zorogane の回答履歴
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- ヘーゲルの「大論理学」本文冒頭の一節について
超難解で知られる(?)ヘーゲルの著書「論理学」(所謂「大論理学」)本文冒頭に以下のような一節があり、難儀しております。 (大意)「・・・純粋存在と純粋無とは同一のものである。真理であるのは・・・存在が無へと、無が存在へと・・・移行してしまっていることである。真理とは、この両者が区別され、分離されているのと同様にこの両者が分離されておらず、分離されえず、直接この両者がその反対のものにおいて消去されているということである。したがってこの両者の真理とは、一方が他方において直接的に消去されるというこの運動、生成である。・・・」 この文章から存在と無の生成の運動こそが真理であることを了解することは容易ですが・・・、 「純粋存在」(=純粋な無規定性であり、空虚な直観。) 「純粋無」(=完全な空虚、規定や内容の完全な欠落態。) ・・・と、わざわざ「純粋~」と記していることが僕にはかなり不可解なのです。 もしヘーゲルの言うように、「純粋」な存在や無というものがあるとすれば、そのものは「純粋」ゆえに他のものに生成、消去するはずはなく、生成、消去するものであれば、「純粋」なものではないはずではないでしょうか? いまどきヘーゲルなんぞの著書の末節に拘泥するのは馬鹿げているかもしれませんが、皆様のお考えをお聞かせください。