IdeaMaster の回答履歴
- 「思慮深くて勤勉で哲学的で聡明な人程、視野が狭い。」と言うジレンマはあるのですか?
視野が広い=単純、能天気、浅薄、軟派、嫌な目に遭っても騙されても「こんな事ばかりじゃないさ。こんな悪い奴ばかりじゃないさ。」 とチャランポランするから、純粋で無邪気 視野が狭い=猜疑心が強く人を信じない、思慮深いから誰からも利用されたりしない、一度嫌な目に遭うと、警戒して塞ぎ込むから二度と同じ 失敗をしない故、賢い、 とこれは正しいですか? まあ結局、完璧賢い人間なんて存在しないんですよね? 視野ばかり広くて、思慮が浅いから、「単純」とか「浅はか」って言われるのではないですか? 今世代、視野の狭さこそが正義ではないですか? 形の無いものを信じるから、ロクな事が無いのでしょう? 視野だけ広くて浅薄なのは、所詮は都合の良い人間でしょう。 だから「良い人間」と言う事にはなりませんよね??
- 曲った事が嫌いで本が好きで正義感、責任感が強いような人に、「ストレス溜めるな。」と言っても、矢張り無理なんですかね?
「曲った事が嫌いで本が好きで正義感、責任感が強い」ような人に、「ストレス溜めるな。」と言っても、矢張り無理なんでしょうか? 思慮深い人に、「ストレス溜めるな。」と言っても、矢張り無駄なんですかね? 「勤勉で読書家で思慮深い」以上、ストレス中毒症を治すのは不可能ですか? 「穴の空いた鍋でスープを沸かせ。」、 「次の信号を左へ右折して下さい。」、 「牛肉をコレステロール抜きで御願いします。絶対ですよ。」 等と言う我儘と同じではないか、と思ったりもします。 ここで。私の友人S氏の基本的な性格は、真面目で几帳面で優しい、慎重で思慮深い、静かだけれど正義感も責任感も強い、曲った事が大嫌いで本が好きです。 反面、生真面目過ぎて神経質で疑り深くて気苦労が絶えません。ストレスはよく溜まりますし、精神的にめげやすいところもあります。 また、恋愛とか形の無いものも信用しません。 「モテたいとか熱くなる男に限って、モテないのだろ、どうせ。 そして、恋愛に興味無い、ニヒルで内向的な男が、見る目ある人からモテたりするってもんだろ。」 「性格だけ良い男女は、どうせ悪い異性から利用されるだけだろ。」 とか言う固定観念も。 それも、自分自身は経験していないのに、ただ 「本や漫画やドラマやバラエティ、法律相談番組等の、決まったシチュエーションを腐る程見て、それに飽き飽きしているだけだ。」 との事です。 ここで思うのですが。 矢張り、「硬派で読書好きで思慮深いからストレスが溜まる」、 「軟派で軽薄でチャランポランだからストレスが溜まらない」と言う事でしょうか? そのS氏ですが、極度に慎重で猜疑心の塊のようでもあります。 ただの硬派と言うより、"ダイヤモンド硬派"のようですかね。 ただのクールとかニヒルと言うより、まるで"ニヒリスト"のようです。 「自分過保護と思われない為の、自分過保護まで行う」為、まるで思慮深さに底がないのではないか、との事です。 時々、彼はモヤモヤすればこのように言う事さえあります。 「俺が、曲った事大嫌いで本を読むのが好きで正義感も責任感も強い事を知っていながら、何故"ストレス溜めるな。"とか言うんだろうな?拷問としか思えないがな。」 「"ストレス溜めるな。"と言う人ほど、ストレス溜まらない人に対してはどうせ『能天気な奴だなあ。』、『子供っぽいなあ。』『単純』とか言っているんじゃないのかな?」 とかですね。 どうなのでしょうか? 「曲った事が嫌いで本が好きで正義感、責任感が強い」且つ、「ストレスを溜めない」人は存在するのでしょうか? また、彼の思慮深さは、銀河を貫くんですかね? 彼の思慮深さは、ブラックホールを超えましたかね? 如何なものですかね?まるで視野を犠牲にして、思慮ばかり深くしている頭でっかちさんのようと言えましょうか?? 「物事には裏を表がある。」、 「天は二物を与えず」 とこんなものですかね?? では頑張って下さい。彼及び私目を、この暗黒の苦しみの渦(ジレンマ)から解放して欲しいのです。
- 「思慮深くて勤勉で哲学的で聡明な人程、視野が狭い。」と言うジレンマはあるのですか?
視野が広い=単純、能天気、浅薄、軟派、嫌な目に遭っても騙されても「こんな事ばかりじゃないさ。こんな悪い奴ばかりじゃないさ。」 とチャランポランするから、純粋で無邪気 視野が狭い=猜疑心が強く人を信じない、思慮深いから誰からも利用されたりしない、一度嫌な目に遭うと、警戒して塞ぎ込むから二度と同じ 失敗をしない故、賢い、 とこれは正しいですか? まあ結局、完璧賢い人間なんて存在しないんですよね? 視野ばかり広くて、思慮が浅いから、「単純」とか「浅はか」って言われるのではないですか? 今世代、視野の狭さこそが正義ではないですか? 形の無いものを信じるから、ロクな事が無いのでしょう? 視野だけ広くて浅薄なのは、所詮は都合の良い人間でしょう。 だから「良い人間」と言う事にはなりませんよね??
- 曲った事が嫌いで本が好きで正義感、責任感が強いような人に、「ストレス溜めるな。」と言っても、矢張り無理なんですかね?
「曲った事が嫌いで本が好きで正義感、責任感が強い」ような人に、「ストレス溜めるな。」と言っても、矢張り無理なんでしょうか? 思慮深い人に、「ストレス溜めるな。」と言っても、矢張り無駄なんですかね? 「勤勉で読書家で思慮深い」以上、ストレス中毒症を治すのは不可能ですか? 「穴の空いた鍋でスープを沸かせ。」、 「次の信号を左へ右折して下さい。」、 「牛肉をコレステロール抜きで御願いします。絶対ですよ。」 等と言う我儘と同じではないか、と思ったりもします。 ここで。私の友人S氏の基本的な性格は、真面目で几帳面で優しい、慎重で思慮深い、静かだけれど正義感も責任感も強い、曲った事が大嫌いで本が好きです。 反面、生真面目過ぎて神経質で疑り深くて気苦労が絶えません。ストレスはよく溜まりますし、精神的にめげやすいところもあります。 また、恋愛とか形の無いものも信用しません。 「モテたいとか熱くなる男に限って、モテないのだろ、どうせ。 そして、恋愛に興味無い、ニヒルで内向的な男が、見る目ある人からモテたりするってもんだろ。」 「性格だけ良い男女は、どうせ悪い異性から利用されるだけだろ。」 とか言う固定観念も。 それも、自分自身は経験していないのに、ただ 「本や漫画やドラマやバラエティ、法律相談番組等の、決まったシチュエーションを腐る程見て、それに飽き飽きしているだけだ。」 との事です。 ここで思うのですが。 矢張り、「硬派で読書好きで思慮深いからストレスが溜まる」、 「軟派で軽薄でチャランポランだからストレスが溜まらない」と言う事でしょうか? そのS氏ですが、極度に慎重で猜疑心の塊のようでもあります。 ただの硬派と言うより、"ダイヤモンド硬派"のようですかね。 ただのクールとかニヒルと言うより、まるで"ニヒリスト"のようです。 「自分過保護と思われない為の、自分過保護まで行う」為、まるで思慮深さに底がないのではないか、との事です。 時々、彼はモヤモヤすればこのように言う事さえあります。 「俺が、曲った事大嫌いで本を読むのが好きで正義感も責任感も強い事を知っていながら、何故"ストレス溜めるな。"とか言うんだろうな?拷問としか思えないがな。」 「"ストレス溜めるな。"と言う人ほど、ストレス溜まらない人に対してはどうせ『能天気な奴だなあ。』、『子供っぽいなあ。』『単純』とか言っているんじゃないのかな?」 とかですね。 どうなのでしょうか? 「曲った事が嫌いで本が好きで正義感、責任感が強い」且つ、「ストレスを溜めない」人は存在するのでしょうか? また、彼の思慮深さは、銀河を貫くんですかね? 彼の思慮深さは、ブラックホールを超えましたかね? 如何なものですかね?まるで視野を犠牲にして、思慮ばかり深くしている頭でっかちさんのようと言えましょうか?? 「物事には裏を表がある。」、 「天は二物を与えず」 とこんなものですかね?? では頑張って下さい。彼及び私目を、この暗黒の苦しみの渦(ジレンマ)から解放して欲しいのです。
- 人が 人のあやまちを赦すことができますか(つづき)
次の質問の続編です。 【Q:人が 人のあやまちを赦すことができますか】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4097397.html ○ (趣旨説明) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 赦さない あるいは 赦してはいけない と言おうとするのではありません。 赦すことができない つまり その能力を持ち合わせていないのではないでしょうか。 あるいは もしこういう言葉を用いるとすれば 赦す権利も資格も ないのではないでしょうか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ そこで得られた中間の結論として つぎです。 ○ 標語は 《赦さん。赦せん。死刑ぢゃ!》から 《更生せい!せんと承知せんぞ!》へ ○ (里程標) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ (1) 《赦す》という問題は 個人の領域に すべて 収められる。 (2) 《赦す・赦さない》は それを自由において口に出そうが出すまいが 個人としての主観内面に収まるものである。(外へ出して 表現してもよいが その効力は 別だということ)。 (3) この(1)(2)は 加害行為に関してその処理を 社会的な制裁と更生処置にすべてゆだねることとは別に その前から自分のこころのなかで言わば定まっている。(そういう自己独自の考えがはたらく領域がある)。 (4) 言いかえると 個人の《赦す・赦さない》行為と 加害行為に対する処置とは 直接のつながりは 初めから無いと見なされている。 (4-a ) (4)は 特に社会的な制裁などの取り決め(法律)がないような加害行為――たとえば いじめ――に関してあてはめると分かりやすい。 (4-b) ということは結論から言って社会は すでに初めからその成員の被害の発生をめぐって その予防・退治・手当てそして 加害者への制裁およびその更生にかんする措置を 備えているということ。(備えていなければならないということ)。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ この結論は 抽象的で分かりにくいかと思いますが あらためて展開していただけるとさいわいです。 (4‐b)は 法律制度の問題としてよりは ここでは(あくまでここでは) 隣近所や町内におけるその更生者とのつきあいの問題になるかと考えていました。
- 人が 人のあやまちを赦すことができますか(つづき)
次の質問の続編です。 【Q:人が 人のあやまちを赦すことができますか】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4097397.html ○ (趣旨説明) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 赦さない あるいは 赦してはいけない と言おうとするのではありません。 赦すことができない つまり その能力を持ち合わせていないのではないでしょうか。 あるいは もしこういう言葉を用いるとすれば 赦す権利も資格も ないのではないでしょうか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ そこで得られた中間の結論として つぎです。 ○ 標語は 《赦さん。赦せん。死刑ぢゃ!》から 《更生せい!せんと承知せんぞ!》へ ○ (里程標) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ (1) 《赦す》という問題は 個人の領域に すべて 収められる。 (2) 《赦す・赦さない》は それを自由において口に出そうが出すまいが 個人としての主観内面に収まるものである。(外へ出して 表現してもよいが その効力は 別だということ)。 (3) この(1)(2)は 加害行為に関してその処理を 社会的な制裁と更生処置にすべてゆだねることとは別に その前から自分のこころのなかで言わば定まっている。(そういう自己独自の考えがはたらく領域がある)。 (4) 言いかえると 個人の《赦す・赦さない》行為と 加害行為に対する処置とは 直接のつながりは 初めから無いと見なされている。 (4-a ) (4)は 特に社会的な制裁などの取り決め(法律)がないような加害行為――たとえば いじめ――に関してあてはめると分かりやすい。 (4-b) ということは結論から言って社会は すでに初めからその成員の被害の発生をめぐって その予防・退治・手当てそして 加害者への制裁およびその更生にかんする措置を 備えているということ。(備えていなければならないということ)。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ この結論は 抽象的で分かりにくいかと思いますが あらためて展開していただけるとさいわいです。 (4‐b)は 法律制度の問題としてよりは ここでは(あくまでここでは) 隣近所や町内におけるその更生者とのつきあいの問題になるかと考えていました。
- 人が 人のあやまちを赦すことができますか(つづき)
次の質問の続編です。 【Q:人が 人のあやまちを赦すことができますか】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4097397.html ○ (趣旨説明) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 赦さない あるいは 赦してはいけない と言おうとするのではありません。 赦すことができない つまり その能力を持ち合わせていないのではないでしょうか。 あるいは もしこういう言葉を用いるとすれば 赦す権利も資格も ないのではないでしょうか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ そこで得られた中間の結論として つぎです。 ○ 標語は 《赦さん。赦せん。死刑ぢゃ!》から 《更生せい!せんと承知せんぞ!》へ ○ (里程標) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ (1) 《赦す》という問題は 個人の領域に すべて 収められる。 (2) 《赦す・赦さない》は それを自由において口に出そうが出すまいが 個人としての主観内面に収まるものである。(外へ出して 表現してもよいが その効力は 別だということ)。 (3) この(1)(2)は 加害行為に関してその処理を 社会的な制裁と更生処置にすべてゆだねることとは別に その前から自分のこころのなかで言わば定まっている。(そういう自己独自の考えがはたらく領域がある)。 (4) 言いかえると 個人の《赦す・赦さない》行為と 加害行為に対する処置とは 直接のつながりは 初めから無いと見なされている。 (4-a ) (4)は 特に社会的な制裁などの取り決め(法律)がないような加害行為――たとえば いじめ――に関してあてはめると分かりやすい。 (4-b) ということは結論から言って社会は すでに初めからその成員の被害の発生をめぐって その予防・退治・手当てそして 加害者への制裁およびその更生にかんする措置を 備えているということ。(備えていなければならないということ)。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ この結論は 抽象的で分かりにくいかと思いますが あらためて展開していただけるとさいわいです。 (4‐b)は 法律制度の問題としてよりは ここでは(あくまでここでは) 隣近所や町内におけるその更生者とのつきあいの問題になるかと考えていました。
- 人が 人のあやまちを赦すことができますか(つづき)
次の質問の続編です。 【Q:人が 人のあやまちを赦すことができますか】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4097397.html ○ (趣旨説明) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 赦さない あるいは 赦してはいけない と言おうとするのではありません。 赦すことができない つまり その能力を持ち合わせていないのではないでしょうか。 あるいは もしこういう言葉を用いるとすれば 赦す権利も資格も ないのではないでしょうか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ そこで得られた中間の結論として つぎです。 ○ 標語は 《赦さん。赦せん。死刑ぢゃ!》から 《更生せい!せんと承知せんぞ!》へ ○ (里程標) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ (1) 《赦す》という問題は 個人の領域に すべて 収められる。 (2) 《赦す・赦さない》は それを自由において口に出そうが出すまいが 個人としての主観内面に収まるものである。(外へ出して 表現してもよいが その効力は 別だということ)。 (3) この(1)(2)は 加害行為に関してその処理を 社会的な制裁と更生処置にすべてゆだねることとは別に その前から自分のこころのなかで言わば定まっている。(そういう自己独自の考えがはたらく領域がある)。 (4) 言いかえると 個人の《赦す・赦さない》行為と 加害行為に対する処置とは 直接のつながりは 初めから無いと見なされている。 (4-a ) (4)は 特に社会的な制裁などの取り決め(法律)がないような加害行為――たとえば いじめ――に関してあてはめると分かりやすい。 (4-b) ということは結論から言って社会は すでに初めからその成員の被害の発生をめぐって その予防・退治・手当てそして 加害者への制裁およびその更生にかんする措置を 備えているということ。(備えていなければならないということ)。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ この結論は 抽象的で分かりにくいかと思いますが あらためて展開していただけるとさいわいです。 (4‐b)は 法律制度の問題としてよりは ここでは(あくまでここでは) 隣近所や町内におけるその更生者とのつきあいの問題になるかと考えていました。
- 復讐に意味はあるのでしょうか。
復讐に意味はあるのでしょうか。 憎しみとは一体なんなのでしょうか。 どう捉えれば良いのか、どう解消すれば良いのか、黙って飲み込むしかないのか、それとも復讐してすっきりした方が良いのか。 別の形で昇華させるなどとはとても考えられません。 また社会的にも倫理として反しているという事は知識として知ってはいても、その意味までは分かっていない状況なので、どなたか分かりやすく解説して頂けるのであれば幸いです。 宜しくお願い致します。
- 復讐に意味はあるのでしょうか。
復讐に意味はあるのでしょうか。 憎しみとは一体なんなのでしょうか。 どう捉えれば良いのか、どう解消すれば良いのか、黙って飲み込むしかないのか、それとも復讐してすっきりした方が良いのか。 別の形で昇華させるなどとはとても考えられません。 また社会的にも倫理として反しているという事は知識として知ってはいても、その意味までは分かっていない状況なので、どなたか分かりやすく解説して頂けるのであれば幸いです。 宜しくお願い致します。
- 復讐に意味はあるのでしょうか。
復讐に意味はあるのでしょうか。 憎しみとは一体なんなのでしょうか。 どう捉えれば良いのか、どう解消すれば良いのか、黙って飲み込むしかないのか、それとも復讐してすっきりした方が良いのか。 別の形で昇華させるなどとはとても考えられません。 また社会的にも倫理として反しているという事は知識として知ってはいても、その意味までは分かっていない状況なので、どなたか分かりやすく解説して頂けるのであれば幸いです。 宜しくお願い致します。
- 復讐に意味はあるのでしょうか。
復讐に意味はあるのでしょうか。 憎しみとは一体なんなのでしょうか。 どう捉えれば良いのか、どう解消すれば良いのか、黙って飲み込むしかないのか、それとも復讐してすっきりした方が良いのか。 別の形で昇華させるなどとはとても考えられません。 また社会的にも倫理として反しているという事は知識として知ってはいても、その意味までは分かっていない状況なので、どなたか分かりやすく解説して頂けるのであれば幸いです。 宜しくお願い致します。
- 復讐に意味はあるのでしょうか。
復讐に意味はあるのでしょうか。 憎しみとは一体なんなのでしょうか。 どう捉えれば良いのか、どう解消すれば良いのか、黙って飲み込むしかないのか、それとも復讐してすっきりした方が良いのか。 別の形で昇華させるなどとはとても考えられません。 また社会的にも倫理として反しているという事は知識として知ってはいても、その意味までは分かっていない状況なので、どなたか分かりやすく解説して頂けるのであれば幸いです。 宜しくお願い致します。
- 復讐に意味はあるのでしょうか。
復讐に意味はあるのでしょうか。 憎しみとは一体なんなのでしょうか。 どう捉えれば良いのか、どう解消すれば良いのか、黙って飲み込むしかないのか、それとも復讐してすっきりした方が良いのか。 別の形で昇華させるなどとはとても考えられません。 また社会的にも倫理として反しているという事は知識として知ってはいても、その意味までは分かっていない状況なので、どなたか分かりやすく解説して頂けるのであれば幸いです。 宜しくお願い致します。
- 五木寛之さん、仏教哲学がわからない
よろしくお願いします。 五木寛之の親鸞などの思想をもとに書かれている 本はもともと執着を離れる意味で 努力を重視しないという思想があるように感じるところが ありました。 ただ、あくまで執着の害悪をといているだけで否定するものでは ないのだろうなと思っていました。 ただ、最新の本に 『努力するのは自分が特別でありたいという心から(欲望的好意) そもそも人の営みの中で努力はしてもしなくても変わらない 誤差のようなものだ』 と努力を否定するようにも取れる表現がありました。 もちろん、親鸞と言えば悪人正気説ぐらいは思いつきいますので 努力をするから救われるというものではないという事はわかります。 であれば、仏教は執着を生む根源として努力を否定しているので しょうか? 五木さんが伝えたいのもそういう事なのでしょうか? また、例えばそうだとすると、皆が全く努力をしないとすると 世はすさみ疫病と餓死の累々と死体が転がる世になるでしょう。 たしかに、執着と煩悩は消えるかもしれませんが、その世が 仏教が希求する世界なのでしょうか? ご専門の方、体系的に理解されている方、どうしても抽象論に なりがちですが、本質的なご教授をいただけたら幸いです
- ベストアンサー
- 哲学・倫理・宗教学
- remonpakira
- 回答数19
- 五木寛之さん、仏教哲学がわからない
よろしくお願いします。 五木寛之の親鸞などの思想をもとに書かれている 本はもともと執着を離れる意味で 努力を重視しないという思想があるように感じるところが ありました。 ただ、あくまで執着の害悪をといているだけで否定するものでは ないのだろうなと思っていました。 ただ、最新の本に 『努力するのは自分が特別でありたいという心から(欲望的好意) そもそも人の営みの中で努力はしてもしなくても変わらない 誤差のようなものだ』 と努力を否定するようにも取れる表現がありました。 もちろん、親鸞と言えば悪人正気説ぐらいは思いつきいますので 努力をするから救われるというものではないという事はわかります。 であれば、仏教は執着を生む根源として努力を否定しているので しょうか? 五木さんが伝えたいのもそういう事なのでしょうか? また、例えばそうだとすると、皆が全く努力をしないとすると 世はすさみ疫病と餓死の累々と死体が転がる世になるでしょう。 たしかに、執着と煩悩は消えるかもしれませんが、その世が 仏教が希求する世界なのでしょうか? ご専門の方、体系的に理解されている方、どうしても抽象論に なりがちですが、本質的なご教授をいただけたら幸いです
- ベストアンサー
- 哲学・倫理・宗教学
- remonpakira
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- 五木寛之さん、仏教哲学がわからない
よろしくお願いします。 五木寛之の親鸞などの思想をもとに書かれている 本はもともと執着を離れる意味で 努力を重視しないという思想があるように感じるところが ありました。 ただ、あくまで執着の害悪をといているだけで否定するものでは ないのだろうなと思っていました。 ただ、最新の本に 『努力するのは自分が特別でありたいという心から(欲望的好意) そもそも人の営みの中で努力はしてもしなくても変わらない 誤差のようなものだ』 と努力を否定するようにも取れる表現がありました。 もちろん、親鸞と言えば悪人正気説ぐらいは思いつきいますので 努力をするから救われるというものではないという事はわかります。 であれば、仏教は執着を生む根源として努力を否定しているので しょうか? 五木さんが伝えたいのもそういう事なのでしょうか? また、例えばそうだとすると、皆が全く努力をしないとすると 世はすさみ疫病と餓死の累々と死体が転がる世になるでしょう。 たしかに、執着と煩悩は消えるかもしれませんが、その世が 仏教が希求する世界なのでしょうか? ご専門の方、体系的に理解されている方、どうしても抽象論に なりがちですが、本質的なご教授をいただけたら幸いです
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- remonpakira
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- 五木寛之さん、仏教哲学がわからない
よろしくお願いします。 五木寛之の親鸞などの思想をもとに書かれている 本はもともと執着を離れる意味で 努力を重視しないという思想があるように感じるところが ありました。 ただ、あくまで執着の害悪をといているだけで否定するものでは ないのだろうなと思っていました。 ただ、最新の本に 『努力するのは自分が特別でありたいという心から(欲望的好意) そもそも人の営みの中で努力はしてもしなくても変わらない 誤差のようなものだ』 と努力を否定するようにも取れる表現がありました。 もちろん、親鸞と言えば悪人正気説ぐらいは思いつきいますので 努力をするから救われるというものではないという事はわかります。 であれば、仏教は執着を生む根源として努力を否定しているので しょうか? 五木さんが伝えたいのもそういう事なのでしょうか? また、例えばそうだとすると、皆が全く努力をしないとすると 世はすさみ疫病と餓死の累々と死体が転がる世になるでしょう。 たしかに、執着と煩悩は消えるかもしれませんが、その世が 仏教が希求する世界なのでしょうか? ご専門の方、体系的に理解されている方、どうしても抽象論に なりがちですが、本質的なご教授をいただけたら幸いです
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