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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:絵をやめていたけど、再開したことのある方)

絵をやめていたけど、再開したことのある方

このQ&Aのポイント
  • 絵を描くのが大好きだったが、高校以降描く機会を失い、再開しようと試みるも自然な気持ちで描けない状況に悩んでいる。
  • 色々な方法を試しても突破口が見つからず、自己啓発の本で埋もれた才能を復活させるためには感情の行き来が必要だと理解。
  • 27歳になり、手さぐり状態でどうやってこの状態から抜け出せるか悩んでいる。絵の世界で自分に合ったコーチを見つけるのは難しいと感じており、自分でやるしかないと諦めかけている。

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noname#191343
noname#191343
回答No.5

私も27歳です、自然な意欲のもとに創作ができるようになったので イラストの公募などをまったりと楽しんでしています。 甘くてゆるい考えですが、絵の仕事ができるようになれたらと思ってます 私も過去書籍を見ると落ち込むということはありましたのでよくわかります 絵の上手い方が沢山置いてある本屋はプレッシャーそのものですし 私も絵に対して挫折した気持ちがあったときも悔しい気持ちになりました 根本にあるところをいえばですが 本屋や書籍をみて落ち込むのはやはり比較の目が あるからではないでしょうか それを解決するには勇気がいるかもしれませんが、 本屋に行ったりすることをやめ、書籍の情報が自分に 入ってこないようにすることが必要かとおもいます これでまず比較のプレッシャーからは開放されて、 少しずつ内面に視野が向くようになり自然体に近づくと思いますし 比較して描かないことになります 実体験としてこれができてから考え方も自由になりました、 そうして書籍も半分以上古本屋に売れて、かなりすっきりしています やはりそうした中で書籍や知識がプレッシャーであったのだとかんじました 私も過去色んな事に迷ったときは心理学の本や自己啓発の本など 相当多くの自己啓発を心がけた時期がありましたが 最近本は読んでないんです 理由としては頭で考えがちになって行動しないようになってくるから やめています、情報が多くなると頭も混同していきますので止めて考えないと パンクしてしまうからなんですね 知識が増えると言う事は迷いも生みやすくリスクも 多くわかってくるということがありますので知識は選択に使う程度で やはり経験の中ではじめてわかるということが多いかもしれないですね TVやネットでも同様で、これだけ多くの情報が多く 飛び交っていると、自分自身が知らず知らずに 受け身になりやすいという事に世の中自体がそういう構造になりがちだと かんじます(もちろんそれによって恩恵を受けていることはあります) しかし受け身が多くなるということは表現者にとってはかなり 迷わせる原因にもなり、表現したいという気持ちの妨げに なるものも数多く存在するということです。 すでにそういうものがあったりして、別の人がそうしていると気が引けるように 気をとられやすく、何か表現したいと思った時には気が散漫としている事も 多いといったように流れやすいのです 一切断ち切るというような極端な事はしませんが TVを見ない時間を作ったり、ネットのニュース情報 や、本屋もそうですが、外部との関係を断ち切ると言った事をすると そこではじめて内なる声が聞こえてきやすい状態になります そういう心も外も静かな状態でいると自然に筆を持とうか というかんじになります、そうして「やるぞっ」というより 「そろそろやりましょうかー」といったかんじで心も穏やかにもなれます ですが意気込みがあっても上手くいかない事は、私も未だにありますよ 不意に奮起したくなるんですね、描こうぞ!!っていうグワァとしてものが 突然にやってくると言ったカンジですね そういうときはやる気と描こうと気持ちをとりあえず自分で くんであげて、1時間~2時間筆をとってかきます 結果がどうであれ、いい絵がかけたら儲けもの… という程度でぐにゃぐにゃと描くというカンジです 結果的にあんまり筆が進めなくても、あとは「絵に向き合って描いたんだなあ そこはえらいじゃないか」というところを自分の姿勢を褒めてあげるので なんにもできてなかったりするんですが、できなかった絵自体をいうのでなく 自分の姿勢を褒めると言う事をしているとほぼ気持ちも凹まないです ですから机に向かう時間を少しでもつくろうと している質問者さんはそれだけでも素晴らしい心がけをしているので 自分の姿勢とやる気を沢山褒めてあげてください、きっと次も楽しく 描けてくるはずですから しかしそういう事を何度もしているけど…それが続くとやはりしんどくなる…と という事も多いでしょうから、そういうときは別の分野の趣味をはじめられて みるのも手で、まったく違う分野に手を付けると視野や考え方のヒントになる事も 多く結果的に絵に良い影響が帰ってくる事があります とっかかりはなんとなくでもいいですから、新しい分野や 興味のある分野にも目を向け、できるだけ迷いだす前に、 始めてみてください。(迷い出すと心に負担がかかりますので) 私は絵が一番すきですが多趣味で、絵が駄目だとピアノや音楽作りをしたり あとは最近ダンスもします、そうしてそういうのをやった中でウキウキとした 気分で絵を描いたりしていますので結果的に良い循環をうんでいるんだなと おもいます。 なにかをするということは 何事もリスクはそれなりにともなうとおもいますが メリットもあるはずですのでメリットを物を考える前に重視をしてください 「これをしたら駄目になるんじゃないか」「だけど、これがもしかしたら 自分の為になるかもしれない、それにもっと楽しい世界なのかもしれない」と 絵の教室も迷われているようでしたらとりあえずメリットに目を向けてみて ください。 せっかく入ったのに金銭的にやめると損かも… とおもうことはありますが、体験をさせてもらっていただと思えば 前向きにも考えられます。 それに絵の教室の場合あわないと思えばやめるという選択は できるとおもいますので、自分がやってこみたいとおもった 気持ちをくみとり、評価してあげてみてはいいかでしょうか? まだまだなんだってやれるはずです、結果だけにとらわれず 恐れずのびのびと描けるように祈っております、応援しております!

noname#200587
質問者

お礼

書いてくださってありがとうございました。 うなずきながら何度も読見返しました。 心が軽くなるようでした。 私は知識欲も旺盛なほうで、気になるとなんでも本を手に取って読んでしまうくせがあります。本屋に本を探しに行くのも好きなのです。でも、知識の波の中におぼれているだけで、頭の中がいっぱいになっていることがあります。吐き出す口がみつからないので、イライラしてしまって、自分を責めてしまいます。 仕事上、読むことは業務の一環にもなっています。 まったく離れてしまうと今度はあたまのなかでぐるぐると考えてしまうんです。そのくせ会話でも難しい言い回しをしてしまいます。 もっとシンプルに、軽々と・・・生きれるようになれるといいですね。 教室も、結局行かなくなるのは嫌で怖いことなのですが、チャンスを見つけて行くだけ行ってみようと思います。 また、絵以外にもダンスやピアノをされるということを知ってとても元気が出ました。どうしても一つだけやらないと上達しないと思って、他のことをやると自分を責めてしまいます。いろいろやってもいいんですよね。自分を試してみようと思います。 ありがとうございました。

その他の回答 (6)

noname#195146
noname#195146
回答No.7

 お礼、ありがとうございます。#4他です。  言葉足らずの点がありました。お詫びして細く致します。 >「なりたい自分」というのは、今ははっきりとはないんです。とてもぼんやりしています。なりたい自分がすぐに描けたら、悩む必要が無いと思うんです。  この場合のなりたい自分とは、絵として表現したい自分までは指す意図はありませんでした。今のご質問、つまり、本気でもう一度絵筆を取るか否かについて、絵筆を取って絵の修業に没頭している自分のイメージです。  もし、その自分のイメージが、自分が描きたい絵(それはすなわち自分自身なのですが)のイメージまで持っているとしたら迷わないでしょう。絵の修業に没頭する自分のイメージもどういう絵を描くか悩んでいます。  だから、その自己イメージを本当に現実化するかどうかで、現実にいる質問者様が悩んでしまっているのでしょう。  なりたい自分と現実の自分に整合性が取れることを自己同一性と呼ぶこともあります。イメージと現実には落差があるのですが、目標は目標として現実は差異があること、ときには矛盾もあることを許容して、方向性が理想のイメージに向かっている状態です。  その自己同一性がようやく安定してスタートするのが、思春期の終了時期と一致します。18歳頃以前だと、現実の自分はおかしい、といった悩みを持つこともよくあります。しかし、18歳頃以降は悩まないかというと、そうはなりません。  理想と現実は落差がある以上、生きている間はずっとその差異についての悩みが出ては消えといったことが続きます。理想が相反する複数のこともよくありますから。おそらく質問者様には、絵を描く理想的なイメージの他に、いろいろあり得る理想のイメージがあるのではないかと思います。どれも並行して実現できるようなものではないのでしょう。どれか一つを採らねばならないなら、悩んで当然だとも思えます。

noname#200587
質問者

お礼

コメントありがとうございました。 いま悩みのなかにあってとても苦しいです。仕事中もそのことを考えてしまい、ぼーっとすることもしばしばです。仕事に全力を注げない状態です。 もしかしたら私は暇なのかもしれません。笑 もっと忙しく働けたらいいのかもしれませんが…。仕事がつまらないなんて、死んでいるのと同じだと感じます。生きているのに死んでいます。 絵だけの問題でないのもわかっています。 とにかく、現在に集中する方法だけでも、つかめるといいのですが。

回答No.6

3です。 補足ありがとうございました。 「萌え」の気持ちのふくらませかたは私も分かりません。。。 何気ない物にビビビ!っていきなりくるので・・・ 萌えは一種の熱病みたいな物ですからね。。。 過去に萌えていた物にまた萌えれるかについても微妙なところですね。。。 過去の同人誌を直視できませんし。。。 昔は二次創作平気でしたが、今は気が向かないですね。。。 ほとんどオリジナルです。

noname#200587
質問者

お礼

わたしも過去の絵は直視できません。 過去好きで読んでいたマンガやイラストも・・ これはどういうことなんでしょうね。 わたしも新しいビビビをもっと経験したいです。

noname#195146
noname#195146
回答No.4

 お礼、ありがとうございます。#2です。 >私は描くことを自分で「選んだ」だな、と思えて、とても嬉しくなりました。  そこは間違いありません。その点について、10代と20代(特に後半)の違いをもう少し申し上げるなら、他人がしていることをどの程度真似てみたいか、になります。  人間は何歳でも他人のやっていることをしてみたくなります。それは大事なことで、そうだからこそ文化が成り立っています。  ただ、年齢を経るに従って、真似てみるべきか否か、真似るとしたらどのように、どのくらいまでやってみるかという判断が強く出てきます。子どもは友達が持っているオモチャを何でも欲しがりますが(一人だけ持ってたのに「だって、みんな持ってるもん」状態)、だんだんそうではなくなります。  もしかすると、質問者様は10代までは他人が上手く描いているというだけで、やってみたくなったということ『だけ』だったかもしれません。しかし、20代後半になって、改めてやりたいという気持ちを再発見した以上、今回は確かに自分で判断して選んでいます。そこは自信を持たれて大丈夫です。  万が一、やってみた上で放棄したとしても、それも充分な考慮のある判断です。子どもの頃だと、パッと見ただけで真似してやって見たくなり、そしてやってみて他人のようにうまく行かず、今度は嫌だと言って簡単に放り出します。今回はそうではないんですね。やり直すのも、止めるのも熟慮の上です。どういう結果になっても悔いる必要はありません。 >たいへん失礼ながら、私には難しいと感じました。  修破離の喩えはちょっと過激だったでしょうか。もう少し補足すれば、後世に名を遺すほどの人だけが離の人です。何万人に1人いるかどうかというレベルです。破の人でも当代一流の人です。何百人に1人でしょうか。  プロですら大多数は修の人なんです。見よう見まねが上手いだけでも大変な才能です。そういう天性がある人はごく少数で、ほとんどのプロは努力してのことでしょう。  実は孔子ですら修の人なんですよ。彼は新たな道徳を編み出したわけではありません。当時の道徳を実行できるように、自分を修練したのです。そのときに彼が自分自身のために守るべき道徳を取捨選択してまとめたことが、当時の弟子に、そして後世のために役に立ったのです。  自分自身のためであったので、孔子自身には著作がありません。弟子が全部書き残したのです。自分が理解したことを、その場に応じて弟子に口頭でアドバイスしただけなんですね。「おお、それはわしも苦労したんじゃよ」みたいな感じだったのでしょう。  ですから、修を究めつつ、あえて破を避けて修に留まるというのも、立派な生き方になります。修破離が一本道で「修<破<離」と大小関係があるような、そんな単純なことではないのです。 >しかし、背中を押してもらったようにも感じました。できるかぎり自分で頑張ってみようと思います。  そう言っていただいて幸いです。自分自身を質問者様の師にしてみてください。徹底的に自問自答するわけですね。ある意味、世界一厳しい師になります。なぜなら、質問者様が感じたり考えていることは、全て分かってしまう師ですから。嘘や誤魔化しは一切通用しないわけです。そういうことは必ずできます。誰でも、なりたい自分、あるべき自分のイメージを持っていますから、それを師にすればいいのです。

noname#200587
質問者

お礼

たびたび、ありがとうございます。 「なりたい自分」というのは、今ははっきりとはないんです。とてもぼんやりしています。なりたい自分がすぐに描けたら、悩む必要が無いと思うんです。 絵ですら人がやっているのを見て「いいな」と思う気持ちを原動力にしてやっていた時期が、少なからずありました。ただ、他人にたよらなくてもたのしく取り組めていた時期があった数少ない事のひとつなので、自分を探すとっかかりになるかと思って、再開することを決めたんです。ただ、私の中には絵以外にもいくつかのものが共存しており、どれが自分の本領なのかは見定めかねているところです。 少し大きな話になりました。 私にとっては「どういう結果になっても悔いる必要はありません。」その一言で充分前に進むエネルギーになりそうです。

回答No.3

やめていた理由が異なりますがお邪魔します。 プロを目指していたのですが、利き手の神経を切る大怪我をしてお金をもらえるような絵を描けなくなりました。 また肩の怪我や酷い肩こりで絵を描くことなどドクターストップに。。。 コーチよりも絵を描く友達が近くにいることが復活の理由ですね。 絵のプレゼントをしてくれるから、私も。と描く気になれました。 あと同人誌執筆に誘われたりして、描きたくないけど描かなくてはいけない状況に身を置くとか。 絵を描くのもかなり時間がかかるようになりましたが、稚拙な私の絵でも「可愛い」とか「好きだ」とか言ってもらえるようになりました。 「萌え」も大事だと想います。 描きたいモチーフを愛して愛して想うだけでは物足りなくて、自然とペンが動いてしまうといった感じですね。

noname#200587
質問者

補足

ご回答ありがとうございます。背中を押していただいた感じがしました。とても嬉しいです。 絵を描く友達はとても大切だというのは、おっしゃるとおりだと思いました。絵のことを話す人、批評している人、たくさんの絵を知っている人・・・よりも、私は実際に今描いている人ととこそ付き合いたいんだ、と、思ったことがあります。そう思うまでは、自分は描いていないのに、口だけの人が多かったんです。そして自分もそういう人間になっていました。 ところで「萌え」の気持ちをふくらませるには、どうしたらいいのでしょうか。以前「萌え」を感じたものに対して、ほとんど感じなくなったんです。むしろ、胸が締め付けられるような感じがするだけです。 新しいものに萌えを発見するのがいいとは思うのですが・・・

noname#195146
noname#195146
回答No.2

 まず「なぜ描きたいのか?」が問題でしょうね。20代後半という年齢ならば、必ずしも高校までと同じ気持ちとは限りません。むしろ、いったん離れたこともあって、別の視点から描くということを見ている可能性が高いのではないかと思います。  ですので、昔はこうだったいったことに拘らないほうがいいでしょう。仮に同じ気持ちだとしても、10代までのように寝食を忘れて没頭することは難しくなります。  それは純粋な気持ちとかいったことではありません。人間の脳は基礎ができる、つまり大人の脳になるのが30歳頃なのです。シャカが29歳で悟って布教を始め、孔子が30歳になって世に立って働こうとしたのは偶然ではないのです。  その変化ですけれど、一つにはいわば容量が大きくなるということがあります。恋愛でも思春期だと、それ以外は見ないようなこともしばしば起こります。シェークスピアも経験的にそのことを知っていたのか、「ロミオとジュリエット」はロミオ16歳、ジュリエット14歳です(思春期後半と前半の組み合わせというのもなかなか)。  全てを投げ捨てて生きるか死ぬかの恋愛ができ、実際に死んでしまうのも思春期だからで、もし30歳同士だと、結末は同じにできたとしても、全然違う話になってしまうでしょう。  10代では脳、つまり精神に置いておけるものが少しなのです。これが逆に集中力ともなります。それは、普通は生きていく上で必要なものについては、保護者などに任されていることも手伝います。好きなことを好きなだけしても、生きていけるわけです。  社会に出て、あるいは大学で学ぶ場合でも、自分で選んで生きていくようになり、さらには自分で稼いで食べていくようになると、それまでとは違ってきます。覚えていることも膨大となり、精神に留めておける量も大幅に増えます。恋愛にしても、恋愛自体が小さくなるわけではないですが、それ以外も精神内で共存しています。当然、比較ということも起こってきます。  創作活動でも同じことが言えます。それが、 >埋もれてしまった才能をもう一度復活させるときには、そういう感情を行き来するものだ なんでしょう。  中高生の頃、夢中になったのに、いつの間にか興味すら失せているなんてことは、よくあります。ときにはやってみて、経験があるだけにそこそこやれるので面白いと思えるでしょうけど、それにずっと打ち込む気にはならない。同じくらい、あるいはもっと面白いものがいろいろある。  しかし20代後半になって、それでも真剣にやり直したいと思えるなら、それはいろいろなものの中から自分が選び出してきたということです。他にもいろいろやりたいこと、試してみたいことはあったはずです。それらと比較になり、競合して、勝ち残ったのが「描く」だったわけですね。  ですので、うまく行く行かないは度外視し、しかし今の生活は壊さないようにして、やり直してみるといいです。万が一、やり直し始めても、どうやっても気持ちが奮い立たないなら、それは気まぐれだったということです。  問題はやり直し方です。描くのも芸事の要素はあるでしょう。特に教わるということはそうです。それは、よく言われる修(守)破離の三段階です。  修はひたすら真似る段階ですね。まず、一人の師に従い、疑いを差し挟まず、ひたすら真似る。これが、まだ子どもの頃、遅くとも思春期終了前ならいいのです。芸事や芸術で習うという段階は、人格形成も含みます。やろうとしていることに向いた人格を目指すわけですね。  それが20代後半になると差し障りが出てきます。まず、今の人格を放棄、つまり壊さねばなりません。でないと、師が導けません。質問者様を今のままで、質問者様に合わせて教えられると言うような人は、芸術の師として疑わしい。自分と不即不離の芸術を持っていないことになるからです。工芸品までなら、できなくはないでしょう。しかし、作品ごとにそのときの己を注ぎ込むようなことだと、師が弟子に合わせるのは無理です。弟子を師に合うように導くしかありません。  ですので今の年齢では、純粋に技術的なことならともかく、描くこと自体を本当に教えられる人はもういません。いるのは自分自身だけです。個々の要素技術は習うとしても、それを統合したスタイルを作るのは、自分に習うしかないわけです。  破は普通は他流派からも学ぶということですが、ある厳しい人の定義ではそれも修で、自分の独自のスタイルを作るのが破としています。個人的に賛同しているので、今はそういう境地だとしておきます。  そういう破は誰も教えられません。「お前独自のものはこうだ」なんて教えられるわけがない。教えられるなら、教える人のものなわけです。どのみち、自分だけでやるしかない。  離は、自分独自ということからも自由になる境地です。一切の拘りが消滅するわけですね。歴史を経ても価値ある作品は、そういう境地からしか生まれないと思います。  でも修も破も離も、「よーし、これくらいでいい。次に行こう」なんてことでは昇って行けません。行き詰ってどうしようもない大スランプで悪戦苦闘していて、気が付いたらそうなっているといった感じでしか達成できません。  そんな大変な道を、これからどうやって行くかになります。それは、大きく分けて二通りです。前述したシャカと孔子です。  シャカは苦行を経て大悟して、ほぼ完成しました。そういうやり方もあります。シャカ流は、死ぬかと思うような艱難辛苦をかき集め、集中して乗り越えての大博打です。一生をある一点に賭けるわけです。うまく行けば万々歳、失敗すれば残る半生は台無し。  もう一つは孔子流です。孔子はコツコツと積み重ね、70歳にしてようやく納得いく境地に達しました。決して危ない橋は渡らず、焦らず急がず、ことごとく慎重に見極めながら、というやり方です。失敗はないものの、上達は亀の歩みで、生きている間に納得いくことができるかどうかの保証すらありません。  どちらがいいかは、個々人の性分によります。ちなみに私は後者の途上です。極めて愚鈍に生まれついてしまい、前者はやりたくてもできません。

noname#200587
質問者

お礼

丁寧なご回答ありがとうございました。 私は描くことを自分で「選んだ」だな、と思えて、とても嬉しくなりました。 たいへん失礼ながら、私には難しいと感じました。しかし、背中を押してもらったようにも感じました。できるかぎり自分で頑張ってみようと思います。

  • KoalaGold
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回答No.1

絵を描かなくなってしばらくしてから昔のツテでボランティア的に手伝って欲しいとの要請が入りました。 やはり目的と締め切りがあると、気持ちが引き締まります。参考資料を調べまくり、スケッチを始めてかなりのめり込んで仕上げました。 モーチベーションを上げるには、人との関わり合いが必要だと思います。クライアントや批評家がいて、注文や批評をつけることで磨き上げられて行くのだと思います。 コンテストや同人の会などで必ず人に見せるようにしたらどうでしょう。 私は注文がこないと描かないです。無料でもいいので頼まれたらいくらでも相手の注文を上回る出来で仕上げるつもりで自分を叱咤激励します。 人様のために、というのもモーチベーションになりますね。

noname#200587
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます! たしかに、人に見てもらうというのは私にとっても大事だったことを思い出しました。 誰かのために描くということを求めてみようと思います。 ありがとうございます。

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