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  • 登録日2012/09/26
  • 創価学会への公開質問です。

     よろしく願います。  §1 題目について   (1) なぜ題目は 南無妙法蓮華経というように インド語〔の漢語における音訳借用語〕と漢語訳語とで成っていますか?  (2) 法華経・寿量品第十六についての文底・独一なる本門(*1)を 日蓮氏が顕わしたのであるなら 日蓮氏の日常生活にもとづいた言葉で表現したほうが 自然なのではないでしょうか?  (3) そのほうが 《下種益》(*2)のためにもそしてあらたな《脱益》(*1)のためにも 仏法ないし本尊のチカラが自然に発揮されるようになると思われるのですが それは 下司の勘繰りにすぎませんか?   *1 文底独一本門・下種益・脱益 次を参照。    ◆ 創価学会公式サイト・教学基礎情報のうち     宗教を考える基準・五重の相対のうち(5) 種脱相対     http://www.sokanet.jp/kaiin/kisokyogaku/kijun/05.html  § 2 仏性について  (4) ひとは無条件に《一切衆生 悉有仏性》が当てはまり この仏性のハタラキがその人に現われ得る――こう言ってよろしいですか?  (5) それは 理の一念三千かつ事の一念三千(*2)という見方に立つゆえ――こう捉えてよろしいですか?   *2 一念三千(理のおよび事の)    ◆  http://www.sokanet.jp/kaiin/kisokyogaku/hori/01.html  § 3 他の宗派に対する態度について  (6) 《四箇格言》として《真言亡国 禅天魔 念仏無間 律国賊》といった規定は むろんその信徒たる人そのものはいづれも《うやまっている》のであるし あるいはつまりその人にそなわる仏性の開かれるようにと願っているのである――こう受け取ってよろしいですか?  (7) それぞれのオシエを批判しているのであるが それはいづれも 仏性については説いているが その発現のための方法を知らないか 間違っているからである――こう受け取ってよろしいですか?  § 4 仏法の実践とは  (8) ◆ 成仏のためには自ら謗法(ほうぼう:そしる。悪口を言う)(*3)を犯さないようにするだけでなく、他の謗法を責めていく折伏の実践が、謗法厳誡の肝要となります。    *3  謗法      ◆ http://www.sokanet.jp/kaiin/kisokyogaku/jissen/13.html  ☆ とありますが この《折伏》なる実践が これまでの全三章七項目のいづれの事柄にもかかわっているとまづ思われます。  それらの確認のもとに これまでの歴史において《折伏》をおこなう際に――その例示はしませんが―― 行き過ぎがあったと言えますか?  (9) 謗法にしろ何にしろ 《三類の強敵》(*4)や《三障四魔》(*5)についてはすべて《変毒為薬》(*6)すればよい。――こう捉えてよろしいですか?     *4  三類の強敵 http://www.sokanet.jp/kaiin/kisokyogaku/jissen/04.html     *5  三障四魔 http://www.sokanet.jp/kaiin/kisokyogaku/jissen/08.html     *6  変毒為薬 http://www.sokanet.jp/kaiin/kisokyogaku/jissen/11.html  (10) 第六天の魔王(*5)についても むしろそれは《広宣流布》のために出現する――それ自体は 負で言わば悪のだが――《善知識に変身させうる悪知識》である。こう捉えてよろしいですか?       (11) さらに具体的な実践についてお尋ねします。  ◆ (入会のための条件としての日常の具体的な実践) ~~~~   (創価学会について / 入会について / 入会するまで)    http://www.sokanet.jp/info/nyukai/index.html   3項目の実践    1.勤行・唱題を実践している    2.聖教新聞を3ヶ月以上購読している    3.定例の座談会に2回以上参加している   ~~~~~~~~~~~  ☆ つまり かつては これにもうふたつ加わっていたと思います。    4.折伏をする    5.大石寺へ行って真正のご本尊にまみえる  これが どうなったか? が知りたいのですが?  (12) 《5》の大石寺参詣うんぬんは 袂を分かったということのようですから くわしい事情やらはうかがいませんが (2)の《文底独一本門》によるなら 日蓮氏の書き表わした本尊ゆえに《下種益》のみなもとたるチカラが得られるのではないですか? つまり理の一念三千としてはよいかも知れませんが 単純にお尋ねして 事の一念三千としては こまったことなのではないですか?   ◆ (勤行について / 勤行とは) ~~~~    http://www.sokanet.jp/shinkaiin/gongyo.html  「御本尊」は、宇宙と生命を貫く根源の法である南無妙法蓮華経を悟られた御本仏・日蓮大聖人が、御自身の仏の生命をあらわされたものです。  その御本尊を信じ、読経し、題目を唱えていくとき、本来、私たちのなかに内在している仏界という最高の生命が湧きあらわれてきます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  (13) 《4》の折伏は あらためて(8)の引用文を参照してください。つまりそれがもとづく文章は 次のようだそうです。  ◆ (信心の基本 / 折伏) ~~~~   ・ 唯我が信ずるのみに非ず又他の誤りをも誡めんのみ    (立正安国論)  ~~~~~~~~~~~~~  ☆ つまり この折伏は 仕方などが変わったのですか?  不当にきびしいやり方はなくなった。とすれば それは どのように説明されていますか?  (14) つまり 《末法悪世》の時代の中でも 局面が違えば 《他のアヤマリをいましめる》そのやり方が変わってきますか?  (15) 折伏の仕方にも 《迹門と本門》(*7)の違いがあるのですか?     *7 迹門と本門 / 五重の相対(4)本迹相対     http://www.sokanet.jp/kaiin/kisokyogaku/kijun/04.html  (16) たとえ迹門の局面だという場合にも 同じくたとえ《第六天の魔王》なる敵であっても すべからく変毒為薬して行くのが ふつうなのではないですか?  《願兼於業》(*8)なのであって その敵対関係は 待ってましたとばかりに喜んで受け留め その相手のオシエを批判し その人をうやまう。こういうこととして受け取ってよろしいですか?   *8 願兼於業    http://www.sokanet.jp/kaiin/kisokyogaku/tenkan/04.html  (17) この《§ 4 仏法の実践とは》では その実践の方針が必ずしも定まってはいないのではないかという問いです。  一方で よき行動方針がありうるにもかかわらず そのように実践され得なくなっていないか?  他方で 単に行き過ぎと言うには 方針がはっきりしていないことにより 受け容れがたいものがあるように見受けられます。  これを称するに 要するに《事の一念三千》が その中身として ととのっていないのではないか? また 理としての整合性に欠けるところがあるのではないか?  この問いは いちいち例示せずに問うて いや そんなことはないですよという答えが返って来るのなら もう何も言わないという姿勢でのものです。  要するに 反省していますか? どのくらいですか? という問いです。