Why-J-people の回答履歴
- 江戸時代。武家の子の名付け親。
今でもまれに、子の名前は、恩師や上司に付けてもらったという話を聞きますが、江戸時代も同様の慣習があったようです。 大名や武家の場合、子の名前は誰が決めることが多かったのですか。 厚かましいお願いですが、誰が決めたという具体例も分かれば教えてください。 よろしくお願いします。
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- kouki-koureisya
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- 江戸時代。「所替え」の報告。
大名に所替えを命じるときの様子はある程度分かるのですが、所替えが終わった(新領地に落ち着いた)という報告は、どんなふうに行われたのですか。 その際、将軍は、新領地を承認するといった何か書類を出したのですか。 一般論でもよいですが、できれば具体的な事例があれば教えてください。 よろしくお願いします。
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- kouki-koureisya
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- 江戸時代。「所替え」の報告。
大名に所替えを命じるときの様子はある程度分かるのですが、所替えが終わった(新領地に落ち着いた)という報告は、どんなふうに行われたのですか。 その際、将軍は、新領地を承認するといった何か書類を出したのですか。 一般論でもよいですが、できれば具体的な事例があれば教えてください。 よろしくお願いします。
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- kouki-koureisya
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- 明治40年(1907年)の帝国国防方針について。
Wikiによれば、仮想敵国をロシア・アメリカ・ドイツ・フランスとしています。 ロシア・アメリカを仮想敵国としたのはなんとなく分かりますが、ドイツ・フランスをなぜ仮想敵国としたのですか。 また、ジャワ島やスマトラ島を植民地としていたオランダを仮想敵国から除外したのはなぜですか。 教えてください。 よろしくお願いします。
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- kouki-koureisya
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- 徳川吉宗の三男の源三について
徳川吉宗の三男・源三が亡くなった日は、4月26日 か 5月6日 のどちらが正しいのでしょうか? 徳川吉宗の三男の源三が亡くなった日について、4月26日 というのと 5月6日 というのの2つを見たことがあります。 源三が亡くなった日は、4月26日か5月6日のどちらが正しいのでしょうか? 徳川吉宗の三男・源三が亡くなった日付は、4月26日 か 5月6日 のどちらが正しいのかを教えてください。 「徳川実紀」や「有徳院殿御実紀」等では、どちらになっているのでしょうか? 因みに、(↓)下記の URL の「柳営婦女伝叢」の 165/280 コマ目のページでは、源三が亡くなった日は5月6日になっています。 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/945825 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/945825 (↑)この 165/280 コマ目のページの “源三殿” の所 「徳川実紀」や「有徳院殿御実紀」等では、どちらになっているのでしょうか?
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- noname#238582
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- 東叡山寛永寺の石高。
東叡山寛永寺のHPには、 「寛永寺の境内地は、最盛期には現在の上野公園を中心に約三十万五千坪に及び、さらにその他に大名並みの約一万二千石の寺領を有しました」とあります。 質問です。 1.約一万二千石とは、大名の場合の“表高”に相当するものですか。 つまり、五公五民であれば、寛永寺の実収は約六千石ですか。 2.年貢徴収時の寺側の立会人は誰ですか。 私領では、藩の役人が村の名主の家の庭先で年貢米を検査するイメージです。 寺は、年貢徴収には直接関与せず、幕府の役人(寺社奉行の配下)が取り仕切っ たのですか。 3.年貢米は、寺の蔵に入れたのですか。 お分かりになる項目だけでもよいですから教えてください。 よろしくお願いします。
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- kouki-koureisya
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- 明治6年地租改正。
年貢はなくなり金納になりました。 これまでは、庄屋・名主の指示どおりに米を庄屋・名主宅に運び込めばよかったのですが、金納になったので、農民は戸惑ったと思います。 1 村方3役のような自治組織は存続していたのですか。 納税の指示は役場から直接、農民に来たのですか。 2 農民は米を、どこで売ったのですか。 近くに市場や取引所があればよいのですが。 米を扱う業者が回ってきたのですか。 3 当たり前かもしれませんが、役場まで納税に足を運んだのですか。 よろしくお願いします。
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- kouki-koureisya
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- 明治6年地租改正。
年貢はなくなり金納になりました。 これまでは、庄屋・名主の指示どおりに米を庄屋・名主宅に運び込めばよかったのですが、金納になったので、農民は戸惑ったと思います。 1 村方3役のような自治組織は存続していたのですか。 納税の指示は役場から直接、農民に来たのですか。 2 農民は米を、どこで売ったのですか。 近くに市場や取引所があればよいのですが。 米を扱う業者が回ってきたのですか。 3 当たり前かもしれませんが、役場まで納税に足を運んだのですか。 よろしくお願いします。
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- 明治6年地租改正。
年貢はなくなり金納になりました。 これまでは、庄屋・名主の指示どおりに米を庄屋・名主宅に運び込めばよかったのですが、金納になったので、農民は戸惑ったと思います。 1 村方3役のような自治組織は存続していたのですか。 納税の指示は役場から直接、農民に来たのですか。 2 農民は米を、どこで売ったのですか。 近くに市場や取引所があればよいのですが。 米を扱う業者が回ってきたのですか。 3 当たり前かもしれませんが、役場まで納税に足を運んだのですか。 よろしくお願いします。
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- 江戸時代。城下町の行政単位としての呼称。
郡部の町や村は、何国何郡何町(又は村)となりますが、城下町は何と呼ばれていたのですか。 例えば、金沢のある商家へ書状を出す場合、金沢〇町〇屋のように「金沢」とだけ書いたのですか。 それとも「金沢城下」とか、「金沢」に何かを付けたのですか。 画像があれば教えてください。 よろしくお願いします。
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- kouki-koureisya
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- 江戸時代。城下町の行政単位としての呼称。
郡部の町や村は、何国何郡何町(又は村)となりますが、城下町は何と呼ばれていたのですか。 例えば、金沢のある商家へ書状を出す場合、金沢〇町〇屋のように「金沢」とだけ書いたのですか。 それとも「金沢城下」とか、「金沢」に何かを付けたのですか。 画像があれば教えてください。 よろしくお願いします。
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- 江戸時代。城下町の行政単位としての呼称。
郡部の町や村は、何国何郡何町(又は村)となりますが、城下町は何と呼ばれていたのですか。 例えば、金沢のある商家へ書状を出す場合、金沢〇町〇屋のように「金沢」とだけ書いたのですか。 それとも「金沢城下」とか、「金沢」に何かを付けたのですか。 画像があれば教えてください。 よろしくお願いします。
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- 江戸時代。城下町の行政単位としての呼称。
郡部の町や村は、何国何郡何町(又は村)となりますが、城下町は何と呼ばれていたのですか。 例えば、金沢のある商家へ書状を出す場合、金沢〇町〇屋のように「金沢」とだけ書いたのですか。 それとも「金沢城下」とか、「金沢」に何かを付けたのですか。 画像があれば教えてください。 よろしくお願いします。
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- 江戸時代。城下町の行政単位としての呼称。
郡部の町や村は、何国何郡何町(又は村)となりますが、城下町は何と呼ばれていたのですか。 例えば、金沢のある商家へ書状を出す場合、金沢〇町〇屋のように「金沢」とだけ書いたのですか。 それとも「金沢城下」とか、「金沢」に何かを付けたのですか。 画像があれば教えてください。 よろしくお願いします。
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- 江戸時代。郡部の町と村の区別。
きわめて稀ですが、何郡何町(村ではない)という地名に出合います。 例えば、上野国利根郡月夜野町、同沼田町、芸州瀬戸田町(現広島県生口島)などです。 郡部の最小単位は「村」と思っていましたが、「町」もあるようです。 「町」とするか「村」とするかは、何か規準があるのですか。 よろしくお願いします。
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- kouki-koureisya
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- 関ヶ原の合戦後の論功行賞のその後。
論功行賞の結果、城を明け渡さねばならなくなった場合、明け渡しはうまくいったのでしょうか。 天下の大勢が決したのに武力で反抗するような家はなかったと思いますが、おめおめと明け渡してなるものかと、武力反抗した例があれば教えてください。 武力で反抗しないまでも、何か“いやがらせ”をした事例があれば教えてください。 例えば、城の井戸や排水溝に何か仕掛けたとか‐‐。 ただし、年貢米に関わるトラブルは除きます。 よろしくお願いします。
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- kouki-koureisya
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- 関ヶ原の合戦。敵・味方の判別。
どんな工夫をしていたのでしょうか。 元々、豊臣家に仕えていた多くの武将たちが、それぞれ数百・数千の兵を引き連れて、徳川方か石田方に分かれて参戦しています。 敵味方入り乱れての大混乱に陥ることは必至と予測して、個々の兵に、何か識別できる工夫をしていたのでしょうか。 よろしくお願いします。
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- kouki-koureisya
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- 徳川慶喜の護衛。
慶応4年7月、謹慎中の徳川慶喜は、水戸から駿河に移っています。 上野戦争があったのも、奥羽越列藩同盟が成立したのも5月です。 そのような時節、水戸から駿府までの道中は、何事もなく平穏だったのでしょうか。 道中を取り仕切ったのは誰ですか。 海路によったのですか。 よろしくお願いします。
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- kouki-koureisya
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- 明治元年頃の日本から欧州への連絡方法。
Wiki「渋沢栄一」によれば、 徳川昭武は、パリ万博とヨーロッパ各国訪問を終えた後、パリに留学するものの、大政奉還に伴い、慶応4年(1868年)5月には新政府から帰国を命じられ、9月4日(1868年10月19日)にマルセイユから帰国の途につき、同年11月3日(12月16日)に横浜港に帰国した、そうです。 新政府は、どんな方法で徳川昭武に帰国の指示・連絡をしたのですか、教えてください。 よろしくお願いします。
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- kouki-koureisya
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