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無神論者の方に質問です

僕の友人には「神はいないし死後の世界もない」という考えの人が多いのですが、そんな人でも葬式に参加し初詣に行きます。 ですが葬式で死者を弔い「冥福を祈る」という行為は死後の世界を想定しているように思いますし、初詣などの神社への参詣は神を想定しているように思います。 では無神論者の方が葬式で数珠をかけて手を合わせるとき、神社で二礼二拍手一礼するとき、頭の中では何を考えているのでしょうか? 葬式や初詣などはあくまで文化的な行事であって、葬式で死者の死後の冥福は祈らないし、神社で頭を垂れて目を閉じても願い事はしないのでしょうか? ぜひ無神論者を自負する方の考えを教えてください。

みんなの回答

  • yotani0425
  • ベストアンサー率30% (1185/3898)
回答No.6

「神はいないし死後の世界もない」とは思っています。(自負まではしてませんよ、マイナーだと思っていますので・・ひとに吹聴することはありませんし、その必要もないとは思っております) が、生前をしのぶ気持ちはありますし、結婚を祝う気持ちもありますので、どんな宗教の葬儀でも、墓参りでも手を合わせますし、結婚式では礼と拍手はします。 そのときの気持ち(考えていること)は前にも記したようにしのぶ(思い起こす)、祝う気持ちです。これはひとには負けないくらいあるとは思っております。 周囲のひともいますのでそこでまで我を通して(儀式を排して・礼を失して)周りのひとを傷つけるのはどうかとも思っております。 ただ、そう思いだしてからは神社に行ったとしても願い事をしたことはありませんし、お寺へ行ったとしてもありがたみを感じたこともありません。ただし儀礼的に頭を下げることにはやぶさかではありません。

wilkinson001
質問者

お礼

お礼が遅くなってしまってすみません。 たしかに日本では無神論者といっても、ドーキンスのように攻撃的かつ啓蒙的な無神論者はあまりいませんね。しかし「神はいないし死後の世界もない」という考えなのに自分のことを無神論者とは思っていない人も多いと思います(むしろ日本人にはそういうタイプの人が多いのでは)。なので自分のことを無神論者だとしっかりと「意識」している人、という意味で自負という言葉を使いました。 yotani0425さんが思っているように、僕も自分を無神論者だと考えている日本人はマイナーだと思います。だからと言ってみんな有神論者なのかといったら、決してそういうわけではない。不思議ですよねぇ…。無神論というコトバ自体がマイナーというわけではないだろうし…。 御回答ありがとうございました!

  • konata508
  • ベストアンサー率26% (514/1954)
回答No.5

実際に法要の際にお寺の住職がしゃべってましたが、仏前で祈ると言うのは故人の冥福や死後の世界を想定するのはなく「遺族」が誓いを立てたり反省する「生きている人」を主体に考えるように言われました。子孫が繁栄することが一番の供養だとのことです。 神社に関しても正月に会社に呼ばれましたが神主さんの話では「神様」にお願いするのではなく自分の目標に対する決意表明のようなものだと教わりました。 土着の原始宗教(お祭り)なども同様に住民のためのものであくまでもシンボル的なものでしかないと教わりましたし、他の外来宗教も時代の中で教団員が捻じ曲げている教えもあるので全部鵜呑みにはしてません。 自分の「良心」を基準に考えているので葬儀で祈るときも生きていた時と変わりませんし、神社でお参りする時も目標を決めるきっかけでしかありません。常に自分中心であって、生きる出来事では気にしません。この手の話を聞くまでは本当に第三者として「観察」してましたけど。

wilkinson001
質問者

お礼

お礼が遅れてしまってすみません。 たしかに宗教とは死者のためではなく現在生きている人たちのためにあるということはよく言われます。 葬式は死者のためではなく遺族の心の整理のために行われ、神頼みは自分自身への決意表明のためにするものだという、いわば社会的もしくは心理的“機能”があるからこそ例え信仰心がなくとも儀式へ参加する人がいるのかもしれませんね。 御回答ありがとうございました。

回答No.4

 んー・・・そうですね(酔汗) 神社では「絶対的な神」に対してというよりは・・・ 祖先に対して頭を垂れている感覚です。 葬式では冥福云々よりも・・・故人が生前に信じていたで あろう物事に対しての敬意を表す、という感じですね。

wilkinson001
質問者

お礼

たしかに神道では氏神や鎮守という考え方がありますし、神葬祭では死者が一族の守り神になるので、崇拝とまではいかなくとも、それが日本人特有の緩やかな宗教心なのかもしれませんね。 葬式では…たしかに敬意ですね。僕も葬式に参加するときは、礼儀と敬意は忘れないように努めています。しかしそこに死後の世界や仏の考えは一切ありません。 御回答ありがとうございます。

  • rikukoro2
  • ベストアンサー率21% (1316/6195)
回答No.3

無神論者です 葬式にはいきますね。これは親戚付き合い、近所付き合いを円滑にするためです。  神云々は関係ありませんね。 >葬式で数珠をかけて手を合わせるとき  『早く終わらないかなぁ』  『香典の引き出物はなんだろう』  そんなこと考えています >神社で頭を垂れて目を閉じても願い事はしないのでしょうか?  しません。初詣は寒いし面倒なんでいきません  それに初詣(いわゆる参拝)って願い事でっしたっけ?  あくまで去年の無事を神に感謝。もしくは、今年成就の目標を神に報告などをするなどが参拝だった気が・・・  願い事するってのは神社の作法じゃないと思いましたが?  

wilkinson001
質問者

お礼

実は僕は(おそらく)無神論者なのですが、なるほど同じようなことを考えているのですね。 本来的な意味での作法ではないのかもしれませんが、(初詣に限らず)神社ではお賽銭を投げて願い事をするのが一般人の感覚ではないでしょうか。そういう意味でも日本人の宗教感覚は非常にいい加減なのかもしれませんね(笑) 御回答ありがとうございました。

  • bari_saku
  • ベストアンサー率17% (1827/10268)
回答No.2

純粋な「祈り」だと思います。 私は特定の宗教に肩入れする気にはなれませんが、洋の東西を問わず寺院を見るのは好きですし、「人知の及ばない、大きな何か」の存在は信じています。 柏手を打ったり、お寺で手を合わせたりするのは単なるTPOの問題です。 (チベット寺院に行けば、五体投地もするでしょう) なお、死後の世界については信ずるに足るデータがないため、あるのかないのかわかりません。 あった方が面白いとは思いますが。

wilkinson001
質問者

お礼

実は質問を書いているときに僕も「純粋に祈っている」という言葉が浮かんだのですが「祈り」とは何なんでしょうか…。 単なる願望と祈りとは大きな隔たりがあり、神もしくは超自然的存在、barisakuさんのいう「人知の及ばない大きな何か」の介在があって初めて願望が祈りになる、と僕は考えました。 なので、そういう意味ではbarisakuさんは無神論者というよりは無宗教者なのかもしれません(お気を悪くされたらすみません)。 では完全な無神論者は何に対しても「祈る」ということは一切しないのでしょうか…う~む…。 御回答ありがとうございます!

  • nahaha55
  • ベストアンサー率21% (274/1301)
回答No.1

無神論者ではないですが、自分の周りで見た感じでは、 >葬式や初詣などはあくまで文化的な行事であって、 >葬式で死者の死後の冥福は祈らないし、 そうだと思います。 良く見ると、お焼香の時に十字を切っている人も多いです。 勿論、クリスチャンではありません。 作法が適当すぎるというか、いい加減に思います。 >神社で頭を垂れて目を閉じても願い事はしないのでしょうか? しないみたいです。これは数人から聞きました。 まあ普段から完全否定してますし、嘘ではないと思います。

wilkinson001
質問者

お礼

葬儀の際の作法が適当ということは葬儀自体にそもそも関心がないということなのでしょうね。 日本人の無神論者は神の存在を否定しつつもどこかしら(習慣的に?)神の存在を信じているのではないかと考えていたのですが、どうもそうではないようですね。 参考になりました。御回答ありがとうございます。