事になります 。 しかしながら、時間が在る、という概念は 人間が作った尺度です。 時間もそうですし 存在するという考えかたもそうです。 自分なりに尺度の基準を考えると 自分の意思のみが宇宙であって 基準の様に思えます。 自分の身体も含めてだが 自分の意思以外は本当に存在するのだろうか? で、考えが行き詰まると 神様(に該当する人間の尺度では計れない巨体な力)が全部作ったのか? となりました。 幼稚な哲学ですが変過ぎますか?
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- tomiihappy
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- ヒトは二度造られた?(創世記)
聖書・創世記には 神がヒトを創造したという記事が二度出て来ます。二度ってどういうことか? について問います。 ○ 一度目: ▲ (創世記1章 27節) ~~~~~~~~ 神は御自分にかたどって人を創造された。 神にかたどって創造された。 男と女に創造された。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ○ 二度目は込み入っています。: ▲ (創世記 2:7-24 ) ~~~~~~~~~ 7: 主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。 8: 主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた。 ・・・ 18: 主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」 19: 主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。 20: 人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった。 21: 主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。 22: そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、 23: 人は言った。 「ついに、これこそ わたしの骨の骨 わたしの肉の肉。 これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」 24: こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。 ・・・ ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 単純に解釈するなら 二度目は ヒトに男と女との区別があることを述べたまでという見方があります。しかし 一度目にすでに 男と女との性差については述べてある。 ほかに解釈はありますか? また 問題はありますか? 一度造られているのに ふたたび造ったというところは おかしいと考えられます。 これは 聖書記者〔グループ〕が分かれていて それぞれの書いた記事をともに採用し載せたという見方があるようです。 そのほか自由なご意見をどうぞ。
- ヒトは二度造られた?(創世記)
聖書・創世記には 神がヒトを創造したという記事が二度出て来ます。二度ってどういうことか? について問います。 ○ 一度目: ▲ (創世記1章 27節) ~~~~~~~~ 神は御自分にかたどって人を創造された。 神にかたどって創造された。 男と女に創造された。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ○ 二度目は込み入っています。: ▲ (創世記 2:7-24 ) ~~~~~~~~~ 7: 主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。 8: 主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた。 ・・・ 18: 主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」 19: 主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。 20: 人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった。 21: 主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。 22: そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、 23: 人は言った。 「ついに、これこそ わたしの骨の骨 わたしの肉の肉。 これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」 24: こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。 ・・・ ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 単純に解釈するなら 二度目は ヒトに男と女との区別があることを述べたまでという見方があります。しかし 一度目にすでに 男と女との性差については述べてある。 ほかに解釈はありますか? また 問題はありますか? 一度造られているのに ふたたび造ったというところは おかしいと考えられます。 これは 聖書記者〔グループ〕が分かれていて それぞれの書いた記事をともに採用し載せたという見方があるようです。 そのほか自由なご意見をどうぞ。