sseresw2のプロフィール
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- 登録日2016/07/03
- 性別男性
- 都道府県岡山県
- 【ガソリンと軽油の歴史】ガソリンはガソリン税を販売
【ガソリンと軽油の歴史】ガソリンはガソリン税を販売メーカーに課しているので販売店はガソリンを売る際にガソリン税を折り込んでさらに消費税を含めて消費者に売るが、 軽油の軽油取引税は消費者に課せられているので販売メーカーは消費者から消費税を取れない(2重課税になるので)ので安い。 軽油が安いのはガソリンと比べてオクタン価(燃焼効率)が低いから安いんじゃなくて消費税が含まれていないから安い。 なぜ軽油の軽油取引税は販売メーカーに課さずに消費者に課すことになったのかその歴史を教えてください。 ハイオクとガソリンはオクタン価が違うのでハイオクの方が高い。 ガソリンと軽油はオクタン価ではなく消費税があるかないかの差で安い。 違いますか? なぜ軽油に消費税が乗らなくて、軽油取引税を販売メーカーではなく消費者が払うことになったのかその歴史をご存知の方教えてください。 ガソリンが不利になっていますよね。消費税が10%になったら軽油の消費税が課せられない優位性はますます上がっていく。不公平ではないですか? 軽油って環境に良くないですよね? 環境に良くないのに税金が優遇されている。 時代に矛盾してませんか? もし消費税が欧州EUヨーロッパ並みの26%とかになったらどうするんでしょう。 このまま不公平な税制を続けるのでしょうか。 なぜ軽油の軽油取引税が消費者負担になったのか教えてください。
- 1万円札で、どうして1万円分の商品が買えるのか?
マルクスによれば、商品Aと商品Bが等価交換されるのは商品Aと商品Bを生産するのに等しい労働量がそこに費やされているからだ、と言っています。 つまり、商品はそれぞれ異質ですが、労働量という共通分母があるから、商品の質でなく、量によって交換される、ということになります。 したがって、19世紀以前の金属貨幣と兌換紙幣の時代、その金属を生産する労働量と他の商品が労働量によって交換された、というのは理解できます。 金銀という鉱物を鉱屈から掘り出して、精錬し、純度の高い金銀貨幣を作るには、たいへんな労働量を費やしたでしょう。 だから1万円札が、金銀貨幣の代わり、兌換紙幣の時代だったならば、1万円札で1万円分の商品と交換されたのは理解できます。 しかし、20世紀になると各国は「金本位制」を離脱し、1万円札は兌換紙幣ではなく、不換紙幣になりました。 昔は日銀に1万円札を持参すれば、1万円の金銀と交換されたものですが、今、日銀に1万円札を持って行っても、金銀と交換してくれず、新札の1万円と交換してくれるだけです。 しかも、現在1万円札は財務省・印刷局で、毎日大量に印刷しています。 その1万円に1万円分の商品と同じ労働量が費やされているとは、到底思えません。 極端なことを言えば、1万円札はただの紙です。 その紙でしかない、1万円札で、1万円分の商品が買えるというのは、ひじょうに不可解です。 これでは、マルクスの言っていることはウソになります。 1万円札に1万円分の労働量なんか含まれていないからです。 にもかかわらず、1万円札で、1万円分の商品と交換されています。 これって、なぜでしょうか? 国家が1万円札を1万円分の労働量が含まれていると「強制」しているからでしょうか? それとも、トランプの「ババ抜き」のように、1万円分の商品と引き換えに1万円札を受け取った売り手が、次に別の商品を仕入れる時にその1万円札を別の売り手に引き渡す、そうして市場を1万円札がグルグル回っているからでしょうか? ちょうど「ババ抜き」のジョーカーのように、それ自体は何の価値もないのに、商品と商品を仲介するものとして、回っているからなのでしょうか? また、ブランド品のバッグは普通のバッグの100倍もします。 でも、労働量としてはそんなに大きな違いはありません。 にもかかわらず、価格が100倍も違います。 これって、ひじょうに不思議に思いませんか? マルクスの「労働価値説」では、説明できないと思います。 ということは商品の価値を労働量で測るべきではない、ということになりませんか? マルクスの考えを放棄しなければならないのでしょうか? 経済学のカテゴリーで質問すべきですが、あえて哲学で質問します。
- 浴衣について
今度の土曜日に浴衣で出掛けようとしているのですが、まだ浴衣を持っていません。土曜日に買ってその日に着るということはできるのでしょうか?ちなみに浴衣はそこまで高いものは買おうとはしていません。よろしかったら教えていただきたいです。
- 締切済み
- その他(国内旅行・情報)
- jonahmeu
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- 1万円札で、どうして1万円分の商品が買えるのか?
マルクスによれば、商品Aと商品Bが等価交換されるのは商品Aと商品Bを生産するのに等しい労働量がそこに費やされているからだ、と言っています。 つまり、商品はそれぞれ異質ですが、労働量という共通分母があるから、商品の質でなく、量によって交換される、ということになります。 したがって、19世紀以前の金属貨幣と兌換紙幣の時代、その金属を生産する労働量と他の商品が労働量によって交換された、というのは理解できます。 金銀という鉱物を鉱屈から掘り出して、精錬し、純度の高い金銀貨幣を作るには、たいへんな労働量を費やしたでしょう。 だから1万円札が、金銀貨幣の代わり、兌換紙幣の時代だったならば、1万円札で1万円分の商品と交換されたのは理解できます。 しかし、20世紀になると各国は「金本位制」を離脱し、1万円札は兌換紙幣ではなく、不換紙幣になりました。 昔は日銀に1万円札を持参すれば、1万円の金銀と交換されたものですが、今、日銀に1万円札を持って行っても、金銀と交換してくれず、新札の1万円と交換してくれるだけです。 しかも、現在1万円札は財務省・印刷局で、毎日大量に印刷しています。 その1万円に1万円分の商品と同じ労働量が費やされているとは、到底思えません。 極端なことを言えば、1万円札はただの紙です。 その紙でしかない、1万円札で、1万円分の商品が買えるというのは、ひじょうに不可解です。 これでは、マルクスの言っていることはウソになります。 1万円札に1万円分の労働量なんか含まれていないからです。 にもかかわらず、1万円札で、1万円分の商品と交換されています。 これって、なぜでしょうか? 国家が1万円札を1万円分の労働量が含まれていると「強制」しているからでしょうか? それとも、トランプの「ババ抜き」のように、1万円分の商品と引き換えに1万円札を受け取った売り手が、次に別の商品を仕入れる時にその1万円札を別の売り手に引き渡す、そうして市場を1万円札がグルグル回っているからでしょうか? ちょうど「ババ抜き」のジョーカーのように、それ自体は何の価値もないのに、商品と商品を仲介するものとして、回っているからなのでしょうか? また、ブランド品のバッグは普通のバッグの100倍もします。 でも、労働量としてはそんなに大きな違いはありません。 にもかかわらず、価格が100倍も違います。 これって、ひじょうに不思議に思いませんか? マルクスの「労働価値説」では、説明できないと思います。 ということは商品の価値を労働量で測るべきではない、ということになりませんか? マルクスの考えを放棄しなければならないのでしょうか? 経済学のカテゴリーで質問すべきですが、あえて哲学で質問します。