Revoltes の回答履歴

全16件中1~16件表示
  • 「真理はわれらを自由にする」では社会は真理か?

    真理とは ありのまま誤りなく認識されたことのあり方 と Wikipedia にはあった。しかし我々の目には ありのまま に認識する能力は はたして有るのだろうか。この世界には 可視光以外にも 色々な光が明滅を繰り返しているのだ。 この視覚に於いて既に 我々が ありのままを認識できない事 を物語っているではないか。ああ 何という能力の至らなさ。 では我々の社会は 偽の上に造られた事になる。 そこで問いたいのです。偽の上に造られた社会に於いて 偽の上に造られた真理が 何を以て我々を自由にする事が できるのか? さっぱりです (。・ω・)

    • noname#150036
    • 回答数7
  • 元気っちゅうもんは人様にあげることができる?

    最近、若手の運動選手が、試合に負けたあとの感想表明などで、「みんなに元気をあげることが出来て良かった」とか、「これからもみんなに元気をあげたいと思います」などの発言をするのが気になります。 はたして、元気っちゅうもんは人様にあげることができるんですかい? いえね、ピカソのゲルニカを見て元気を貰う人がいたり、ベートーベンのハンマークラフィアを聴いて元気を貰う人がいるのだから、野球や水泳の試合を見て元気を貰う人がいたって一向に不思議じゃなないんです。疑問なのは、「貰う」方じゃなくて、「あげる」方なんです。 運動選手と言えば、嘉納治五郎や大山倍達の伝記を読んで、ずいぶん元気をもらった記憶がありますし、ベルリンオリンピックで活躍した水泳の前畑秀子選手からは元気を貰った人が多いと聞きます。しかし、嘉納さんや大山さんや前畑さんが「元気をあげたい」なぞと言ったでしょうか? 嘉納治五郎や大山倍達や前畑秀子たちが言わなかったことを、21世紀少年(少女)たちが発言するようになったのはなぜだと思いますか?

  • 元気っちゅうもんは人様にあげることができる?

    最近、若手の運動選手が、試合に負けたあとの感想表明などで、「みんなに元気をあげることが出来て良かった」とか、「これからもみんなに元気をあげたいと思います」などの発言をするのが気になります。 はたして、元気っちゅうもんは人様にあげることができるんですかい? いえね、ピカソのゲルニカを見て元気を貰う人がいたり、ベートーベンのハンマークラフィアを聴いて元気を貰う人がいるのだから、野球や水泳の試合を見て元気を貰う人がいたって一向に不思議じゃなないんです。疑問なのは、「貰う」方じゃなくて、「あげる」方なんです。 運動選手と言えば、嘉納治五郎や大山倍達の伝記を読んで、ずいぶん元気をもらった記憶がありますし、ベルリンオリンピックで活躍した水泳の前畑秀子選手からは元気を貰った人が多いと聞きます。しかし、嘉納さんや大山さんや前畑さんが「元気をあげたい」なぞと言ったでしょうか? 嘉納治五郎や大山倍達や前畑秀子たちが言わなかったことを、21世紀少年(少女)たちが発言するようになったのはなぜだと思いますか?

  • 元気っちゅうもんは人様にあげることができる?

    最近、若手の運動選手が、試合に負けたあとの感想表明などで、「みんなに元気をあげることが出来て良かった」とか、「これからもみんなに元気をあげたいと思います」などの発言をするのが気になります。 はたして、元気っちゅうもんは人様にあげることができるんですかい? いえね、ピカソのゲルニカを見て元気を貰う人がいたり、ベートーベンのハンマークラフィアを聴いて元気を貰う人がいるのだから、野球や水泳の試合を見て元気を貰う人がいたって一向に不思議じゃなないんです。疑問なのは、「貰う」方じゃなくて、「あげる」方なんです。 運動選手と言えば、嘉納治五郎や大山倍達の伝記を読んで、ずいぶん元気をもらった記憶がありますし、ベルリンオリンピックで活躍した水泳の前畑秀子選手からは元気を貰った人が多いと聞きます。しかし、嘉納さんや大山さんや前畑さんが「元気をあげたい」なぞと言ったでしょうか? 嘉納治五郎や大山倍達や前畑秀子たちが言わなかったことを、21世紀少年(少女)たちが発言するようになったのはなぜだと思いますか?

  • 元気っちゅうもんは人様にあげることができる?

    最近、若手の運動選手が、試合に負けたあとの感想表明などで、「みんなに元気をあげることが出来て良かった」とか、「これからもみんなに元気をあげたいと思います」などの発言をするのが気になります。 はたして、元気っちゅうもんは人様にあげることができるんですかい? いえね、ピカソのゲルニカを見て元気を貰う人がいたり、ベートーベンのハンマークラフィアを聴いて元気を貰う人がいるのだから、野球や水泳の試合を見て元気を貰う人がいたって一向に不思議じゃなないんです。疑問なのは、「貰う」方じゃなくて、「あげる」方なんです。 運動選手と言えば、嘉納治五郎や大山倍達の伝記を読んで、ずいぶん元気をもらった記憶がありますし、ベルリンオリンピックで活躍した水泳の前畑秀子選手からは元気を貰った人が多いと聞きます。しかし、嘉納さんや大山さんや前畑さんが「元気をあげたい」なぞと言ったでしょうか? 嘉納治五郎や大山倍達や前畑秀子たちが言わなかったことを、21世紀少年(少女)たちが発言するようになったのはなぜだと思いますか?

  • 元気っちゅうもんは人様にあげることができる?

    最近、若手の運動選手が、試合に負けたあとの感想表明などで、「みんなに元気をあげることが出来て良かった」とか、「これからもみんなに元気をあげたいと思います」などの発言をするのが気になります。 はたして、元気っちゅうもんは人様にあげることができるんですかい? いえね、ピカソのゲルニカを見て元気を貰う人がいたり、ベートーベンのハンマークラフィアを聴いて元気を貰う人がいるのだから、野球や水泳の試合を見て元気を貰う人がいたって一向に不思議じゃなないんです。疑問なのは、「貰う」方じゃなくて、「あげる」方なんです。 運動選手と言えば、嘉納治五郎や大山倍達の伝記を読んで、ずいぶん元気をもらった記憶がありますし、ベルリンオリンピックで活躍した水泳の前畑秀子選手からは元気を貰った人が多いと聞きます。しかし、嘉納さんや大山さんや前畑さんが「元気をあげたい」なぞと言ったでしょうか? 嘉納治五郎や大山倍達や前畑秀子たちが言わなかったことを、21世紀少年(少女)たちが発言するようになったのはなぜだと思いますか?

  • 元気っちゅうもんは人様にあげることができる?

    最近、若手の運動選手が、試合に負けたあとの感想表明などで、「みんなに元気をあげることが出来て良かった」とか、「これからもみんなに元気をあげたいと思います」などの発言をするのが気になります。 はたして、元気っちゅうもんは人様にあげることができるんですかい? いえね、ピカソのゲルニカを見て元気を貰う人がいたり、ベートーベンのハンマークラフィアを聴いて元気を貰う人がいるのだから、野球や水泳の試合を見て元気を貰う人がいたって一向に不思議じゃなないんです。疑問なのは、「貰う」方じゃなくて、「あげる」方なんです。 運動選手と言えば、嘉納治五郎や大山倍達の伝記を読んで、ずいぶん元気をもらった記憶がありますし、ベルリンオリンピックで活躍した水泳の前畑秀子選手からは元気を貰った人が多いと聞きます。しかし、嘉納さんや大山さんや前畑さんが「元気をあげたい」なぞと言ったでしょうか? 嘉納治五郎や大山倍達や前畑秀子たちが言わなかったことを、21世紀少年(少女)たちが発言するようになったのはなぜだと思いますか?

  • 「魔女の宅急便」をみてユートピアを考えました。

    スタジオ・ジブリのアニメーション映画で「魔女の宅急便」というのがありますが、久しぶりのテレビ再放送をみて、ユートピアを考えました。 この作品は、魔女の一家に生まれたお嬢さんが13歳になった機会に親元を離れて、自分が選んだ町で自分の能力を活用して自活・自立しようとする浪漫的な劇画です。 この作品の主題は少女の自立なのかもしれませんが、愚拙の印象に残るのは、その背景になる町と、その町の人々の生活です。 町は、アドリア海に面する坂の町かつ石の町のイメージで、時代は1950年ぐらいでしょうか?町にはキリスト教会を彷彿とする時計塔があり、シトロエン風のトラクシオン・アヴァンや、運転手と車掌の2名乗務のディーゼル・バスが走っているかと思えば、白黒のブラウン管テレビの放送があったり、トランジスタラジオがあるとおもえば、パン屋はマキを燃料とする竈(カマド)でパンを焼き、1930年代のツェッペリン号のような飛行船が飛来したりする想像上の町です。 路面電車にはなぜかKumadenという表示があって、日本で言えば熊本のイメージも入っているのかもしれませんね。 私がこの映像をみて感じるのは、すべて過去に人類が実現した生活・技術の組み合わせでありながら、現代の人類が経験している、競争社会、ストレス社会、うつ病社会、孤立社会とは異なり、なにか人と人の繋がり(あるいは魔女と人のつながり)があって、実際に見たこともない街に郷愁を感じる事です。 もちろん、これは、宮崎駿さんやスタジオ・ジブリの創造であり、虚像であるわけですが、この虚像を実現できなかった理由はなんでしょうか? すくなくとも科学技術ではありませんね。 我々が未来に求めるユートピアも科学技術の進歩によってもたらせると考えるのは間違えで、現代の人、あるいは19xx年代の人類が享受した科学技術の範囲内で人々が幸せを感じるユートピアができなくちゃイケねぇんじゃないのか? キリスト教原理主義者がイスラム教原理主義者に劣化ウラン弾を打ち込むわけでもなし、18歳の小娘が売春をするわけでもなく、出家坊主が肉食妻帯で葬式ビジネスにまい進するわけでもない社会。 そんなユートピアを作るのに21世紀の科学技術は必要なくて、今以上の科学技術も必要なくて、スマートフォンは必要なくて、MRIも必要なくて、交換手扱いの電話と、古典的な笑気ガスの麻酔ぐらいで良いののではないか。 だとしたら、現代に生きる我々は、スマートフォンとMRIと劣化ウラン弾を手にした我々はなぜユートピアを実現できないのか? 現代の科学技術でユートピアを実現するためには何が必要なのか?われわれに欠けているモノは何か?みなさんのお考えをご教示願えれば幸いです。

  • 「魔女の宅急便」をみてユートピアを考えました。

    スタジオ・ジブリのアニメーション映画で「魔女の宅急便」というのがありますが、久しぶりのテレビ再放送をみて、ユートピアを考えました。 この作品は、魔女の一家に生まれたお嬢さんが13歳になった機会に親元を離れて、自分が選んだ町で自分の能力を活用して自活・自立しようとする浪漫的な劇画です。 この作品の主題は少女の自立なのかもしれませんが、愚拙の印象に残るのは、その背景になる町と、その町の人々の生活です。 町は、アドリア海に面する坂の町かつ石の町のイメージで、時代は1950年ぐらいでしょうか?町にはキリスト教会を彷彿とする時計塔があり、シトロエン風のトラクシオン・アヴァンや、運転手と車掌の2名乗務のディーゼル・バスが走っているかと思えば、白黒のブラウン管テレビの放送があったり、トランジスタラジオがあるとおもえば、パン屋はマキを燃料とする竈(カマド)でパンを焼き、1930年代のツェッペリン号のような飛行船が飛来したりする想像上の町です。 路面電車にはなぜかKumadenという表示があって、日本で言えば熊本のイメージも入っているのかもしれませんね。 私がこの映像をみて感じるのは、すべて過去に人類が実現した生活・技術の組み合わせでありながら、現代の人類が経験している、競争社会、ストレス社会、うつ病社会、孤立社会とは異なり、なにか人と人の繋がり(あるいは魔女と人のつながり)があって、実際に見たこともない街に郷愁を感じる事です。 もちろん、これは、宮崎駿さんやスタジオ・ジブリの創造であり、虚像であるわけですが、この虚像を実現できなかった理由はなんでしょうか? すくなくとも科学技術ではありませんね。 我々が未来に求めるユートピアも科学技術の進歩によってもたらせると考えるのは間違えで、現代の人、あるいは19xx年代の人類が享受した科学技術の範囲内で人々が幸せを感じるユートピアができなくちゃイケねぇんじゃないのか? キリスト教原理主義者がイスラム教原理主義者に劣化ウラン弾を打ち込むわけでもなし、18歳の小娘が売春をするわけでもなく、出家坊主が肉食妻帯で葬式ビジネスにまい進するわけでもない社会。 そんなユートピアを作るのに21世紀の科学技術は必要なくて、今以上の科学技術も必要なくて、スマートフォンは必要なくて、MRIも必要なくて、交換手扱いの電話と、古典的な笑気ガスの麻酔ぐらいで良いののではないか。 だとしたら、現代に生きる我々は、スマートフォンとMRIと劣化ウラン弾を手にした我々はなぜユートピアを実現できないのか? 現代の科学技術でユートピアを実現するためには何が必要なのか?われわれに欠けているモノは何か?みなさんのお考えをご教示願えれば幸いです。

  • 「魔女の宅急便」をみてユートピアを考えました。

    スタジオ・ジブリのアニメーション映画で「魔女の宅急便」というのがありますが、久しぶりのテレビ再放送をみて、ユートピアを考えました。 この作品は、魔女の一家に生まれたお嬢さんが13歳になった機会に親元を離れて、自分が選んだ町で自分の能力を活用して自活・自立しようとする浪漫的な劇画です。 この作品の主題は少女の自立なのかもしれませんが、愚拙の印象に残るのは、その背景になる町と、その町の人々の生活です。 町は、アドリア海に面する坂の町かつ石の町のイメージで、時代は1950年ぐらいでしょうか?町にはキリスト教会を彷彿とする時計塔があり、シトロエン風のトラクシオン・アヴァンや、運転手と車掌の2名乗務のディーゼル・バスが走っているかと思えば、白黒のブラウン管テレビの放送があったり、トランジスタラジオがあるとおもえば、パン屋はマキを燃料とする竈(カマド)でパンを焼き、1930年代のツェッペリン号のような飛行船が飛来したりする想像上の町です。 路面電車にはなぜかKumadenという表示があって、日本で言えば熊本のイメージも入っているのかもしれませんね。 私がこの映像をみて感じるのは、すべて過去に人類が実現した生活・技術の組み合わせでありながら、現代の人類が経験している、競争社会、ストレス社会、うつ病社会、孤立社会とは異なり、なにか人と人の繋がり(あるいは魔女と人のつながり)があって、実際に見たこともない街に郷愁を感じる事です。 もちろん、これは、宮崎駿さんやスタジオ・ジブリの創造であり、虚像であるわけですが、この虚像を実現できなかった理由はなんでしょうか? すくなくとも科学技術ではありませんね。 我々が未来に求めるユートピアも科学技術の進歩によってもたらせると考えるのは間違えで、現代の人、あるいは19xx年代の人類が享受した科学技術の範囲内で人々が幸せを感じるユートピアができなくちゃイケねぇんじゃないのか? キリスト教原理主義者がイスラム教原理主義者に劣化ウラン弾を打ち込むわけでもなし、18歳の小娘が売春をするわけでもなく、出家坊主が肉食妻帯で葬式ビジネスにまい進するわけでもない社会。 そんなユートピアを作るのに21世紀の科学技術は必要なくて、今以上の科学技術も必要なくて、スマートフォンは必要なくて、MRIも必要なくて、交換手扱いの電話と、古典的な笑気ガスの麻酔ぐらいで良いののではないか。 だとしたら、現代に生きる我々は、スマートフォンとMRIと劣化ウラン弾を手にした我々はなぜユートピアを実現できないのか? 現代の科学技術でユートピアを実現するためには何が必要なのか?われわれに欠けているモノは何か?みなさんのお考えをご教示願えれば幸いです。

  • 「魔女の宅急便」をみてユートピアを考えました。

    スタジオ・ジブリのアニメーション映画で「魔女の宅急便」というのがありますが、久しぶりのテレビ再放送をみて、ユートピアを考えました。 この作品は、魔女の一家に生まれたお嬢さんが13歳になった機会に親元を離れて、自分が選んだ町で自分の能力を活用して自活・自立しようとする浪漫的な劇画です。 この作品の主題は少女の自立なのかもしれませんが、愚拙の印象に残るのは、その背景になる町と、その町の人々の生活です。 町は、アドリア海に面する坂の町かつ石の町のイメージで、時代は1950年ぐらいでしょうか?町にはキリスト教会を彷彿とする時計塔があり、シトロエン風のトラクシオン・アヴァンや、運転手と車掌の2名乗務のディーゼル・バスが走っているかと思えば、白黒のブラウン管テレビの放送があったり、トランジスタラジオがあるとおもえば、パン屋はマキを燃料とする竈(カマド)でパンを焼き、1930年代のツェッペリン号のような飛行船が飛来したりする想像上の町です。 路面電車にはなぜかKumadenという表示があって、日本で言えば熊本のイメージも入っているのかもしれませんね。 私がこの映像をみて感じるのは、すべて過去に人類が実現した生活・技術の組み合わせでありながら、現代の人類が経験している、競争社会、ストレス社会、うつ病社会、孤立社会とは異なり、なにか人と人の繋がり(あるいは魔女と人のつながり)があって、実際に見たこともない街に郷愁を感じる事です。 もちろん、これは、宮崎駿さんやスタジオ・ジブリの創造であり、虚像であるわけですが、この虚像を実現できなかった理由はなんでしょうか? すくなくとも科学技術ではありませんね。 我々が未来に求めるユートピアも科学技術の進歩によってもたらせると考えるのは間違えで、現代の人、あるいは19xx年代の人類が享受した科学技術の範囲内で人々が幸せを感じるユートピアができなくちゃイケねぇんじゃないのか? キリスト教原理主義者がイスラム教原理主義者に劣化ウラン弾を打ち込むわけでもなし、18歳の小娘が売春をするわけでもなく、出家坊主が肉食妻帯で葬式ビジネスにまい進するわけでもない社会。 そんなユートピアを作るのに21世紀の科学技術は必要なくて、今以上の科学技術も必要なくて、スマートフォンは必要なくて、MRIも必要なくて、交換手扱いの電話と、古典的な笑気ガスの麻酔ぐらいで良いののではないか。 だとしたら、現代に生きる我々は、スマートフォンとMRIと劣化ウラン弾を手にした我々はなぜユートピアを実現できないのか? 現代の科学技術でユートピアを実現するためには何が必要なのか?われわれに欠けているモノは何か?みなさんのお考えをご教示願えれば幸いです。

  • 「魔女の宅急便」をみてユートピアを考えました。

    スタジオ・ジブリのアニメーション映画で「魔女の宅急便」というのがありますが、久しぶりのテレビ再放送をみて、ユートピアを考えました。 この作品は、魔女の一家に生まれたお嬢さんが13歳になった機会に親元を離れて、自分が選んだ町で自分の能力を活用して自活・自立しようとする浪漫的な劇画です。 この作品の主題は少女の自立なのかもしれませんが、愚拙の印象に残るのは、その背景になる町と、その町の人々の生活です。 町は、アドリア海に面する坂の町かつ石の町のイメージで、時代は1950年ぐらいでしょうか?町にはキリスト教会を彷彿とする時計塔があり、シトロエン風のトラクシオン・アヴァンや、運転手と車掌の2名乗務のディーゼル・バスが走っているかと思えば、白黒のブラウン管テレビの放送があったり、トランジスタラジオがあるとおもえば、パン屋はマキを燃料とする竈(カマド)でパンを焼き、1930年代のツェッペリン号のような飛行船が飛来したりする想像上の町です。 路面電車にはなぜかKumadenという表示があって、日本で言えば熊本のイメージも入っているのかもしれませんね。 私がこの映像をみて感じるのは、すべて過去に人類が実現した生活・技術の組み合わせでありながら、現代の人類が経験している、競争社会、ストレス社会、うつ病社会、孤立社会とは異なり、なにか人と人の繋がり(あるいは魔女と人のつながり)があって、実際に見たこともない街に郷愁を感じる事です。 もちろん、これは、宮崎駿さんやスタジオ・ジブリの創造であり、虚像であるわけですが、この虚像を実現できなかった理由はなんでしょうか? すくなくとも科学技術ではありませんね。 我々が未来に求めるユートピアも科学技術の進歩によってもたらせると考えるのは間違えで、現代の人、あるいは19xx年代の人類が享受した科学技術の範囲内で人々が幸せを感じるユートピアができなくちゃイケねぇんじゃないのか? キリスト教原理主義者がイスラム教原理主義者に劣化ウラン弾を打ち込むわけでもなし、18歳の小娘が売春をするわけでもなく、出家坊主が肉食妻帯で葬式ビジネスにまい進するわけでもない社会。 そんなユートピアを作るのに21世紀の科学技術は必要なくて、今以上の科学技術も必要なくて、スマートフォンは必要なくて、MRIも必要なくて、交換手扱いの電話と、古典的な笑気ガスの麻酔ぐらいで良いののではないか。 だとしたら、現代に生きる我々は、スマートフォンとMRIと劣化ウラン弾を手にした我々はなぜユートピアを実現できないのか? 現代の科学技術でユートピアを実現するためには何が必要なのか?われわれに欠けているモノは何か?みなさんのお考えをご教示願えれば幸いです。

  • 「魔女の宅急便」をみてユートピアを考えました。

    スタジオ・ジブリのアニメーション映画で「魔女の宅急便」というのがありますが、久しぶりのテレビ再放送をみて、ユートピアを考えました。 この作品は、魔女の一家に生まれたお嬢さんが13歳になった機会に親元を離れて、自分が選んだ町で自分の能力を活用して自活・自立しようとする浪漫的な劇画です。 この作品の主題は少女の自立なのかもしれませんが、愚拙の印象に残るのは、その背景になる町と、その町の人々の生活です。 町は、アドリア海に面する坂の町かつ石の町のイメージで、時代は1950年ぐらいでしょうか?町にはキリスト教会を彷彿とする時計塔があり、シトロエン風のトラクシオン・アヴァンや、運転手と車掌の2名乗務のディーゼル・バスが走っているかと思えば、白黒のブラウン管テレビの放送があったり、トランジスタラジオがあるとおもえば、パン屋はマキを燃料とする竈(カマド)でパンを焼き、1930年代のツェッペリン号のような飛行船が飛来したりする想像上の町です。 路面電車にはなぜかKumadenという表示があって、日本で言えば熊本のイメージも入っているのかもしれませんね。 私がこの映像をみて感じるのは、すべて過去に人類が実現した生活・技術の組み合わせでありながら、現代の人類が経験している、競争社会、ストレス社会、うつ病社会、孤立社会とは異なり、なにか人と人の繋がり(あるいは魔女と人のつながり)があって、実際に見たこともない街に郷愁を感じる事です。 もちろん、これは、宮崎駿さんやスタジオ・ジブリの創造であり、虚像であるわけですが、この虚像を実現できなかった理由はなんでしょうか? すくなくとも科学技術ではありませんね。 我々が未来に求めるユートピアも科学技術の進歩によってもたらせると考えるのは間違えで、現代の人、あるいは19xx年代の人類が享受した科学技術の範囲内で人々が幸せを感じるユートピアができなくちゃイケねぇんじゃないのか? キリスト教原理主義者がイスラム教原理主義者に劣化ウラン弾を打ち込むわけでもなし、18歳の小娘が売春をするわけでもなく、出家坊主が肉食妻帯で葬式ビジネスにまい進するわけでもない社会。 そんなユートピアを作るのに21世紀の科学技術は必要なくて、今以上の科学技術も必要なくて、スマートフォンは必要なくて、MRIも必要なくて、交換手扱いの電話と、古典的な笑気ガスの麻酔ぐらいで良いののではないか。 だとしたら、現代に生きる我々は、スマートフォンとMRIと劣化ウラン弾を手にした我々はなぜユートピアを実現できないのか? 現代の科学技術でユートピアを実現するためには何が必要なのか?われわれに欠けているモノは何か?みなさんのお考えをご教示願えれば幸いです。

  • アルケーの神は偉大なり

      宇宙の法則、万物の根源であるアルケーの神を除いて神は存在しない アルケーの神は唯一絶対である、 アルケーの神は全知全能である、 アルケーの神は永遠無限である、 アルケーの神は永遠不変である、 アルケーの神は永遠不滅である、 アルケーの神は偉大である これを否定できる者などおるまい。  

  • なぜ、哲学のカテゴリーは荒れてしまったのか?

    哲学のカテゴリーがとても荒れてしまっている感じを受けます。 ・自説を主張したいだけなのに、問いかけの振りをする質問 ・同じ質問を何度も繰り返す ・特定の個人が質問を連投する ・自分の答えこそが正しいと、押し付けるような上から目線の回答をする ・質問者が理解できると思えない難解な用語を用いて回答をする。 そのような、書き込みがかなり目立って、荒れている印象を持っています。 どうしてこうなってしまったのでしょう。 見過ごしてスルーするには、あまりにも周りとの調和を考えない「荒らし」のような、質問、回答が多い気がします。 これらに、どう対応していけばいいのでしょう?  

  • 私達が国を駄目にしている

    本当に国を駄目にしている人って、私達国民一人一人じゃないですか? 学問のすすめの中に、 「酷い政府は愚かな民が作る」 「この程度の人民があるからこの程度の政府がある」 という言葉がありますが、全くその通りだと思いました。 皆メディア(ネット含む)に踊らされて批判ばかりで。 情報を手にした後、自分の力で考えている人はほとんどいないんじゃないでしょうか。 愛国心を気取っているネット右翼と呼ばれる連中も同じです。 テレビでしょーもないバラエティ番組ばっかりやってるのも、芸能ニュースが多いのも、私達がそれを求めて受け入れているからです。 マスコミが100%悪い訳ではありません。 需要と供給があって成り立つ訳です。 パソコンや携帯電話が普及しても、大半の人はSNS等で過剰な馴れ合いをしたりして暇を潰しているだけです。 道具を利用して実用性のある情報を集めて自分を高めよう、って人は少ないんじゃないでしょうか。 みーんな国の事なんか真剣に考えていないのに、自分に都合の悪い事があればいちいちケチをつける。 私達みたいな糞馬鹿な愚民には、石原都知事みたいな厳しい方がお似合いですね^^ ただの妄想があるかもしれませんが、読んでいただきありがとうございました。

    • noname#131394
    • 回答数4