確かめてないものの1作目の冒頭でNeoが起きて本棚を探るところがありますがこの時手にするのが記号学を主体にして文化批判を得意とするボードリヤールの「シミュラークルとシミュレーション」なんだそうです。この本は読んでいないのでわかりませんが、現代的な映像批判思想において我々の世界はシミュレーション文化であるという批判にたっています。ですからMatrixによるシミュレーションの世界から抜け出す、シミュレーションの世界の中での死ということは特別な意味を持っています。現実の死・恐怖を忌避するためにシミュレーションの世界に住まされようがサイファのように逃げ込もうが、現実の世界がシミュレーションの中にある以上シミュレーションの世界での死は現実の死です。
予備知識なしに読むのは難しいかもしれませんがケヴィン・ロジャーズの「サイバー・メディア・スタディーズ」ではボードリヤールを引用しつつシミュレーションの時代による人間の脱身体化についてよく解説していますからMatrixの世界観を理解するのに最適ではないかと思います。
ちなみにMatrixの世界から開放され対面したモーフィアスが掛けた言葉は「welcome real world」でしたね。
特にリローデッドでは説明セリフが非常に多くなっています。対象と意味する内容の関連づけ…例えば「あの機械の仕組みはわからないが、水から電気を作るということは分かる」。何故ダイアル式の黒電話がMatrixの出入り口になるのかその仕組みはわかりませんが、それが出入り口になることは私たちも知っているわけです。こういった象徴を用いた飛躍があります。多かれ少なかれ映画ではよくあることなんですが昨今の映像社会の考察…それこそ「シミュラークルとシミュレーション」などを元にして「緻密に考えられている」ことは間違いありません。(それが表現として稚拙だったとしても…です)
総合していうならばSFじゃないんじやないの?ということになります。SFの価値観によって判断しようとすると問題を履き違え破綻することになります。問題は我々は既にシミュレーションの世界にいる囚人だということです。