kabaddi-hus の回答履歴

全1件中1~1件表示
  • 次の文の要約をお願いいたします

    幼児の段階で期待される「自立」とは、手がかからなくなる事である。子供はまず大人(保護者)のために自立を求められるのだ。しかし、子供の方にも保護者の指示や助言を無視し、拒否して、やりたいことをやりたいようにやろうとする意志が芽生え、強まってもくる。この子供の側の「自立」の試みは、多くの場合大人の手を一層煩わす事になるだろう。矛盾にみちた自立の物語はこうして「いや!」の一言から始まる。 二歳から三歳にかけて、子供はなんでも自分一人でやりたくなる。母親の手を振り払い、シャツを着、ボタンをとめ、靴下をはく。これは手がかからなくなる喜ばしい第一歩のはずである。だが、忙しい朝の家庭ではこれが困りものなのである。ボタンがかけちがっていようと、靴下のかかとが上にまわってきていようと、子供は無頓着であるばかりか大得意だ。このままではみっともなくて保育園に連れて行けない。そう思う母親が手早く修正しようとすると、子供は激しく抵抗する。困難を乗り越えた努力に裏打ちされた子供の目には、自分の姿が決して「みっともない」と映ることはない。ボタンのかけちがいも、かかとの位置も大したことではないのだ。 僕はこのような星の相克を目のあたりにして、子供の過度の誇りに歪められた主観的な認識を不思議にもまた羨ましくも思ったものであった。この子の目には、かっこよく見えている。大人の目にそう見えないのは、こちらに問題があるのではないか。 子供の「ひとりでやれるもん!」は、自立のきざしでありながら、決して「手がかからなくなる」事ではないのである。人形のようにじっとしてさえいてくれれば。熟練の母親にすべてを任せた方が、ずっと効率的に事が運ぶ。しかし、人形ばかりもしていられないのだ。無数の失敗と混乱の繰り返しを通して、子供は個々の生活技術を習得し、いわゆる身辺自立をとげるのである。保護者は、将来の「手がかからない」状態を夢見て、複雑に手をかけなければならない。 ひとことで習熟というけれど、このゆるやかな成長を根っこの所で支えるのは、やはり子供自信の誇りに歪められた「見え方」なのではないか、と僕には思えてならない。 近所の小学生三、四人とハンバーグを作ろうということになった。玉ねぎをみじん切りにして、パン粉共々ひき肉とこね合わせなくてはならない。こねるのは子供達の得意分野である。玉ねぎを刻むのはフード・プロセッサーを使えばいいと思った。ところが、三年生の女の子が、「私、包丁で切れるよ。いつもやってるもん。やらして!」と言い張る。僕もやりたい、私もと皆が志願するので、任せることにした。 涙をポロポロ流し、口汚く玉ねぎをののしりながら、子供達は格闘し、やがて口々に叫んだ。「全部やっちゃったよ!」「おじさん、見て見て!」 僕は見た。ザルに盛られている玉ねぎはお世辞にもみじん切りとは言えなかった。一センチ角のもあったし、芯のあたりはほとんど原形であった。しかも床に盛大に撒き散らしてもいた。だが、涙と汗でくしゃくしゃになった子供たちの顔は勝ち誇ったように光り輝いていたのである。その乱切り状の成果が子供達の精一杯だからこそこれ以上はないみじん切りだったのだと思う。すっかり焼きあげてからも、半透明の玉ねぎは口の中でしっかりそれとわかったが、子供達は喜んで食べた。自画自賛、それも絶賛であった。 子供達の試行錯誤の連続は、失敗、反省、再挑戦、という単純なサイクルで成り立っているのではない。もしそうなら生活技術の習得としての自立は、苦業以外ではない。成功か失敗かを判断する基準そのものの成長、洗練という要素を含み持っているからこそ、それぞれの段階で、子供達は自分の出来栄えを評価し、主観的には成功につぐ成功として、誇り高く自立への道を歩み得るのである。 きちんとした服装やみじん切りを、客観的な単一のモデルとして前提にしてしまうと、そこにまで技術が到着していない子供の自立欲求に水を差してしまいかねない。技術の向上に伴い、自らの成果への眼差しも次第に精密になってくる。子供の自立を助けるとは、高水準のモデルを示す事によって子供の現段階の至らなさをあげつらうことではなく、現段階の精一杯を生きる子供達の自尊心に敬意を払うことなのである。自立は自尊心の発動であり、その実現の道なのだから。 長いですがよろしくお願いします。 出来れば今日中に回答を頂けるとありがたいです。

    • kk125
    • 回答数3