こんばんは。
買ったばかりの一般的な市販品は、ほとんど意味がありません。単なる飾りです。
ある意味では、そういう行為は、フェティシズムやキリスト教等で批判する偶像崇拝です。
しかし、世界には、例えば、宝石の類の中で、伝説的ないわくつきなものはいくつか存在しているようです。日本では、人形などには、いろんないわくつきのものがあります。
また、人によっては、単なる気休めのようなものではあっても、それを捨てられずに残しているものもあります。それは、その人の思いといっしょに封じられているからです。
仏像を偶像崇拝と批判する人もいますが、ただの造物とみるかどうかは、その人の心の問題だと思います。もちろん、仏教で、仏像を拝みなさいなどは、書かれているわけではありません。そこには、大勢の人の思いや願いが込められているということを、みえる人とみえない人がいるのです。
例えば、よくある話ですが、恋人や母親から貰ったお守りを持って、困難な事に臨むとか、そこに思いが込められていると思うからこそ、モノは意味を持つのだと思います。戦争中の千人針も同様です。
人の思いが強ければ強いほど、そのモノは、何らかの力が生まれてくるはずです。
正確な記憶ではありませんが、昔、田淵幸一さんが、阪神で活躍している時代に、彼の奥さんは、小さな水晶玉だったと思いますが、それを手に入れて、神社に奉納し1週間祈願したものを、田淵さんに持たせたという話がありました。
また、昭和40年前後の古い話で、横浜近郊だと思いますが、ある男性の話で、ふだん故障などしない、大事にしている腕時計が止まってしまい、電車に乗り遅れてしまったら、電車衝突の大事故があり、それに乗らずに済んだという人もいます。
信じない人は信じないでよいと思います。
人の愛情も思いも目にみえるものではありません。愛情あるモノに対して何も感じない人、人の目に見えないものを信じないという人、物をモノとしか見れない人もいるかとは思います。それは、それまでです。
お礼
ファッションでつけてる人しか認められないです、心情的に。 ありがとうございました。