ほんらい歌って、自分の歌が歌ですよね。 へんな言い方になってしまいましたが、 自分自身の想いとか、感動した体験とかが歌に託されたときにその人の体やこころに宿るものが歌だと思います。
今は、この歌はだれだれというプロの持ち歌(ひばりの佐渡情話という美空ひばりの歌であることが歌の題名にもなるのですから)という事自体が本来はおかしいのですが、
でもプロの技術的実力、音楽性の確かさとか、感性の深さとかの差でそのような通念が生まれてしまったのだと思います。
また、そこから「歌の上手い人ってずばり、他の人の曲でも自分の歌にしてしまうような人の事だとおもいますか?」という質問が生まれてくることになったのだと思います。
「他人の曲も他人になりきって上手に歌える人」という質問にたいしては、ふたつの場合を考えるべきとことと私は思ってます。
ひとつは そのまま物まねがうまい人。(呼吸力などのボイストレーニングが出来ていないと難しいので、これがうまい人は歌がいまいとは一般通念上は言えそうですね。)
もうひとつは、もしわたしがその歌い手のような体験や感動や感性を持ってその歌を歌うとすれば、というふうに、近代演劇が追いかけている「もし」という考え方をつかって、ふかく想像力を働かせ想像力を磨き続けて
単なる物まねではなく、その歌手を演じる姿勢を追いかけるとい場合です。
ほんとにうまい歌い手ならば、後者のありかたで「なりきって」歌うことも追求していると思うのですが、 その場合はやはり自分自身の体験の積み重ねから自分自身の魂で歌っているのですから、それもまた「自分の歌」であることには変わりないと思います。
ちょっとそのへん現代では複雑にもなってると思いますが、
本来は歌って、歌の上手さとかよりも、そのような「自分の歌」であるかどうかのほうが大切な世界であるような気がするものなのですが、どうおもわれるでしょう?
お礼
あぁ、モノマネが上手いというのではって文に納得しました!たしかにそうかもしれません。ありがとうございました!!