江戸川コナンとしての工藤新一の悩み(多分)について
お願いします。
最近になって、自分自身がフィクションの制作に取り掛かってみて思うのですが、人気作家というのはキャラクターの人物像についてどの程度設定を細かくしているのかどうか、気になっています。
例えば、「名探偵コナン」ですが、実態は男子高校生の工藤新一である江戸川コナンが、性の処理に困っていないはずはないと思うんです。しかし今は小学生の江戸川コナンとして毛利家に居候である以上、エロ本やエロDVDを隠し持っていてこっそり観るというのは多分不可能だと思います。
同様のことは、宮野志保であるところの灰原哀にも言えると思います(女性だから性欲はない、というような子どものような考えを私は持ちません)。この灰原哀がいなければ、新一は迷いなく阿笠博士宅に性欲処理グッズを用意して足繁く通うと思うんですが、そういう行動は灰原哀に死ぬほど馬鹿にされると思うんです。
ここはむしろ立場を共有できるものどうし、コナンと灰原が割り切ってお互いを慰めあっていると考えたほうがいいような気がします。
まあ、そんな設定少年誌には絶対出せないものでしょうから、必要ないといえば必要ないんでしょうが、青山剛昌氏が構想を練る段階で、そのへんの設定までしているのでしょうか。あるいは「必要のない設定はいらない」のひとことで片付いてしまうのでしょうか?
この作品のことが好きな方には「いらぬ詮索」と思われてしまいそうですが、自分でやってみて気になりだしました。どなたかこういう「表に出てこない設定」の必要性について教えて下さい。